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002 【神代の少女と天城の少年】

 神代家の屋敷には、いつも火の精霊がいた。


 庭の灯籠。


 台所の火。


 冬になれば暖炉。


 そして、陽の光を浴びて咲く赤い花。


 そこにある小さな熱にさえ、無数の火の精霊が集まっている。


 赤や橙色に揺らめく、小さな光の粒。


 普通の人間には見ることのできない存在たちが、屋敷の中を自由に飛び回っていた。


「見て、啓太くん!」


 庭から少女の声が響く。


「え?」


 振り返った啓太の目の前で、恵那が両手を広げた。


 すると――


 少女の周囲を漂っていた火の精霊たちが、一斉に集まった。


 赤い光が、恵那の周囲を渦巻く。


 小さな光の粒が一つ、また一つと重なり――


 やがて。


 ぽっ、と。


 恵那の手のひらに、小さな炎が灯った。


「すごいでしょ!」


 恵那は嬉しそうに笑った。


「うん。すごい」


 啓太も笑う。


 けれど。


 その胸の奥には、ほんの少しだけ別の感情があった。


 ――いいな。


 自分も、あんなふうに精霊を扱ってみたい。


 それは、啓太がずっと抱えている願いだった。


 恵那は、すでに火の精霊に選ばれている。


 まだ幼いとはいえ、精霊使いとしての才能は、誰の目にも明らかだった。


 一方。


 啓太には、何もない。


 精霊は見える。


 見鬼の才もある。


 魔力だって扱える。


 けれど――


 どの属性の精霊からも、選ばれていなかった。


「啓太くんもやってみる?」


「……うん」


 啓太は頷いた。


 目を閉じる。


 ゆっくりと息を吸う。


 身体の中心に魔力を集める。


 そして――


 周囲にいる精霊たちへ、意識を向けた。


 火。


 水。


 風。


 土。


 光。


 闇。


 様々な属性の精霊が、この世界には存在している。


 けれど、人間が選ぶことはできない。


 人間が精霊を選ぶのではない。


 精霊が、人間を選ぶ。


 それが、精霊使いの世界の絶対的な原則だった。


「…………」


 啓太は待った。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 それでも――


 何も起こらない。


 精霊たちは、啓太の周囲を漂うだけだった。


「……またか」


 小さく呟く。


「啓太くん……」


 恵那が心配そうに顔を覗き込んだ。


「大丈夫だよ」


 啓太は笑った。


「まだ選ばれてないだけだから」


「うん」


 恵那も頷く。


「きっと、そのうち選ばれるよ」


「……そうだな」


 啓太は笑った。


 笑ってみせた。


 けれど――


 本当は、少しだけ悔しかった。


 天城家。


 精霊使いの名門。


 兄も、姉も、幼い頃から精霊に選ばれ、一線で活躍している。


 自分も、同じ天城家の人間だ。


 だからこそ。


 負けたくなかった。


 置いていかれたくなかった。


 啓太は努力した。


 朝は魔力操作。


 昼は勉学。


 時間があれば武術の鍛錬。


 疲れて眠る直前まで、自分の身体と魔力を鍛え続けた。


 それでも――


 精霊は啓太を選ばなかった。


 だからこそ。


 神代家に来て、恵那と遊ぶ時間だけは、啓太にとって特別だった。


「啓太くん!」


「待てって!」


 庭を走る。


 木陰に隠れる。


 鬼ごっこをする。


 精霊を眺める。


 時には、精霊たちに話しかけてみる。


 そんな他愛のない時間。


 精霊使いの名家に生まれた二人にとって――


 それは、数少ない「普通の子供」でいられる時間だった。


「捕まえた!」


「うわっ!」


 恵那が啓太の背中に飛びつく。


「ずるい!」


「ずるくない!」


「魔力使っただろ!」


「ちょっとだけ!」


「それをずるいって言うんだよ!」


「じゃあ啓太くんも使えばいいじゃん!」


「そういう問題じゃない!」


 二人の笑い声が庭に響く。


 その光景を、屋敷の大人たちは微笑ましそうに眺めていた。


 誰もが思っていた。


 この時間が、ずっと続けばいい。


 この二人が、これからもこうして笑っていられればいい。


 ――そんな未来を。


 二人も、疑っていなかった。


 永遠など存在しないことを。


 この時の二人は、まだ知らなかった。


 ◇


 その日は、いつもと違っていた。


「啓太」


 父親の声が、いつもより低かった。


「今日は神代家へ行く」


「恵那のところ?」


「ああ」


 啓太は嬉しそうに顔を上げた。


「じゃあ、恵那と遊べる?」


「……たぶんな」


 父親は、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。


 その小さな変化に。


 啓太は気付かなかった。


 神代家へ向かう車の中。


 啓太は窓の外を眺めながら、恵那と何をして遊ぼうか考えていた。


 鬼ごっこ。


 かくれんぼ。


 前に途中で終わってしまったカードゲーム。


 そんなことを考えているうちに――


 車は神代家へ到着した。


「……あれ?」


 最初に違和感を覚えたのは、啓太だった。


 静かすぎる。


 いつもなら、門をくぐった時点で誰かの声が聞こえる。


 使用人の声。


 家族の話し声。


 庭を飛び回る火の精霊たち。


 なのに。


 今日は――


 何も聞こえない。


「父さま?」


 返事はなかった。


 父親は、神代家の屋敷を見つめていた。


 その表情から、先ほどまでの穏やかさが消えている。


「……中へ入るぞ」


 低い声だった。


 啓太も黙って後を追った。


 玄関を開ける。


 ――静寂。


 広い屋敷の中に、人の気配がない。


「……恵那?」


 啓太が呼びかける。


 返事はない。


「恵那!」


 今度は大きな声で叫んだ。


 やはり、返事はなかった。


 啓太の胸に、嫌な予感が走る。


「……どこにいるんだよ」


 廊下を走る。


 角を曲がる。


 その瞬間――


 赤い光が、視界を埋め尽くした。


「……何だ、これ」


 火の精霊。


 大量の火の精霊が、屋敷の中を漂っている。


 それも、尋常な数ではない。


 天井。


 廊下。


 階段。


 部屋の中。


 屋敷そのものが、炎に包まれている。


 赤い光が、無数に揺らめいていた。


 だが――


 熱くない。


 火の精霊たちが何かを燃やしているわけでもない。


 ただ、そこにある炎に集まっている。


 何かを待つように。


「……いったい何が」


 父親が呟いた。


 その声を聞いた瞬間。


 啓太は初めて、父親が怯えていることに気付いた。


「啓太、俺の後ろへ!」


 鋭い声が響く。


 啓太は身体を強張らせる。


 何が起きているのか分からない。


 けれど。


 これは、いつもの神代家ではない。


 そして――


 屋敷の奥から。


 かすかな音が聞こえた。


「……?」


 啓太が耳を澄ます。


 聞こえる。


 誰かが泣いている。


 小さな。


 小さな泣き声。


「……恵那?」


 啓太は走った。


「啓太!」


 父親の声が背後から飛んでくる。


 それでも、啓太は止まらなかった。


 廊下を抜ける。


 階段を駆け上がる。


 そして――


「恵那!」


 そこに。


 少女がいた。


「……啓太くん……」


 恵那だった。


 震えている。


 服は汚れていた。


 髪も乱れている。


 頬には涙の跡が残っている。


「どうしたんだよ……?」


 啓太は駆け寄った。


 恵那は答えない。


 ただ、震える唇を動かす。


「……みんな……」


「え?」


「パパも……」


 声が震える。


「ママも……」


 それ以上は、言葉にならなかった。


 啓太は恵那の顔を見つめた。


 何が起きた?


 どうして泣いている?


 どうして誰もいない?


 その答えを知ろうとして――


 啓太は、廊下の奥を見た。


 そして。


 言葉を失った。


 そこに何があったのか。


 啓太には、理解できなかった。


 ただ。


 大人たちの表情を見れば、それだけで十分だった。


 誰も口を開かない。


 誰も恵那に真実を告げようとしない。


 けれど。


 その沈黙こそが、何より雄弁だった。


 神代家は――


 襲われた。


 世界でも五指に入る火の名家。


 代々、強大な精霊使いを輩出してきた一族。


 そして。


 鳳凰を守護精霊として受け継いできた一族。


 その神代家が。


 一夜にして、壊滅した。


 生き残ったのは――


 神代恵那、ただ一人。


「……恵那」


 啓太は少女の前に立った。


 何を言えばいいのか分からない。


 大丈夫。


 そんな言葉は、とても言えなかった。


 大丈夫なはずがない。


 今の恵那に、「大丈夫」なんて言えるはずがない。


 だから。


 啓太は何も言わずに、手を差し出した。


「……帰ろう」


 恵那が、差し出された手を見る。


「……帰る?」


「ああ」


「……どこに?」


 啓太は答えられなかった。


 恵那にとって、「帰る場所」はもうない。


 そのことに気付いた瞬間。


 啓太の胸が、締め付けられた。


「……俺の家に」


 恵那が顔を上げる。


「天城家に帰ろう」


 恵那の瞳から、また涙がこぼれた。


 そして――


 小さな手が。


 啓太の手を握った。


「……うん」


 その瞬間だった。


 ――ゴォォォォォッ!!


 屋敷の奥から、轟音が響いた。


「なっ……!」


 啓太が振り返る。


 赤い光が、廊下の奥から一気に溢れ出した。


 大量の火の精霊が、一斉に舞い上がる。


 そして――


 巨大な炎が、天井を突き破るように燃え上がった。


「啓太、下がれ!」


 大人たちが叫ぶ。


 だが。


 啓太は動けなかった。


 炎の中に――


 何かがいる。


 巨大な翼。


 燃え盛る身体。


 長い尾羽。


 炎そのものをまとったような姿。


 鳥。


 いや。


 ただの鳥ではない。


 神代家に代々受け継がれてきた、火の守護精霊。


 ――鳳凰。


「……鳳凰……?」


 誰かが呟いた。


 巨大な精霊が、ゆっくりと炎の中から姿を現す。


 その身体には、無数の傷が刻まれていた。


 翼の炎も弱々しく揺らめいている。


 それでも。


 その瞳だけは、消えていなかった。


 強い意志の光が宿っている。


 鳳凰は、ゆっくりと恵那へ近づいた。


 啓太は、とっさに恵那の前へ出ようとした。


 しかし――


「……啓太くん」


 恵那が、握った手を離さなかった。


 そして。


 鳳凰は恵那の前で立ち止まった。


 巨大な翼を静かに畳み――


 ゆっくりと。


 頭を垂れた。


「…………」


 誰も言葉を発しなかった。


 啓太にも、この光景の意味は分からない。


 ただ一つだけ。


 分かることがあった。


 恵那は、この日。


 家族を失った。


 家を失った。


 これまで当たり前だった日常を、すべて失った。


 そして同時に。


 神代家最後の一人として――


 生きていかなければならなくなった。


 啓太は、握った手に力を込めた。


「……俺がいるから」


 恵那が顔を上げる。


「……啓太くん?」


「俺が一緒にいる」


 それは。


 まだ幼い少年の言葉だった。


 何ができるのかも分からない。


 敵が誰なのかも分からない。


 自分が、いつ精霊に選ばれるのかも分からない。


 それでも。


 啓太は約束した。


「だから……一人にならなくていい」


 恵那の目から、また涙がこぼれた。


 その涙を見ながら。


 啓太は、もう一度だけ手を握り直した。


 ――この少女を、一人にはしない。


 それだけは。


 何があっても守る。


 それが、この時の啓太にできる唯一のことだった。


 そして。


 この日を境に――


 天城啓太の人生は、大きく変わり始めた。


 まだ誰も知らない。


 神代家を襲ったこの事件が。


 やがて精霊使いの世界そのものを揺るがす――


 巨大な事件の始まりだったことを。

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