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010 【心を守る】

翌日。


 中断されていた国家魔術師三種試験は、予定を一部変更しながらも再開されることとなった。


 御逆島に残された受験者たちは、それぞれが中断された地点から試験を再開する。


 ただし――。


 全員が、昨日と同じ条件で試験に臨めるわけではなかった。


 夢宮アリカのペアである恭華は、蛇に噛まれたことによる毒の治療を受け、幸いにも命に別状はなかった。


 しかし、解毒処置を終えたばかりということもあり、体力は十分には戻っていない。


「……ごめんね、アリカちゃん」


 医療班の簡易テントの中。


 横になった恭華が、申し訳なさそうに笑う。


「何言ってるの。恭華ちゃんが謝ることじゃないよ」


 アリカは笑ってみせた。


「むしろ、ちゃんと治療してもらえてよかったじゃん」


「でも……試験……」


「大丈夫」


 アリカは親指を立てる。


「私が恭華ちゃんの分まで頑張ってくるから!」


「……へへ。アリカちゃんらしいね」


 恭華は小さく笑った。


 しかし、試験規定上、本来ならばペアの一人が棄権した場合、もう一人も試験を続行することはできない。


 二人一組。


 それが今回の試験の大前提だった。


 ところが――今回は事情が違った。


 昨日のアクシデントによって、アリカが所持していた携帯端末が水没し、使用不能となっていた。


 端末には防水対策が施されているものと思われていたが、実際には完全な水没に耐えられる仕様ではなかった。


 これについて試験本部は、監督官側にも管理上の不備があったと判断。


 協議の結果、特例としてアリカ単独での試験続行が認められることになった。


 ただし――。


「……単独で、ですか?」


 試験本部から説明を受けたアリカは、目を丸くした。


「はい。ペアの恭華さんが棄権となりましたので、アリカさんには単独で残りの行程を踏破していただきます」


「えぇ……」


「もちろん、本来の試験より難易度は上がります」


 担当官が淡々と説明する。


「今回の試験は、二人で協力することを前提として構成されています。負傷者への対応、食料や水の管理、探索、危険箇所の突破など……一人より二人の方が有利になるよう設計されています」


「つまり……」


 アリカは島の奥を見つめる。


「私、一人で全部やらなきゃいけないってことですね」


「そうなります」


「……」


 アリカはしばらく黙った。


 そして――。


「分かりました!」


 にっと笑った。


「やります!」


 その表情には、迷いがなかった。


     ◇


 再開の合図が響く。


「――試験、再開!」


 一斉に受験者たちが走り出した。


 残された時間は、二十四時間。


 中断前までの疲労も、恐怖も、関係ない。


 ゴールを目指すなら、一分一秒でも無駄にはできない。


 険しい岩場。


 急斜面。


 密生した森。


 足場の悪い沢。


 そして、島の奥へ進むほど増えていく自然の障害。


 受験者たちは、それぞれのペースで難所を攻略していく。


 だが――。


 一人だけ。


 明らかに様子がおかしかった。


「……え?」


 ある受験者が、岩場の上から前方を見た。


 そこには、一人の少女がいた。


 金属製の簡易ロープを使うこともなく、岩場を駆け上がっている。


「ちょ、ちょっと待て……」


 アリカだった。


「うわああああああっ!」


 叫びながら、斜面を一気に駆け上がる。


 足を滑らせる。


 だが、すぐさま近くの岩を掴み、身体を振って体勢を立て直す。


「危なっ!」


 そのまま止まらない。


 今度は沢。


 普通なら迂回するところを、アリカは水流の弱い場所を瞬時に見つける。


「ここ!」


 跳ぶ。


 岩から岩へ。


 水しぶきを上げながら、一気に向こう岸へ渡る。


「……速すぎないか?」


 後ろから来た受験者が呆然と呟いた。


 さらに森。


 枝を避ける。


 倒木を飛び越える。


 崖。


「うりゃああああっ!」


 勢いをつけて跳ぶ。


 着地。


 そのまま走る。


 まるで――。


 島そのものを知っているかのようだった。


 いや。


 知っているわけではない。


 ただ、身体が勝手に動いていた。


 風の流れ。


 地面の傾斜。


 木々の揺れ。


 鳥の動き。


 獣の気配。


 すべてが、感覚としてアリカの中に入ってくる。


「……なんだろ」


 アリカ自身も不思議に思っていた。


 昨日までなら、もっと慎重に考えていた。


 ここは危険。


 あそこは遠回り。


 この道は避けた方がいい。


 そんなことを一つ一つ考えていたはずなのに。


 今は違う。


「こっち!」


 考えるより先に、身体が動く。


 危険なら避ける。


 登れるなら登る。


 飛べるなら飛ぶ。


 走れるなら――走る。


「まだまだぁっ!」


 アリカは笑っていた。


 昨日、自分を守ってくれた人の背中を思い出す。


 戦うことを恐れず。


 仲間を守るためなら、どこまでも強くなる。


 あの姿を見て――。


 自分も強くなりたいと思った。


 だから。


 今は、立ち止まらない。


     ◇


 それから数時間。


 御逆島の各所で、受験者たちが次々とチェックポイントを通過していく。


 しかし、その中でも一際速いペースで進み続ける受験者がいた。


「また……あの子か」


「夢宮アリカ……?」


「一人で?」


「なんであんな速度で進めるんだよ……」


 アリカは、単独でありながら他の受験者たちを次々と追い抜いていった。


 そして――。


 最後の難所。


 目の前には、切り立った岩壁。


 普通なら、ロープを使って慎重に登る場所だった。


 アリカは岩壁を見上げる。


「……高いなぁ」


 一瞬だけ考える。


 そして。


「よし!」


 登った。


 一気に。


 手を掛け。


 足を乗せ。


 身体を引き上げる。


 途中で足場が崩れる。


「わっ!」


 だが、落ちない。


 別の岩を掴む。


 身体を振る。


 そのまま上へ。


「あと少し……!」


 そして――。


 最後の岩を越えた。


 目の前が開ける。


 ゴール地点だった。


「――着いたぁぁぁぁっ!」


 アリカは両手を上げた。


 ほぼ独走。


 単独参加というハンデをものともせず、誰よりも早くゴールへ到達したのだった。


 その姿を見ていた試験官たちは、しばらく言葉を失っていた。


「……本当に一人で来たのか?」


「はい」


「……昨日までの君と同じ人物か?」


「同一人物です」


「そうか……」


 試験官は頭を抱えた。


「なんというか……」


 そして後に、この日のアリカについて本人に尋ねたところ。


 彼女は満面の笑みで、こう答えたという。


「なんか、私の中の野生が目を覚ました気がします!」


     ◇


 そして――。


 長かった国家魔術師三種試験も、終わりへと近づいていく。


 最終的に、制限時間内にゴールへ到達できた受験者は全体の約四割。


 残る六割は、時間切れ、あるいは途中棄権という結果になった。


 厳しい試験だった。


 それでも――。


 最後まで諦めず、島を踏破した者たちは確かにいた。


「お疲れさまでした」


「ありがとうございました!」


 ゴール地点に到着した恵那も、安堵したように息を吐く。


「終わった……」


「はい。無事に到着できましたね」


 京華も穏やかに微笑む。


 少し離れた場所では、風太と修司もゴールへ到着していた。


「……よかったぁ」


 風太はその場に座り込みそうになる。


「最後まで来られたな」


 修司が声を掛ける。


「はい……。本当に、長かったです……」


 風太は疲れたように笑った。


 そして――。


 少し離れた場所では、アリカが大きく伸びをしていた。


「終わったぁー!」


 その顔には、疲労よりも達成感の方が強く浮かんでいる。


 恵那がそんなアリカを見つける。


「アリカ……!」


「恵那ちゃん!」


 二人は顔を見合わせる。


「無事だったんだね」


「うん!」


 アリカは胸を張った。


「恭華の分まで、ちゃんとゴールしてきたよ!」


「……うん」


 恵那は微笑んだ。


 こうして――。


 御逆島で行われた国家魔術師三種試験は、ひとまず幕を閉じた。


 だが。


 この島で起きた出来事が、彼らの人生に残したものは――決して小さくなかった。


 そして誰もまだ知らない。


 御逆島の地下深くに眠っていたもの。


 そして、この島を訪れた者たちの中に潜んでいたのは、あの3人の侵入者だけではない。


◇ ◇ ◇


御逆島を離れる船の上。


 長かった国家魔術師三種試験を終え、受験者たちはそれぞれの場所で疲れを癒していた。


 甲板には、島を離れていく者たちの安堵した声が広がっている。


 そんな中――。


 船の後方。


 人の少ない場所で、天城啓太は二人の女性と向かい合っていた。


 鷲宮豪華。


 そして、白石アリーチェ。


「……まず、昨日のことなんだけど」


 豪華が口を開いた。


「恵那のことよ」


 啓太の表情がわずかに変わる。


「……恵那がどうかしたのか?」


「アナタたちが行方不明になっていた時のことよ」


 豪華は、まっすぐ啓太を見る。


「恵那がどうなっていたか……アナタは知らないわよね」


「……」


 啓太は黙った。


 知らない。


 自分とアリカが行方不明になっていた間、恵那が何をしていたのか。


 どんな顔をしていたのか。


 何を考え、どう動いていたのか。


 啓太が知っているのは、翌日、天候が回復した後に再会した恵那が、普段の冷静さを失っていたことだけだった。


 あの時の恵那は、啓太の姿を見つけるなり、何かを確かめるように何度も視線を走らせていた。


 怪我はないか。


 本当にここにいるのか。


 そんなことを、言葉にせず確認しているように見えた。


「……何があったんだ?」


 啓太が尋ねる。


 豪華は、少しだけ視線を落とした。


「恵那は、アナタたちを探しに行こうとしていたわ」


「……恵那が?」


「ええ」


 豪華は頷いた。


「アナタたちが行方不明になった直後は、天候が荒れていた。視界も悪く、島の中を捜索できるような状態ではなかったわ」


「……」


「それでも恵那は、すぐにでも探しに行こうとした」


 啓太の眉が寄る。


「どうして止めなかった?」


「止めたわよ」


 豪華は即答した。


「何度もね。でも、恵那は聞かなかった」


「……」


「状況も分からない。どこにいるのかも分からない。それなのに、危険な場所へ踏み込もうとしていた」


 豪華は、あの時のことを思い出すように目を伏せた。


「天候が回復するまで待つしかないと説明しても、恵那は納得しなかった。何度も海の方を見ていたわ」


「……」


「波の音が大きくなるたびに、何かを聞き分けようとするみたいに」


 啓太の胸が、わずかに締めつけられた。


 昨日、再会した時の恵那もそうだった。


 啓太が声をかけても、すぐには返事をしなかった。


 ただ、啓太の肩や腕に視線を落とし、傷の有無を確かめていた。


 それからようやく、息を吐いた。


 まるで、そこにいることを確認して初めて呼吸を思い出したように。


「……」


「アナタたちが戻ってこないかもしれないと思った瞬間、恵那は普段みたいに考えられなくなっていた」


 豪華の言葉に、啓太は顔を上げた。


「アリカの名前を呼びながら、何度も探しに行こうとしていたわ。自分が傷つくことも、荒れた天候の中へ出ていくことも、考えていなかった」


「……そんなに」


「ええ」


 豪華は頷いた。


「私が腕を掴んで止めても、恵那は海の方を見たままだった。まるで、そこから目を離したら何かを見失うとでも思っているみたいに」


 啓太は言葉を失った。


 自分が行方不明になっている間。


 恵那が、そんな状態になっていた。


 そして、豪華がそれを止めていた。


 翌日、天候が回復してからようやく捜索に出ることができた。


 その事実を、啓太は今初めて知った。


「……それは」


 啓太がようやく口を開く。


「俺たちが行方不明になったからだろ」


「ええ。もちろん、それが原因よ」


 豪華は否定しない。


「でも、それだけじゃないと思うわ」


「……どういう意味だ?」


「恵那はね」


 豪華は少しだけ視線を落とした。


「大切な人が傷つくことに、普通の人よりずっと敏感なのよ」


 啓太の眉が動く。


「……」


「何か起きると、まず自分のことを考えるんじゃない。周りを見るの」


 豪華は続けた。


「誰がいないのか。誰が傷ついているのか。誰の声が聞こえないのか」


 啓太の脳裏に、幼い頃の記憶が浮かんだ。


 転んで膝を擦りむいた時。


 泣きそうになっていたのは自分だったはずなのに、恵那は自分のことの様に泣きそうになっていた。


 ずっと、大丈夫かどうかを何度も確認していた。


 あの時は、恵那が心配性なだけだと思っていた。


「そして――」


 豪華は言葉を選ぶように、一度だけ息をついた。


「大切な人が、自分の前からいなくなることに……人一倍、反応する」


 啓太の胸に、重いものが触れた。


 昔の記憶が、断片的によみがえる。


 誰かが帰ってこないと、恵那はいつも窓の外を見ていた。


 時計を気にして。


 物音がするたびに顔を上げて。


 帰ってきたと分かると、何事もなかったように視線を戻す。


 啓太は、それをただの癖だと思っていた。


「……過去に、何かあったのか」


 豪華はすぐには答えなかった。


「私が知っているのは、恵那が見せているものだけよ」


「……」


「でも、何かを思い出している時の恵那は、少しだけ遠くを見るの」


 豪華は海の向こうへ視線を向けた。


「その時だけ、今ここにいないみたいになる」


 啓太は息を呑んだ。


 それにも覚えがあった。


 恵那がふと黙り込む時。


 呼びかけても、返事が一拍遅れる時。


 何かを尋ねても、「何でもない」と笑う時。


 啓太はいつも、その言葉を信じていた。


 いや。


 信じたかったのかもしれない。


「何かが起きた時、恵那は自分が傷つくことよりも、周りの人が傷つくことを恐れる」


 豪華は啓太の目を見た。


「特に……アナタよ」


 啓太の呼吸が止まる。


「俺……?」


「ええ」


 豪華は頷いた。


「アナタが危険な場所に行くと、恵那は明らかに様子が変わる」


「……」


「声をかけても、すぐには返事をしない。けれど、アナタの姿が見えなくなると、誰より先に探し始める」


 啓太は甲板の手すりに手を置いた。


 海を見つめる。


 昨日。


 天候が回復した後、自分とアリカを捜索していた間。


 恵那は、少しでも早く二人を見つけようとしていた。


 その前には、荒れた天候の中へ飛び出そうとしていた。


 再会した時の、あの顔。


 自分の名前を呼ぶ声。


 触れた手が、わずかに震えていたこと。


 啓太は今になって、それらを一つずつ思い出していた。


 あの時、恵那は何を見ていたのだろう。


 目の前にいる自分ではなく。


 戻ってこなかった誰かを、重ねていたのではないか。


「私はね」


 豪華の声が少し低くなる。


「恵那を、かなり危ういと思っているの」


「……危うい?」


「ええ」


 豪華は頷いた。


「今はまだ、自分で戻ってこられる」


 そして一拍。


「でも……何かが起きた時、戻るための道を見失うかもしれない」


 啓太は言葉を失った。


「……何かが起きた時?」


「例えば」


 豪華は慎重に言葉を選ぶ。


「大切な人が、目の前で傷つくとか」


「……」


「あるいは――」


 豪華は一瞬だけ言葉を止めた。


「待っても、呼んでも、帰ってこないことが……本当になった時とか」


 啓太の胸に、重いものが落ちた。


 脳裏に、幼い頃の恵那の横顔が浮かぶ。


 窓の外を見つめていた顔。


 誰かの帰りを待ちながら、何も言わずに座っていた姿。


 あの時、啓太は隣にいた。


 けれど、恵那が何を待っていたのかを、尋ねたことはなかった。


「……そんなこと」


 思わず口に出る。


「起こさせない」


「そう言うと思ったわ」


 豪華は苦笑した。


「アナタは、そういう人だもの」


「なら――」


「でもね」


 豪華が遮った。


「アナタ一人でどうにかできる問題だと思わないことよ」


 啓太が顔を上げる。


「……」


「恵那はアナタを信頼している。だからこそ、アナタの姿が見えなくなった時、他の誰よりも強く反応する」


 豪華は静かに続けた。


「守ることだけを考えるんじゃなくて、恵那が自分の中に抱えているものから目を逸らさないようにしてあげなさい」


「……俺に、できるのか?」


 初めて。


 啓太の声に迷いが混じった。


 豪華は少しだけ目を細める。


「それを考えるのが、アナタの役目じゃない?」


「……」


「私は数ヶ月しか恵那を見ていない」


 豪華は立ち上がった。


「それでも、私にはそう見えた」


 啓太は何も言えない。


「だから、警告しておくわ」


 豪華は最後に啓太を見る。


「恵那を守るなら、身体だけじゃなくて……見えないところも守りなさい」


 それだけ言うと、豪華はその場を離れていった。


「……」


 啓太は、しばらく動かなかった。


 海面を見つめる。


 これまで。


 自分は恵那のことを誰よりも理解していると思っていた。


 幼い頃からずっと一緒だった。


 彼女がどんな時に笑うのか。


 何に怒るのか。


 何を喜ぶのか。


 そして――。


 何も言わずに、誰かを待っている時のことも。


 それも、自分なら分かっているつもりだった。


 なのに。


「……数ヶ月しか一緒にいなかったのに」


 啓太は小さく呟いた。


 豪華の方が。


 自分よりも深く、恵那の危うさを見抜いていた。


 その事実が、悔しかった。


 いや――。


 悔しいだけではない。


 自分は何を見ていたのだろう。


 恵那の隣にいた時間なら、誰にも負けない。


 それなのに、見えていたはずのものを、見ようとしていなかった。


「天城さん」


 隣から声がした。


 アリーチェだった。


「……何だ?」


「そんな顔をしないでください」


 アリーチェは困ったように微笑んだ。


「鷲宮さんは、別に天城さんを否定したわけではありませんよ」


「分かってる」


「……本当に?」


「……たぶん」


「ふふ」


 アリーチェが小さく笑う。


「でも、私も少し意外でした」


「何が?」


「鷲宮さんが、あそこまで神代さんのことを理解していたことです」


 啓太も苦笑する。


「俺もだよ」


「ですよね」


 アリーチェは甲板の向こうを見た。


「普段の鷲宮さんを見ていると……」


「うん」


「どう考えても脳筋です」


「……それは俺も否定できない」


「ですよね」


 二人の間に、少しだけ笑いが生まれる。


 だが、アリーチェはすぐに真剣な表情へ戻った。


「でも」


「……?」


「今回のことは、理論的に分析した結果ではないと思います」


 啓太が振り向く。


「じゃあ……何なんだ?」


「勘です」


「勘?」


「はい」


 アリーチェは頷いた。


「鷲宮さんは、普段から物事を理屈で考えるタイプではありません。だからこそ……人を見る時も、頭で分析するというより、相手の様子を感覚で捉えているんだと思います」


「……」


「表情。声。視線。仕草。ほんの少しの変化」


 アリーチェは指を一本立てた。


「そういうものを、本人も意識せず拾っている」


「それって……」


「天性の才能でしょうね」


 アリーチェは穏やかに笑った。


「いわゆる……野生の勘、というやつです」


「……野生の勘」


 啓太は呟いた。


 つい先ほどまで、アリカが言っていた言葉を思い出す。


 ――なんか、私の中の野生が目を覚ました気がします!


「……今日は野生って言葉をよく聞くな」


「そうですね」


 アリーチェが笑う。


「もしかしたら、この世界には理屈だけでは説明できないものがあるのかもしれません」


「……」


 啓太は再び海を見る。


 遠ざかっていく御逆島。


 そこには、昨日まで自分たちがいた。


 そして――。


 その島で、自分は恵那の姿を見ていた。


 けれど、見ていただけだった。


 何を恐れていたのか。


 何を思い出していたのか。


 尋ねることもせず、いつもの恵那に戻るのを待っていた。


 これまで、自分は恵那を守ることばかり考えていた。


 強くなればいい。


 敵を倒せばいい。


 危険から遠ざければいい。


 それで、彼女を守れると思っていた。


 だが。


 豪華の言葉が頭から離れない。


 ――身体だけじゃなくて、見えないところも守りなさい。


「……恵那」


 啓太は小さく呟いた。


 その名前を口にした瞬間。


 胸の奥に、これまでとは少し違う感情が生まれていた。


 守る。


 それだけでは足りない。


 彼女が何も言わずに抱えているものに気づくこと。


 そして――。


 いつか、それを一人で抱え込まなくて済むようにすること。


「……俺にできることを、考えないとな」


 その時だった。


「――啓太くん!」


 甲板の向こうから、聞き慣れた声が響いた。


 啓太が振り返る。


 そこには、神代恵那がいた。


 金色の髪を揺らしながら、周囲を見回している。


 誰かを探しているようだった。


 その視線が、こちらへ向く。


「あ……」


 恵那の表情が、ぱっと明るくなる。


「いた……」


 小さく呟くと、恵那は啓太のもとへ歩いてくる。


「啓太くん、こんなところにいたんだね」


「恵那? どうしたんだ?」


「どうしたって……」


 恵那は少し不思議そうな顔をする。


「探してたの」


「俺を?」


「うん」


 それが当然のことのように、恵那は頷いた。


「さっきまで近くにいたのに、姿が見えなくなったから」


「……」


 啓太は何も言えなかった。


 豪華の言葉が、頭の中で蘇る。


 ――アナタの姿が見えなくなると、誰より先に探し始める。


 まさに今。


 恵那は、自分を探してここまで来た。


「啓太くん?」


 恵那が首を傾げる。


「どうしたの?」


「……いや」


 啓太は小さく笑った。


「何でもない」


「そう?」


「ああ」


 恵那はまだ少し不思議そうだったが、それ以上は尋ねなかった。


 そして啓太の隣に立つ。


 いつもの距離。


 いつもの場所。


 けれど――。


 啓太には、今までとは違って見えた。


 恵那は何も言わない。


 ただ、啓太がそこにいることを確かめるように、そっと隣に立っている。


 そして、啓太も気づいてしまった。


 恵那が自分を探しに来たという事実が、嬉しいだけではないことに。


 豪華が危惧していたもの。


 それが、ほんの小さな形で目の前に現れている。


「……恵那」


「なに?」


「……いや」


 啓太は一度言葉を飲み込んだ。


 今ここで、過去を問い詰める必要はない。


 無理に聞き出す必要もない。


 ただ――。


 これからは、ちゃんと見ていよう。


 彼女が笑っている時だけではなく。


 不安そうな時も。


 黙っている時も。


 そして、自分の姿を探している時も。


「……ありがとう」


「え?」


「探してくれて」


 恵那は一瞬、目を丸くした。


 それから、少しだけ頬を赤くして笑う。


「……だって、啓太くんだもの」


「……」


 その言葉に、啓太は胸の奥が熱くなるのを感じた。


 そして今度こそ。


 恵那の隣にいることの意味を、少しだけ理解した気がした。


 船はゆっくりと航路を進む。


 御逆島は、少しずつ水平線の向こうへ消えていった。


 けれど――。


 啓太の中には、豪華の言葉が残っていた。


 身体だけではない。


 心も守る。


 それが、自分にできる「守る」ということなのかもしれない。


◇ ◇ ◇


御逆島から遠く離れた海上。


島へ向かう際に使用した一隻の船が、波を切りながら進んでいた。


甲板に立っているのは、啓太たちと戦っていた三人の男たち。


誰も口を開かなかった。


船を操るリーダー格の男も、隣に立つ大柄な土の精霊使いの男も、そして水の精霊使いも、重苦しい表情を浮かべている。


――任務は失敗した。


目的だった天逆鎖は手に入らなかった。


それどころか、予定にはなかった戦闘まで引き起こした。


そして何よりも問題なのは――。


「……天城啓太」


リーダー格の男が、低く呟いた。


「まさか、あいつとまでやり合うことになるとはな」


「しかも……神代恵那まで来やがった」


大柄な男が忌々しそうに吐き捨てる。


本来、上から与えられていた命令は明確だった。


天逆鎖を確保すること。


そして――神代恵那や天城家には手を出さないこと。


それなのに、結果は最悪だった。


「……報告、どうする?」


大柄な男が聞く。


リーダー格の男は答えなかった。


報告すれば、失敗したことだけでは済まない。


天城啓太と交戦した。


神代恵那にも姿を見られた。


それどころか、精霊庁の人間まで戦闘に巻き込んだ。


下手をすれば、自分たちが処分されてもおかしくない。


「……正直に話すしかないだろ」


そう言ったものの、その声には自信がなかった。


「天逆鎖は?」


「……失った」


「それも報告するのか?」


「するしかない」


三人の間に、再び沈黙が落ちる。


そのときだった。


「――待て」


水の精霊使いが突然、声を上げた。


リーダー格の男が振り返る。


「どうした?」


男は答えない。


ただ、じっと海面を見つめている。


波。


風。


船体に当たる水の音。


その中に――何かを感じ取っていた。


「……船を止めろ」


「何?」


「いいから、止めろ!」


普段の落ち着いた声とは明らかに違っていた。


リーダー格の男が慌てて船を減速させる。


水の精霊使いは、甲板の縁まで歩いていった。


そして海を見下ろす。


「……いる」


「何がだ?」


「海の中に……異様な気配がある」


男の表情が変わる。


「これは……」


次の瞬間。


「天逆鎖だ」


「……!」


二人が息を呑む。


水の精霊使いは迷わなかった。


そのまま海へ飛び込む。


「おい!」


大柄な男が叫ぶ。


しかし、水の精霊使いの姿はすでに海中へ消えていた。


静かな海面。


数秒。


十秒。


やがて――。


ザバァッ!


激しい水飛沫とともに、男が海面へ浮かび上がった。


「あった……!」


その手には――一本の異様な鎖が握られていた。


歪んだ輪が連なる、禍々しい鎖。


水に濡れているにもかかわらず、その存在そのものが周囲の空気を不気味に歪ませているように見える。


「……天逆鎖」


リーダー格の男が呟いた。


思わず、拳を握る。


「……首の皮一枚、繋がったな」


任務そのものは失敗した。


しかし――。


目的の物は、手元に戻ってきた。


「引き上げろ!」


二人が水の精霊使いを船へ引き上げる。


男は甲板へ上がると、濡れた髪を払いながら天逆鎖を見つめた。


「海に落ちたと聞かされてから、ずっと探していた。まさか……こんなところに流されていたとはな」


「これがあれば、まだ言い訳はできる」


リーダー格の男が天逆鎖を見る。


そして――小さく息を吐いた。


「……帰るぞ」


船は再び速度を上げる。


御逆島は、次第に遠ざかっていった。


三人の男と天逆鎖を乗せた船は――そのまま海の彼方へと消えていった。


◇ ◇ ◇


同じ頃。


御逆島での騒動を終えた試験船も、ようやく港へと戻ってきていた。


長い試験を終えた受験生たちが、次々と船を降りていく。


疲労の色を浮かべながらも、無事に戻ってこられた安堵感から、多くの者の表情には笑顔が戻っていた。


恵那もまた、京華と並んで港へ降り立つ。


その少し先には、アリカと恭華の姿があった。


「アリカ」


「恵那ちゃん!」


二人は近づくと、自然に笑顔を見せる。


「今回は大変だったね」


「うん。でも……恵那ちゃんたちが来てくれて、本当に助かったよ」


「私も、アリカが無事でよかった」


恵那はそう言って、アリカの顔を見る。


戦闘でできた傷はまだ残っている。


それでも、こうして笑っている。


そのことが何より嬉しかった。


「恭華ちゃんも……気をつけて帰ってね」


アリカが言う。


「うん。アリカちゃんも」


恭華は柔らかく微笑んだ。


いつもの、ハツラツとした笑顔。


「それじゃあ、また何処かで」


「うん!」


四人はそこで別れた。


恵那とアリカがそれぞれの仲間と合流していく一方で――。


京華と恭華は、港の外へ向かって歩き始めた。


二人とも、まだ笑顔だった。


だが。


港から少し離れた場所まで来たところで、京華が足を止める。


「……あ」


前方に、一台の車が停まっている。


その傍らには、一人の青年が立っていた。


細身で、どこか気弱そうな雰囲気。


それでいて、人の良さそうな柔らかな笑顔を浮かべている。


京華が、その男へ向かって声をかけた。


「お兄ちゃん!」


男が振り返る。


「あっ、お帰り。二人とも」


「迎えに来てくれたんですね」


「もちろんだよ。試験、疲れただろ?」


「ありがとうございます」


二人は車へ乗り込む。


兄と呼ばれた男も運転席へ座った。


エンジンをかけ、車を発進させる。


「それで、試験はどうだった?」


兄が、いつもの朗らかな口調で尋ねる。


その瞬間だった。


「――最悪」


「……何かあったのかい?」


兄がバックミラーを見る。


先ほどまでの柔らかな笑顔は消えていた。


京華が、冷たい目で窓の外を眺めている。


「何が国家魔術師試験よ。茶番もいいところだわ」


恭華も同じだった。


「本当ですわ。あんな茶番に付き合わされるなんて、時間の無駄にも程があります」


「……」


兄は困ったように笑う。


だが、二人は止まらない。


「それより問題なのは、あの三人よ」


京華が吐き捨てる。


「任務に失敗した上に、天城啓太と神代恵那にまで接触した」


「しかも、何かは知らないけど、奪取しなきゃいけなかった物を失ったのでしょう?」


恭華が冷たく笑う。


「……あの三人、帰ってからどうなるのかなぁ?」


「さあ?」


京華は興味なさそうに答えた。


「私たちには関係ないわ」


兄はそんな二人をバックミラー越しに見つめる。


しかし、口元には相変わらず朗らかな笑みが浮かんでいた。


「まあまあ。とりあえず、二人とも無事に帰ってきたんだからいいじゃないか」


「……お兄ちゃんは相変わらず能天気ね」


「そうかな?」


「そうですわ」


二人の辛辣な言葉にも、兄は笑ったまま車を走らせる。


やがて港が遠ざかっていく。


試験を終えた少女たちの姿も、人々の喧騒も――。


すべてが、車の後方へ流れていく。


そして。


京華は窓の外を見つめながら、静かに呟いた。


「……天城啓太」


その名前だけは――。


先ほどまでの演技ではない。


「厄介な人間が、いたものね」


車はそのまま、港から遠ざかっていった。

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