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001 【プロローグ】

三月。


 冬の冷たさが少しずつ和らぎ始めた頃。


 精霊塾の校門前には、朝から多くの受験生とその家族が集まっていた。


 校舎の壁には、一枚の大きな紙が張り出されている。


 ――合格者受験番号一覧。


 その前には、人の波ができていた。


「……あった!」


 人混みの中から、弾んだ声が聞こえる。


 恵那は張り出された紙を指で追いながら、自分の受験番号を探していた。


「えっと……これ……じゃない。こっち……」


 隣では、夢宮アリカも必死に番号を探している。


「恵那ちゃん、あった!?」


「まだ……」


「私もまだ……!」


 二人は同時に息を呑んだ。


 受験番号を一つずつ確認していく。


 そして――。


「あ……」


 恵那の指が止まった。


 そこに、自分の番号があった。


「……あった」


「本当!?」


 アリカが恵那の横から覗き込む。


「……本当だ」


 恵那の表情が、ほんの少し緩んだ。


「合格……してる」


「やったぁぁぁ!」


 アリカが思わず恵那の手を握る。


「恵那ちゃん、おめでとう!」


「アリカもだよ」


「え?」


「あなたの番号もあるよ」


「……え?」


 アリカが慌てて自分の番号を探す。


 そして――。


「あっ!」


 今度はアリカ自身が声を上げた。


「本当だ! あった!」


「おめでとう、アリカ」


「恵那ちゃんも!」


 二人は顔を見合わせる。


 そして、自然と笑った。


「……頑張ったね」


「うん」


「一緒に勉強したり……」


「試験の前に励まし合ったり……」


「大変だったけど」


「うん。でも……楽しかった」


 二人はもう一度、張り出された合格者一覧を見る。


 そこには確かに、自分たちの名前があった。


 精霊塾。


 精霊使いや魔術師なら、誰でも入学できる場所ではない。


 国立の教育機関。


 精霊使いとしての能力だけではなく、知性、教養、そして品格。


 将来、精霊や魔術に関わる者を育てる場所だからこそ、求められる基準は高い。


 この世界では、精霊使いや魔術師の家系に生まれた者も少なくない。


 名家の子供たちが集まる世界でもある。


 だが――。


 家柄だけで合格できるほど、精霊塾の試験は甘くない。


 毎年、名家の出身者であろうと、不合格になる者は決して少なくなかった。


 だからこそ。


 この合格には、二人自身の努力という確かな意味がある。


「……これから、精霊塾なんだね」


 アリカが呟く。


「そうね」


 恵那も校舎を見上げる。


「また、忙しくなりそう」


「うん!」


 アリカは嬉しそうに笑った。


「でも、楽しみ!」


「……そうだね」


 恵那も微笑む。


 二人は校門を出る。


 並んで歩きながら、これから始まる新しい生活について話した。


 どんな授業があるのか。


 どんな先生がいるのか。


 どんな友達ができるのか。


 そんな他愛もない話をしながら、二人は帰路についた。


 しばらく歩いたところで――。


 恵那がふと思い出したようにスマートフォンを取り出した。


「……そうだ」


「どうしたの?」


「啓太くんに知らせるのを忘れてた」


「ああ!」


 アリカも頷く。


「啓太さんなら絶対喜んでくれるよ!」


「うん」


 恵那は画面を開く。


 そして、少しだけ考えてから、文字を打ち始めた。


 ――啓太くん。


 ――合格してた。


 短い文章だった。


 けれど、その文字を見つめる恵那の顔には、嬉しさが滲んでいた。


 送信。


「……送った」


「返信、すぐ来るかな?」


「どうかな」


 そう言いながらも、恵那はスマートフォンを手にしたままだった。


     *


 その頃。


 別の場所でも、合格発表を見つめている少年がいた。


 天城啓太。


 その手には、受験票が握られている。


「……」


 掲示された番号を、上から順番に追っていく。


 自分の受験番号。


 何度も確認した番号。


「……ない」


 一瞬、胸がざわついた。


 だが――。


「……あった」


 啓太の目が止まる。


 確かに、自分の番号があった。


「……よかった」


 小さく息を吐く。


 肩の力が抜けた。


「天城さん!」


 その声に振り返る。


 白石アリーチェが、嬉しそうな顔でこちらへ駆けてくる。


「ありました!」


「アリーチェも?」


「はい!」


 アリーチェは掲示板を指差した。


「ほら、私の番号です!」


「……本当だ」


「合格です!」


 次の瞬間。


 アリーチェが啓太に抱きついた。


「やりました天城さん!」


「わっ……!」


 突然のことに、啓太は目を丸くする。


「ちょ、ちょっと、アリーチェ……」


「だって嬉しいんです!」


 アリーチェは満面の笑みを浮かべていた。


 啓太も、つられて笑う。


「……そうだね」


 だが――。


 啓太にとって、この合格までの道のりは決して簡単なものではなかった。


 そもそも啓太は、精霊大学への進学に積極的だったわけではない。


 もっと早く強くなりたかった。


 現場に出て、実戦経験を積みたかった。


 そして何より――。


 神代家を襲い、恵那の家族を奪った犯人を捕まえたかった。


 そのためなら。


 大学で何年も学ぶ時間すら、惜しいと思っていた。


 そんな啓太に、美和は一度、静かに話をした。


 母として。


 そして、一人の人生の先輩として。


     *


「啓太くん」


「はい」


「恵那ちゃんを助けることだけが、あなたの人生になってはいけません」


「……」


 啓太は黙って母を見る。


「恵那ちゃんの家族を殺した犯人を捕まえたいのでしょう?」


「……はい」


「そのために、少しでも早く強くなりたい」


「はい」


「だから、大学へ行く時間が惜しい」


「……そうです」


 美和は、そんな啓太を責めなかった。


 ただ、優しく微笑んだ。


「でもね、啓太くん」


「……はい」


「あなた自身の人生を、そんなふうに考えてはいけません」


 啓太が黙る。


「恵那ちゃんを守りたい」


「犯人を捕まえたい」


「その気持ちは大切です。母さまも否定しません」


 美和は、まっすぐに啓太を見る。


「でも、それだけがあなたの人生ではないでしょう?」


「……」


「友達と笑ったり」


「好きなことを見つけたり」


「勉強したり、遊んだり」


「誰かと出会ったり」


「将来、どんな仕事をするのか考えたり……」


 一つ一つの言葉を、ゆっくりと口にする。


「そういうことも全部、あなたの人生です」


 啓太は何も言わない。


 美和は続けた。


「犯人を捕まえるために、それらを全部後回しにする必要なんてありません」


「……母さま」


「あなたには」


 美和の声が、少しだけ柔らかくなる。


「あなた自身の人生を歩んでほしい」


「……」


「恵那ちゃんを守ることも大切」


「犯人を捕まえることも大切」


「でも、そのために啓太くん自身が幸せになることを諦める必要はないのよ」


 その言葉が、啓太の胸に残った。


 自分が強くならなければ。


 犯人を捕まえなければ。


 恵那を守らなければ。


 ずっと、そんなことばかりを考えていた。


 けれど。


 自分の人生について考えたことは、ほとんどなかった。


 美和の言葉を聞いたその日。


 啓太は決めた。


 精霊大学へ進もう、と。


 強くなることを諦めるわけではない。


 犯人を追うことを諦めるわけでもない。


 それでも――。


 自分自身の人生を歩くことも、諦めない。


     *


「天城さん?」


 アリーチェの声で、啓太は我に返った。


「どうしました?」


「いや……」


 啓太は掲示板を見る。


 自分の番号。


 そして、アリーチェの番号。


 どちらもそこにある。


「……大学か」


 その言葉を口にすると、不思議な感覚がした。


 少し前までは、行く必要などないと思っていた場所。


 今は――。


 自分がこれから進む場所だ。


 そのとき。


 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。


「……?」


 啓太が取り出す。


 画面に表示された名前を見て、目を細める。


 神代恵那。


 メールを開く。


 そこには短い文章が書かれていた。


 ――啓太くん。


 ――私とアリカ、二人とも合格してた。


 啓太は、思わず笑った。


「……よかった」


「神代さんですか?」


「うん」


「合格されたんですね!」


「そうみたい」


 啓太は少し考えてから、返信を打つ。


 ――恵那、アリカ。


 ――合格おめでとう。


 ――二人とも、本当によく頑張ったね。


 そこで一度、指が止まる。


 そして、もう一行加えた。


 ――俺も合格したよ。


 送信。


 数秒後。


 既読がついた。


 啓太はスマートフォンを見つめながら、静かに笑った。


 春が来る。


 恵那とアリカには、精霊塾での新しい日々が始まる。


 そして啓太にも。


 精霊大学で、新しい人生が始まる。


 それは、犯人を追うためだけの道ではない。


 誰かを守るためだけの道でもない。


 友達と出会い。


 学び。


 笑い。


 悩み。


 そして、自分自身の未来を探していく。


 ――天城啓太の人生。


 その新しい一歩が、今、静かに始まろうとしていた。


◇ ◇ ◇



 春の気配が少しずつ近づいてきた頃。


 鬼怒川温泉駅を降りた六人は、目の前に広がる景色を眺めていた。


「わぁ……!」


 アリカが思わず声を漏らす。


 鬼怒川温泉。


 山々に囲まれた渓谷の町には、まだ冬の名残が残っていた。


 けれど、冷たい空気の中には、どこか春を感じさせる柔らかさも混じっている。


 眼下には、深い渓谷の間を鬼怒川が流れていた。


 雪解けの水を含んだ川は勢いを増し、岩肌にぶつかりながら、低く力強い音を響かせている。


 川沿いには温泉旅館やホテルが立ち並び、ところどころから白い湯気が立ち上っていた。


 山の緑。


 切り立った岩壁。


 川のせせらぎ。


 そして、温泉街特有のどこか懐かしい雰囲気。


「なんだか、遠くまで来たって感じがするね」


 風太が呟いた。


「うん!」


 アリカが笑う。


「卒業旅行って感じ!」


「まあ、卒業って言っても……」


 啓太が苦笑する。


「俺たちはこれから大学だけどな」


「細かいことはいいのよ!」


 豪華が胸を張った。


「こういうのは気分が大事なんだから!」


「それはそうかも」


 啓太が笑う。


 六人は荷物を持って、宿へ向かった。


 今回の宿泊先は――。


 鬼怒川大谷ホテル。


 鬼怒川の渓谷を望む場所に建つ、落ち着いた雰囲気のホテルだった。


 館内へ足を踏み入れた瞬間、六人は思わず足を止める。


「……すごい」


 恵那が小さく呟いた。


 館内には和の落ち着きがありながら、洋の洗練された雰囲気も漂っている。


 アンティーク調の家具や美術品がさりげなく置かれ、派手すぎないのに、どこか特別な場所に来たことを感じさせる。


 窓の向こうには鬼怒川渓谷。


 川の流れる音が、遠くからかすかに聞こえていた。


「ここ、本当にホテル?」


 アリカが周囲を見回す。


「なんだか映画に出てきそう……」


「落ち着いた雰囲気だね」


 恵那も頷いた。


「こういうところ、好きかも」


 啓太も窓の外を眺める。


 鬼怒川の流れが、眼下に見える。


「……いい場所だな」


 六人は案内された部屋へ向かった。


 今回用意されたのは二部屋。


 男部屋と女部屋に分かれることになっている。


「じゃあ、男の部屋は僕と啓太さんですね」


 風太が言った。


「うん」


 啓太も頷く。


 そして、女性陣は――。


 アリーチェ。


 豪華。


 恵那。


 アリカ。


 四人で一部屋。


「それじゃあ、荷物を置きましょう」


 アリーチェが自分の荷物を持ち上げる。


 ところが。


「天城さん」


「ん?」


 突然、アリーチェが啓太の腕を掴んだ。


「一緒に行きましょう」


「え?」


 そのまま、啓太を引っ張っていく。


「ちょっと待って、アリーチェ。俺たち男部屋――」


「もちろんです!」


「……?」


 啓太は首を傾げながら、アリーチェに引っ張られていく。


 その先には――。


 男部屋。


「え?」


 風太が目を丸くした。


「アリーチェさん?」


「はい?」


「そこ……僕と啓太さんの部屋なんですけど……」


「あら」


 アリーチェは、きょとんとした顔をする。


「そうでしたね」


「いや、そうでしたねじゃなくて……」


 風太が困った顔をする。


 するとアリーチェは、にっこり笑った。


「風太くん」


「はい?」


「良かったですね」


「……何がですか?」


「ハーレムですよ」


「…………え?」


 風太が固まる。


「僕、啓太さんと二人なんですけど……」


「ですから」


 アリーチェが微笑む。


「女性陣が3人と風太くんで一部屋でしょう?」


「いや、僕と啓太さんが男部屋ですよね!?」


「そうでしょうか?」


「そうですよ!」


 風太の必死の訴えに、啓太も思わず吹き出した。


「アリーチェ、風太をからかうのはそのくらいにしてあげて」


「からかってなんていませんよ?」


「絶対からかってる……」


 風太は肩を落とした。


「僕、女性陣に囲まれたら肩身が狭いだけなんですけど……」


「ふふっ」


 アリーチェが楽しそうに笑う。


 その光景を少し離れたところから見ていた恵那は――。


「…………」


 なぜか、胸の奥が少しだけざわついていた。


 アリーチェは、啓太の腕を自然に掴んでいる。


 距離が近い。


 以前からそうなのだ。


 アリーチェは啓太に対して、遠慮がない。


 それが分かっているはずなのに。


 今日に限って、なぜか気になる。


「……恵那ちゃん?」


 アリカが隣から顔を覗き込んだ。


「どうしたの?」


「……別に」


「なんか怖い顔してるよ?」


「してない」


「してるって」


「してない」


 恵那は視線を逸らした。


 ――アリーチェは、啓太くんのことが好き。


 それくらい、恵那だって分かっている。


 そして自分は――。


「……」


 そこまで考えて、恵那は頬をわずかに赤くした。


 自分が何を考えているのか分からなくなり、慌てて頭を振る。


「恵那ちゃん?」


「なんでもない!」


 一方。


 アリカはアリーチェと啓太を交互に見ていた。


 そして、少しだけ頬を赤くする。


「……もしかして」


「?」


「……大人の関係!?」


「……え?」


 恵那が振り返る。


「アリカ?」


「だって、旅行でしょ!?」


 アリカは小声になりながら二人を見る。


「しかも旅館……じゃなくてホテルで……男女で旅行……」


「違うよ」


「でも――」


「違う」


 恵那は即答した。


「そ、そうだよね……」


 アリカは胸を押さえて、ほっと息を吐く。


「よかった……」


「何を心配してるの……」


 恵那は呆れたように言った。


 そのとき。


「アリーチェ!」


 豪華がアリーチェの腕を掴んだ。


「もう行くわよ!」


「え?」


「私たちは女部屋なんだから!」


 豪華はそのままアリーチェを引っ張っていく。


「ちょっと、鷲宮さん!?」


「啓太は男部屋!」


「でも――」


「女部屋!」


「……はい」


 アリーチェは引きずられるようにして連れていかれる。


 最後に、啓太へ振り返る。


「天城さん、また後で!」


「うん」


 扉が閉まった。


 静かになった廊下。


 風太が大きく息を吐く。


「……助かった」


「何が?」


 啓太が尋ねる。


「いや……」


 風太は苦笑した。


「僕、啓太さんと二人ならいいけど、本当に女部屋に放り込まれると思いました。」


「うん」


「…なぜか僕だけすごく疲れている気がします……」


「……それは分かる」


 二人は顔を見合わせる。


 そして、同時に笑った。


 一方、女部屋では――。


「さて!」


 豪華が荷物を置いた。


「せっかくの卒業旅行なんだから、思いっきり楽しむわよ!」


「賛成!」


 アリカが手を上げる。


 恵那も窓の外を見る。


 鬼怒川の渓谷。


 静かな山々。


 遠くから聞こえる川の音。


 そして、今日から始まる六人の旅。


「……うん」


 恵那は小さく笑った。


「楽しみましょう」


 卒業。


 そして、それぞれの新しい道へ進む前の、ほんの少しの休息。


 六人にとって、この旅行は――。


 きっと、忘れられない思い出になる。


 そんな予感がしていた。



◇ ◇ ◇



 鬼怒川温泉に到着した当日。


 六人はホテルへチェックインを済ませ、部屋に荷物を置き終えていた。


 ホテルを出て駅近くのレンタカー店へ向かう。


「よし。それじゃあ、車を借りたら出発だな」


 啓太がレンタカー店の前で言った。


「天城くんが運転するの?」


 豪華が少し意外そうに尋ねた。


「ああ。免許は取ってあるから」


「へえ……」


 アリーチェが嬉しそうに助手席を見る。


「では、私は――」


「アリーチェ」


 豪華が肩を掴む。


「今日も天城くんの隣を取る気?」


「はい」


「即答!?」


 アリカが笑い出す。


「アリーチェさん、すごい!」


「では、よろしくお願いします」


 結局、助手席にはアリーチェが座った。


 後部座席には、恵那、アリカ、豪華、風太が乗り込む。


「それじゃあ、出発するぞ」


「出発!」


 アリカが元気よく声を上げる。


 車が走り出した。


 鬼怒川温泉のホテルを離れ、日光へ向かう。


 窓の外には、早春の日光の景色が流れていく。


 まだ冬の名残を残した山々。


 木々の間から差し込む朝の光。


 遠くには雪の残る山肌も見える。


 車内には、観光へ向かう浮き立つような空気が流れていた。


 そのとき。


 ラジオから音楽が流れ始めた。


「……あ」


 アリカが反応する。


 聞き覚えのある曲だったらしい。


 しばらく黙って聴いていたアリカだったが――。


 やがて、小さく歌い始める。


「~♪」


「アリカ、歌うんだ」


 恵那が笑う。


「だって、この曲好きなんだもん」


 アリカは楽しそうに歌い続ける。


 すると。


「……♪」


 隣の恵那も、小さく声を重ねた。


「え、恵那も歌うの!?」


「いいじゃない」


「ふふっ」


 アリーチェも歌に加わる。


 豪華も笑いながら続いた。


「せっかくだし、私も歌うわ!」


「僕も……」


 風太まで小さな声で歌い始める。


「お前まで歌うのか」


 啓太が苦笑する。


「啓太さんもですよ」


 風太が言った。


「俺は運転中だから――」


「歌うだけなら大丈夫ですよ!」


「そうそう!」


 後ろからアリカが煽る。


「啓太も歌おう!」


「……仕方ないな」


 啓太も歌に加わった。


 車内に六人の歌声が重なる。


 誰かが音を外して。


 誰かが笑って。


 それでもまた歌う。


 窓の外では早春の山々が流れていく。


 目的地へ向かうだけの道。


 それなのに。


 その時間そのものが、楽しかった。


     *


 やがて車は日光へ入った。


 そして――。


「着いた!」


 アリカが窓の外を見る。


 日光東照宮。


 車を降りた六人は、目の前に広がる境内を見上げた。


 樹齢を重ねた杉の木々が、空へ向かって真っすぐ伸びている。


 長い年月を生きてきた巨木に囲まれた参道は、どこか現世から切り離されたような静けさを持っていた。


 石畳を踏む足音。


 風に揺れる木々の葉。


 遠くから聞こえる鳥の声。


 そして、歴史を刻んだ建物の数々。


 鮮やかな朱。


 金色の装飾。


 細やかな彫刻。


 豪華絢爛でありながら、巨大な杉並木の静けさがそれを包み込んでいる。


「……すごい」


 恵那が思わず呟いた。


「写真で見るのと全然違うね」


 アリカも周囲を見回す。


「なんだか……空気まで違う感じがする」


「分かる気がする」


 啓太も頷いた。


 精霊や妖怪が存在する世界。


 そして、神の存在すら決して絵空事ではない世界。


 そんな彼らにとって、何百年もの時を超えて残るこの場所は、ただの観光地とは少し違って見えた。


「さて、行きましょうか」


 アリーチェが言う。


 六人は境内を進んでいく。


 そして――。


「見て!」


 アリカが指を差した。


 そこにあったのは、三匹の猿の彫刻。


 一匹は目を覆い。


 一匹は口を覆い。


 一匹は耳を覆っている。


「これが有名な……」


「見ざる、言わざる、聞かざる」


 啓太が言った。


「そうそう!」


 アリカが頷く。


 恵那は三匹の猿を見つめる。


「どういう意味なの?」


 すると啓太が少し考えてから答えた。


「悪いものを見ない。悪いことを言わない。悪いことを聞かない……っていう教えだったと思う」


「なるほど……」


 風太が頷く。


 豪華が腕を組む。


「でも、私たちの世界だと……ちょっと違う意味にもできそうね」


「どういうこと?」


 アリカが尋ねる。


「例えば――」


 豪華は三匹の猿を見る。


「見てはいけないものを見ない」


「言ってはいけないことを言わない」


「聞いてはいけないことを聞かない」


 そして、少しだけ真剣な顔になる。


「精霊や魔術に関わる世界では、知ってしまったことで危険に巻き込まれることもあるでしょう?」


「……確かに」


 啓太が頷いた。


「知らないほうがいいこともある」


 恵那が小さく呟く。


 その言葉に、啓太は一瞬だけ恵那を見る。


 神代家の事件。


 まだ真相の見えない事件。


 知れば知るほど、深い闇へと近づいていく。


 恵那もまた、それを思い出したのだろう。


 しかし――。


「でも」


 アリカが明るい声を出した。


「見なきゃいけないものまで見ないのは駄目だよね」


「……」


 啓太がアリカを見る。


「言わなきゃいけないこともあるし」


 アリカは三猿を見上げる。


「聞かなきゃいけないこともある」


「……そうだな」


 啓太は笑った。


「その通りだと思う」


 ただ「見ざる・言わざる・聞かざる」という教えを守るだけではない。


 何を見るのか。


 何を言うのか。


 何を聞くのか。


 それを自分自身で選ぶこと。


 精霊や魔術と共に生きる彼らにとって、それは大切なことなのかもしれなかった。


     *


 さらに境内を進む。


 やがて六人は、一つの建物の前に到着した。


「ここが……鳴龍?」


 アリカが尋ねる。


「そう」


 啓太が頷く。


 薬師堂。


 その天井には、一頭の龍が大きく描かれている。


 堂内に入ると、外の喧騒が嘘のように遠ざかった。


 薄暗い堂内。


 高い天井。


 そして――。


 頭上いっぱいに広がる龍の姿。


「……大きい」


 恵那が息を呑む。


 天井を埋め尽くすように描かれた龍は、今にも動き出しそうだった。


 鋭い眼。


 大きく開かれた口。


 うねる身体。


 その姿には、ただの絵とは思えない迫力がある。


「鳴龍って、拍子木を打つと龍が鳴いているように聞こえるんだよ」


 啓太が説明する。


「どうして?」


「天井の構造によって、音が響くかららしい」


「へえ……」


 アリカが感心する。


 案内の説明を聞きながら、六人は龍の天井を見上げていた。


 そして――。


 拍子木が打ち鳴らされる。


 乾いた音が堂内に響く。


 直後。


 音が龍の下で反響し、まるで龍が低く唸っているような、不思議な響きが生まれた。


「……!」


 アリカが目を見開く。


「今の……!」


「龍が鳴いたみたい……」


 恵那も驚いた顔で天井を見る。


 啓太はしばらく黙っていた。


 そして、この世界に生きる者として――ふと思う。


「……本当に、龍神がいるのかもしれないな」


「え?」


 アリカが振り返る。


「この世界には、実際に龍や精霊がいるんだから」


 啓太は天井の龍を見上げる。


「昔の人たちも、ただの伝説として龍を描いたわけじゃないのかもしれない」


 恵那が静かに聞いている。


「この龍は……自然災害から人々を守る龍神だったんじゃないかな」


「龍神……」


 アリカが呟く。


「雨を降らせたり、川を守ったり?」


「そういう存在だったのかもしれない」


 啓太は答えた。


 日光。


 山々に囲まれた土地。


 そこを流れる川。


 そして、古くから人々が畏れてきた自然。


 その中で、人々は龍神に祈った。


 山が荒れないように。


 川が氾濫しないように。


 大雨や土砂災害から、人々の暮らしを守ってくれるように。


「なんか……優しい龍だね」


 アリカが微笑む。


「怖い龍じゃなくて、守ってくれる龍なんだ」


「そうだな」


 啓太も笑った。


 恵那は、龍の絵を見上げる。


「……守る、か」


「恵那?」


「ううん」


 恵那は小さく首を振った。


「なんでもない」


 けれど。


 その言葉が、胸の奥に残った。


 ――守る。


 啓太が、自分を守ろうとしてくれている。


 自分もまた、啓太を守れる人間になりたい。


 そんなことを、ふと思った。


「そろそろ行きましょうか」


 アリーチェの声が響く。


「まだまだ見るところがありますよ」


「そうだな」


 啓太が頷く。


「行こう」


 六人は薬師堂を後にした。


 最後に恵那がもう一度だけ振り返る。


 天井に描かれた龍は、静かに六人を見下ろしていた。


 まるで――。


 これからそれぞれの道へ進む六人を、そっと見送るように。

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