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003 【生き残った少女】

 神代家の屋敷には、まだ炎の匂いが残っていた。


 火は、すでに消えている。


 消防による消火活動も終わり、焼け焦げた屋敷の周囲には、現場を確認するための人間が集まっていた。


 だが。


 そこにいるのは、消防や警察だけではなかった。


 黒い服を着た男たち。


 魔力を帯びた装備を身につけた者たち。


 精霊使いと思われる者たち。


 そして――


 天城家の人間。


 普段なら表の世界に姿を見せることのない者たちが、神代家の敷地を埋め尽くしていた。


 誰もが、言葉少なだった。


 あまりにも異様な光景だったからだ。


 焼け落ちた屋敷。


 崩れた壁。


 黒く煤けた庭。


 そして。


 そこに漂う、無数の火の精霊。


 普段なら神代家の象徴ともいえる存在だった。


 だが今は、その赤い光がかえって不気味だった。


「……これほどとはな」


 焼け焦げた屋敷を見つめながら、一人の老人が呟いた。


 天城家当主――剛志。


 啓太の祖父だった。


 その隣には、啓太の父・和臣が立っている。


 さらにその周囲には、天城家の家族と関係者が集まっていた。


 誰もが、目の前の惨状を見つめている。


 天城家は、古くから日本の精霊使いを取り締まることを生業としてきた。


 精霊使い同士の争い。


 精霊を利用した犯罪。


 一般人には対処できない事件。


 そうした出来事を、人知れず処理してきた一族。


 だからこそ。


 今回のような異常事態が起きれば、天城家だけではなく、組織の人間や分家筋の者たちまで現場へ集まる。


 しかし――


 今回ばかりは。


 誰もが、すぐには動けなかった。


 神代家。


 世界でも五指に入るほどの火の精霊使いの名家。


 代々、強大な炎術師を輩出してきた一族。


 そして。


 守護精霊――鳳凰を受け継いできた家。


 その神代家が。


 一夜にして、壊滅した。


「父さん」


 和臣が、静かに口を開いた。


「状況を説明します」


 その場にいた全員が、彼へ視線を向ける。


「現時点で確認できている限り、神代家の一族は――」


 和臣の言葉が、一瞬だけ止まる。


 それでも。


 感情を押し殺すように、続けた。


「……恵那ちゃんを除いて、全員死亡しています」


 沈黙。


 誰も答えなかった。


 神代家が、一夜で消えた。


 それは単なる一家惨殺ではない。


 精霊使いの世界そのものを揺るがす事件だった。


「偶然とは考えにくいな」


 剛志が呟く。


「はい」


 和臣が頷く。


「屋敷内の状況から見ても、何者かが神代家を明確に狙った可能性が高いと考えています」


「犯人は?」


「……まだ分かっていません」


「そうか」


 剛志は、焼け跡から目を離さなかった。


 怒り。


 悲しみ。


 そして、僅かな警戒。


 様々な感情が、その顔に浮かんでいた。


「恵那は?」


「生存しています」


「話は聞けたのか?」


「……綾香が事情を聞いています」


「そうか」


 剛志は目を閉じた。


 そして、短く息を吐く。


「何か分かったことは?」


「それが……」


 和臣の表情が曇る。


「事件について、ほとんど覚えていないようです」


「覚えていない?」


「はい」


「意図的に隠している様子は?」


「ありません」


 和臣は首を横に振った。


「おそらく……あまりにも強い衝撃を受けたためだと思われます」


 まだ幼い少女だ。


 目の前で家族を失った。


 その記憶を。


 幼い心が、簡単に受け止められるはずがない。


「……そうか」


 剛志は、それ以上何も言わなかった。


 ただ。


 拳を、静かに握り締めた。


 ◇ ◇ ◇


 屋敷の外。


 一台の車が停まっていた。


 その後部座席には、二人の子供が座っている。


 啓太と恵那。


 啓太は、ずっと恵那の手を握っていた。


 何も話さない。


 恵那も話さない。


 ただ。


 手だけは離さなかった。


 啓太には、どうしていいのか分からなかった。


 恵那を励ます言葉も知らない。


 事件の犯人を探すこともできない。


 まして。


 家族を失った少女の気持ちを理解することなんてできない。


 それでも――


 この手だけは。


 離したくなかった。


「……啓太くん」


 しばらくして、恵那が小さな声で呼んだ。


「ん?」


「私……」


 恵那の声が震える。


「何があったのか……分からないの」


「……うん」


「パパがいて……」


 そこで言葉が止まる。


「ママもいて……」


 恵那は眉間に皺を寄せた。


 必死に記憶を探している。


「そのあと……」


 頭を抱える。


「……分からない」


 啓太は、しばらく恵那を見つめた。


 そして。


「無理に思い出さなくていいよ」


「でも……」


「思い出せなくてもいい」


 啓太は、握っていた手に少しだけ力を込めた。


「今は、休もう」


 恵那が顔を上げる。


「……怖いの」


「うん」


「何も分からないのが……怖い」


「うん」


 啓太は否定しなかった。


「俺も怖い」


 恵那が目を見開く。


「……啓太くんも?」


「ああ」


 啓太は正直に答えた。


「何が起きたのか分からないから」


 少しだけ間を置いて。


「でも……」


 啓太は、恵那の手を握り直した。


「一人じゃないよ」


「……」


「俺がいるから」


 恵那は、啓太を見る。


「……本当に?」


「うん」


「ずっと?」


 その言葉に。


 啓太は少しだけ考えた。


 そして。


「……ずっと」


 頷いた。


「絶対」


 まだ幼い少年の言葉だった。


 何ができるのかも分からない。


 犯人が誰なのかも分からない。


 自分が何の精霊に選ばれるのかすら、まだ分からない。


 それでも。


 啓太には、ひとつだけ決めていることがあった。


 ――この少女を、一人にしない。


 そのとき。


 車のドアが開いた。


「……啓太」


 顔を上げる。


 そこに立っていたのは、啓太の姉――綾香だった。


 綾香は車内へ入り、二人の向かいに腰を下ろす。


 普段の優しい姉の表情とは、少し違っていた。


 精霊使いとして。


 そして天城家の人間として。


 事件の生存者から話を聞くための顔だった。


「恵那ちゃん」


「……はい」


「少しだけ、話を聞かせてもらってもいいかな?」


 恵那は不安そうに啓太を見る。


 啓太は何も言わなかった。


 ただ。


 握っていた手に、少しだけ力を込める。


「大丈夫だよ」


 その言葉に。


 恵那は小さく頷いた。


「……うん」


 綾香は二人の様子を見てから、ゆっくりと口を開いた。


「まず、事件が起きる前のことを教えてくれる?」


「……事件の前?」


「うん。何をしていたのか。誰と一緒にいたのか。覚えている範囲でいいから」


 恵那は俯いた。


「……パパと、ママがいました」


「うん」


「いつもと同じでした」


「その後は?」


「……」


 恵那が黙り込む。


 小さな手が震え始めた。


「恵那ちゃん?」


「……分からない」


「何か聞こえた?」


「……分からない」


「誰かを見た?」


「……分からないです」


「何か、覚えていることは?」


「…………」


 恵那は目を閉じた。


 必死に思い出そうとしている。


 だが――


「……怖い」


 小さな声だった。


 綾香の表情が変わる。


「無理しなくていいよ」


「でも……」


「大丈夫」


 綾香は優しく言った。


「今すぐ全部思い出さなくてもいいから」


 恵那は俯いたまま、啓太の手を握り直した。


「……ごめんなさい」


「謝らなくていいよ」


 綾香は首を横に振った。


「恵那ちゃんが悪いことをしたわけじゃないんだから」


 車内に沈黙が落ちる。


 綾香は、それ以上の事情聴取を続けることをやめた。


 今の恵那には無理だ。


 これ以上、無理に記憶を掘り起こせば――


 事件の真相に近づくどころか。


 この少女の心そのものを壊してしまうかもしれない。


「今日はここまでにしよう」


「……はい」


 恵那が小さく頷く。


 綾香は啓太を見る。


 弟は、ずっと恵那の手を握ったままだった。


 綾香は何も言わなかった。


 ただ。


 この二人を、この先どうするのか。


 それだけは、すぐに考えなければならない。


 ◇ ◇ ◇


 綾香が車から降りる。


 すると、外で待っていた和臣が近づいてきた。


「どうだった?」


「……ほとんど何も」


 綾香は首を横に振った。


「事件の直前までは多少覚えてる。でも、その後は完全に途切れてる」


「そうか……」


「今は、これ以上聞かないほうがいいと思う」


「俺もそう思う」


 和臣は車の中を見る。


 啓太と恵那が並んで座っている。


 啓太は、まだ恵那の手を握っていた。


「啓太が……」


 綾香が呟く。


「恵那ちゃんを引き取りたいと思っているみたい」


「……だろうな」


 和臣は小さく息を吐いた。


「さっきからずっと、あの子のそばを離れない」


「どうするの?」


「まだ決められない」


 和臣の表情が険しくなる。


「恵那ちゃんは、神代家唯一の生き残りだ」


「うん」


「天城家が勝手に引き取って終わる話じゃない」


 神代家の血。


 守護精霊・鳳凰。


 神代家に関わる者たち。


 精霊使いを取り締まる組織。


 そして。


 今回の事件を起こした犯人。


 考えなければならないことは、あまりにも多い。


「それに……」


 和臣は、焼け落ちた神代家を見つめる。


「犯人が、まだ分かっていない」


「……」


「もし恵那さんが狙われたら?」


 綾香の表情が変わった。


 確かに。


 恵那は神代家最後の一人。


 そして、鳳凰を受け継ぐ可能性を持つ少女だ。


 もし今回の事件に明確な目的があったのなら――


 恵那が生きている限り。


 事件は、まだ終わっていない可能性がある。


 ◇ ◇ ◇


「……父さま」


 車の中から、啓太の声が聞こえた。


 和臣が振り返る。


「どうした?」


「恵那、うちで暮らせないの?」


 和臣は答えに詰まった。


「……まだ決まってない」


「なんで?」


「いろいろな人と相談しないといけないからだ」


「でも……」


 啓太は恵那を見る。


 恵那は眠っていた。


 泣き疲れたのだろう。


 小さな身体を丸めるようにして眠っている。


 その手は。


 眠ったまま啓太の手を握っていた。


「一人にしたら……かわいそうだよ」


 啓太の声が震える。


「うん」


「俺が一緒にいる」


 和臣は息子を見る。


「俺、もっと強くなるから」


 啓太は小さな拳を握った。


「恵那を守れるくらい、強くなる」


 和臣は何も言わなかった。


 まだ啓太は、どの精霊にも選ばれていない。


 天城家の中で。


 自分だけが、まだ精霊使いではない。


 それでも。


 この瞬間の啓太には、初めて明確な願いが生まれていた。


 強くなりたい。


 恵那を守りたい。


 そのためなら。


 何だってできるくらいに。


 ◇ ◇ ◇


 その日の夜。


 天城家では、家族を集めた話し合いが行われていた。


 祖父・剛志。


 祖母・千代。


 父・和臣。


 母・美和。


 兄・恒一。


 姉・綾香。


 次男・玲司


そして、啓太もそこにいた


 全員が、一つの問題について話し合っていた。


 ――神代恵那を、どうするのか。


「まず、恵那ちゃん本人の意思を尊重するべきでしょう」


 美和が言った。


「もちろんだ」


 和臣が頷く。


「だが、今の恵那に選択を迫るのは酷だ」


 剛志が続ける。


「それに、神代家の血を引く最後の一人だ。周囲が黙ってはいないだろう」


「……はい」


 天城家が保護することを望む者。


 神代家の親族に預けるべきだと考える者。


 組織の管理下に置くべきだと考える者。


 様々な意見が出る。


 簡単には、まとまらない。


 そんな中――


「俺は、恵那と一緒にいたいです」


 啓太が言った。


 全員の視線が集まる。


「うちで暮らせばいい」


 幼い啓太は、まっすぐに祖父を見る。


「だって、一人じゃかわいそうだから」


 誰も、すぐには答えなかった。


 啓太の言葉は。


 あまりにも単純だった。


 だからこそ。


 誰も否定できなかった。


 剛志は、しばらく啓太を見つめる。


 やがて。


「……そうだな」


 静かに呟いた。


 その声には、どこか優しさがあった。


 ◇


 その夜。


 天城家の客間。


 布団の上で、恵那は眠っていた。


 まだ、時折小さく眉を寄せている。


 夢の中でも。


 何かから逃げているのかもしれない。


 その隣には、啓太が座っていた。


「……」


 眠っている恵那の手を、啓太はそっと握る。


 自分に何ができるのか。


 まだ分からない。


 精霊に選ばれていない。


 強くもない。


 犯人を捕まえることもできない。


 それでも。


「……大丈夫」


 眠る少女に、啓太は小さく呟いた。


「俺がいるから」


 その言葉は。


 誰かに聞かせるためのものではなかった。


 自分自身に言い聞かせるための言葉だった。


 ◇ ◇ ◇


 同じ頃。


 神代家の焼け跡。


 そこには、血肉を持たない守護精霊、鳳凰が静かに佇んでいた。


 傷ついた身体。


 弱々しく揺れる炎。


 それでも。


 その瞳には、消えない光が宿っている。


 鳳凰は、遠く離れた天城家の方向を見つめていた。


 その先にいるのは――


 神代家最後の少女。


 そして。


 その少女の手を握る少年。


 まだ、何の精霊にも選ばれていない少年。


 鳳凰は、静かに目を細めた。


 まるで。


 何かを見定めるかのように。


 だが。


 この時、誰も知らなかった。


 この少年が。


 やがて精霊使いの世界を大きく変えることになることを。


 そして――


 神代家を襲った惨劇が。


 まだ、終わっていないことを。


 生き残った少女。


 選ばれなかった少年。


 傷ついた守護精霊。


 そして。


 未だ姿を見せない、事件の犯人。


 それぞれの運命が交差するその時まで。


 物語は、静かに動き始めていた。

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