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007 【信じるということ】

――海へ落ちた。


 身体が、海面に叩きつけられる。


 衝撃。


 肺の空気が、一気に押し出された。


「――っ!」


 声にならない。


 口を開いた瞬間、海水が流れ込んできた。


 冷たい。


 喉が焼ける。


 鼻の奥が痛む。


 啓太は反射的に手足を動かした。


 だが、どちらが上なのか分からない。


 身体が回る。


 海水が全身を締めつける。


 泡が視界を埋め尽くす。


 耳の奥で、轟音が鳴っていた。


 激流。


 海そのものが、巨大な腕になって啓太を引きずっている。


 上へ行こうとする。


 だが、身体は横へ流された。


 次の瞬間には、下へ落とされる。


 水流に揉まれる。


 背中を岩に打ちつけられた。


「――っ!」


 痛みで身体が縮む。


 その隙に、また海水が口へ入った。


 苦しい。


 息ができない。


 肺が空気を求めて痙攣する。


 啓太は必死に目を開いた。


 濁った水の向こう。


 泡の切れ間に、人影が見えた。


 小さい。


 細い身体。


 夢宮アリカだった。


 アリカもまた、激流に翻弄されていた。


 腕を伸ばしている。


 脚を動かしている。


 だが、前へ進めていない。


 伸ばした腕が、流れに弾かれる。


 身体が横へ回る。


 髪が水中で激しく揺れる。


 その顔が、苦痛に歪んでいた。


 アリカの口が開く。


 声は聞こえない。


 代わりに、泡がいくつも漏れた。


 息が、もう残っていない。


 啓太は手を伸ばした。


 だが、腕が重い。


 水が、腕を掴んでいる。


 進めない。


 近づけない。


 激流が二人の間を引き裂いていく。


 そのときだった。


 アリカの手から、何かが離れた。


 黒い鎖。


 禍々しい気配をまとった天逆鎖。


 アリカの目が見開かれる。


 手を伸ばす。


 指を開く。


 だが、届かない。


 天逆鎖は水流に弾かれ、黒い影となって遠ざかっていく。


 アリカは追おうとした。


 腕を伸ばす。


 脚を蹴る。


 しかし、身体が動かない。


 水流が強すぎる。


 押し戻される。


 引きずられる。


 身体が何度も回転する。


 方向が分からない。


 水面が見えない。


 息が苦しい。


 胸が痛い。


 喉が締まる。


 肺が、空気を求めている。


 アリカは、それでも手を伸ばした。


 もう一度。


 もう一度だけ。


 だが、指先は何も掴めなかった。


 天逆鎖が、さらに遠ざかる。


 黒い影が、泡の向こうへ消えていく。


(……啓太さん……)


 意識が揺らぐ。


 視界が暗くなる。


 身体の感覚が薄れていく。


 冷たい。


 苦しい。


 怖い。


 それでも、手を伸ばそうとした。


 だが、腕に力が入らない。


 指が開く。


 身体から、力が抜けた。


(……もう……駄目……)


 瞼が重い。


 水面がどこにあるのか分からない。


 上も下もない。


 ただ、激流だけがある。


 海水が身体を運んでいく。


 どこへ向かうのかも分からない。


 その瞬間だった。


 ――腕が、アリカの身体を掴んだ。


 強く。


 逃がさないように。


 アリカの身体が、流れの中で引き寄せられる。


 啓太だった。


 啓太はアリカの胴を片腕で抱え込んだ。


 もう片方の腕を伸ばす。


 水を掻く。


 だが、進まない。


 腕を動かすたび、激流が身体を押し戻す。


 足を蹴る。


 水流に弾かれる。


 身体が沈む。


 啓太の肺も限界に近かった。


 胸が焼ける。


 喉が裂けそうになる。


 息を吸いたい。


 だが、吸えば海水が入る。


 それでも、アリカを離さなかった。


 激流が二人を下へ引きずる。


 啓太の肩が軋む。


 腕の筋肉が震える。


 指先の感覚が消えていく。


 それでも、抱えた腕だけは緩めない。


(……アリカ……!)


 声は、水の中で潰れた。


 アリカには届かない。


 啓太は歯を食いしばった。


 もう一度、腕を動かす。


 水を掻く。


 進まない。


 また掻く。


 身体が少しだけ浮く。


 次の瞬間、激流に叩き落とされる。


 肺が締めつけられる。


 視界が白く弾ける。


 それでも、啓太はアリカを胸元へ引き寄せた。


 アリカの顔が、啓太の胸に押しつけられる。


 アリカの手が、かすかに動いた。


 啓太の服を掴む。


 弱い。


 ほとんど力がない。


 それでも、啓太には分かった。


 アリカがまだ生きている。


 啓太は上を見た。


 泡の向こう。


 遠い。


 水面が、かすかに揺れている。


 だが、激流が二人を引きずり下ろしていく。


 水面が遠ざかる。


 啓太は足を動かした。


 動かない。


 もう一度、蹴る。


 脚が痙攣する。


 それでも蹴る。


 片腕でアリカを抱えたまま、残った力を絞り出す。


 水を掻く。


 身体を持ち上げる。


 沈む。


 また掻く。


 少しだけ浮く。


 肺が限界を訴える。


 視界が暗くなる。


 それでも、止まれない。


 アリカを離せない。


 啓太はアリカの身体を抱きしめた。


 そして、必死に水面を目指した。


 アリカの意識は、ほとんど残っていなかった。


 聞こえるものはない。


 見えるものもない。


 ただ、胸元に感じる温もりだけがあった。


 啓太の腕。


 啓太の鼓動。


 激流の轟音の中で、それだけがかすかに伝わってくる。


(……啓太さん……)


 アリカの指が、啓太の服を掴む。


 離さない。


 離れたくない。


 だが、意識が沈んでいく。


 水面が、遠い。


 啓太の腕が震える。


 呼吸ができない。


 身体が重い。


 それでも、啓太は進み続けた。


 少しずつ。


 ほんの少しずつ。


 二人の身体が、水面へ向かって浮上していく。


 そして――。


 啓太はアリカを抱えたまま、最後の力を振り絞った。


◇ ◇ ◇



御逆島――試験本部。


 外では、雨が狂ったように降り続いていた。


 テントを打つ雨音。


 風に煽られる木々。


 時折、遠くで雷鳴が轟く。


 その異常な天候の中、試験本部には重苦しい空気が漂っていた。


「……捜索隊、一度戻してください」


 試験官の一人が、無線機を握りしめながら告げた。


「ですが、夢宮さんが――」


「分かっています」


 試験官は苦い顔をする。


「この嵐では、これ以上の捜索は危険です。二次遭難が起きれば、それこそ取り返しがつかない」


「……了解」


 無線の向こうから、短い返答が返ってくる。


 捜索隊が戻ってくる。


 だが――。


 夢宮アリカは、まだ見つかっていない。


 そして。


 もう一人。


「天城啓太との連絡は?」


「……まだありません」


 その言葉に、アリーチェが眉を寄せた。


「まだ?」


「はい。最後の通信以降、応答がありません」


 アリーチェは黙り込む。


 啓太は、試験本部からの指示で不審船の調査に向かった。


 そして、アリカのGPSが停止していて、依然行方がわからない。


 偶然。


 そう考えるには、状況が重なりすぎていた。


「……嫌な感じですね」


 アリーチェが小さく呟く。


 その隣では、豪華が腕を組んでいた。


「……」


 いつもの豪快な笑みはない。


 ただ、外の嵐を睨んでいる。


 その時だった。


「――失礼します」


 テントの入口が開いた。


 三人が振り返る。


「……神代さん?」


 そこに立っていたのは、神代恵那だった。


 濡れた髪を整えながら、恵那は本部の中を見回す。


「……あの」


「どうしました?」


 試験官が答える。


「アリカ…夢宮さんの姿が見えないんですけど……」


 恵那の声は、いつもより小さかった。


「夢宮さん、戻ってきていませんよね?」


 一瞬。


 本部の空気が止まった。


 試験官が視線を逸らす。


「……夢宮さんなら、少し遠くまで探索に出ているだけです」


「そう……なんですか?」


「ええ。試験中ですから、その程度のことは――」


「嘘ですよね?」


 恵那の声が、静かに落ちた。


 試験官の言葉が止まる。


 恵那は、本部の中をもう一度見渡した。


 そして。


 そこにあるはずのものがないことに気づいた。


「……啓太くんは?」


 アリーチェと豪華が、同時に恵那を見る。


「啓太くんも、ここにいませんよね?」


「……」


「どうして?」


 恵那の赤色の瞳が揺れる。


「どうして、二人ともいないんですか?」


 その時――。


「捜索隊、帰還!」


 入口から声が響いた。


 濡れた装備を身につけた隊員が、本部へ駆け込んでくる。


「報告します!」


「どうでした?」


「……夢宮アリカさんは、発見できませんでした」


 恵那の顔から、血の気が引いた。


「……え?」


「現在も捜索を継続していますが、嵐が強く――」


「……どういうことですか?」


 恵那の声が震える。


「夢宮さんが、見つからない?」


「神代さん――」


「どういうことですか!」


 今度は、はっきりとした声だった。


 本部全体に響く。


「アリカに何があったんですか!」


 試験官は黙っていた。


 もう誤魔化せない。


「……夢宮さんは、遭難した可能性があります」


「……遭難?」


 恵那の瞳が大きく開く。


「そんな……」


 膝が僅かに震えた。


「捜索隊が派遣されています。しかし、現在の天候では――」


「啓太くんは?」


 恵那が遮る。


「啓太くんは、どうしてここにいないんですか?」


 試験官が迷う。


 だが、アリーチェが静かに口を開いた。


「……説明した方がいいでしょう」


「アリーチェ?」


「この子は、もう隠しても納得しません」


 試験官は小さく息を吐いた。


「天城啓太さんは、不審船の調査に向かいました」


「不審船……?」


「試験区域の外れに、試験とは無関係と思われる船が確認されたためです」


「それで……?」


「……その後、天城さんからの連絡も途絶えています」


「――――」


 恵那の顔が凍りついた。


 アリカが遭難している。


 啓太も連絡が取れない。


 二人ともがいなくなった。


「……そんな……」


 恵那は、ふらりと入口へ向かった。


「神代さん?」


 呼び止める声。


 だが、恵那は止まらない。


「……探しに行きます」


「どこへ?」


 アリーチェが尋ねる。


 恵那は振り返った。


「アリカを探します」


 そして――。


「啓太くんも」


 恵那は拳を握った。


「二人を探しに行きます」


「……この嵐の中を?」


「はい」


「地図は?」


「あります」


「現在地が分かる保証は?」


「……ありません」


「夢宮さんがどこにいるかも分からない」


「……それでも」


 恵那は言った。


「何もしないで待っているなんて、できません」


 アリーチェは目を細める。


「神代さん」


「何ですか」


「それで、この嵐の中をあてもなく探して、何になるんです?」


「……」


「見つかる保証はありません」


「分かっています」


「遭難者を探しに行った人間が、さらに遭難する可能性だってある」


「それでも!」


 恵那が声を荒げる。


「何もしないよりは、ずっとマシです!」


 アリーチェは目を閉じた。


 そして――。


「……これだから、子供は」


 ため息を吐く。


 恵那の前へ歩み出た。


 進路を塞ぐ。


「どいてください」


「嫌です」


「アリーチェさん……」


「止まりなさい」


 アリーチェの声音が変わった。


「これは、精霊庁に所属する者としての命令です」


 恵那が睨みつける。


「……どいて」


「聞こえませんでしたか?」


 アリーチェの周囲に、魔力が集まり始める。


「止まりなさい」


「……どいて!」


「これが最終警告です」


 魔力が膨れ上がる。


 試験本部の空気が張り詰める。


 恵那の身体もまた――。


 熱を帯び始めた。


 髪が揺れる。


 足元の空気が歪む。


 そして。


「どいて――――っ!」


 絶叫。


 瞬間。


 恵那の全身が炎に包まれた。


 ――ゴォッ!


 猛烈な熱波が本部を駆け抜ける。


「っ!」


 アリーチェの銀髪が大きく揺れた。


 周囲の人間が思わず後退する。


 炎の中心で、恵那が叫ぶ。


「私は……!」


 アリーチェが右手を上げる。


 指先に魔力が収束する。


 まるで魔術の引き金を引き絞るように。


 ――次の瞬間。


 バシィッ!


「――っ!」


 乾いた音が響いた。


 恵那の顔が横を向いた。


 炎が一瞬だけ揺らぐ。


 そこに立っていたのは――豪華だった。


 無言のまま。


 恵那を見ている。


「……豪華さん?」


 恵那が呆然と呟く。


 頬が熱い。


 痛い。


 だが、それ以上に理解できなかった。


 なぜ――。


「……何を――」


 恵那が豪華を睨む。


 その瞬間。


 もう一度。


 バシィッ!


 反対側の頬を叩かれた。


「……!」


 恵那の目が見開かれる。


 豪華は怒っていた。


 今まで見たことがないほど。


「目は覚めたかしら?」


「……」


「私は、アナタに取り乱して暴れろなんて教えたつもりはないわよ」


 恵那の炎が、僅かに揺らぐ。


「でも……!」


「でもじゃない!」


 豪華が一喝する。


「心配する気持ちは分かる!」


「だったら――!」


「だからこそ、頭を冷やしなさい!」


 恵那の瞳から、涙が一粒落ちた。


「……無理です」


 声が震える。


「無理なんです……」


 炎が少しずつ弱くなっていく。


「私は……」


 恵那は胸元を掴んだ。


「もう、大切な人を失いたくない……」


 その言葉とともに。


 記憶が蘇る。


 血。


 炎。


 倒れていく家族。


 失われていく命。


 父。


 母。


 そして――。


 何もできなかった自分。


「……あの日みたいに……」


 恵那の声が崩れる。


「また……目の前から、大切な人がいなくなるのが嫌なの……!」


「私は――!」


 涙が溢れる。


「私は、もう大切な人を失うのは嫌なの!」


 その瞬間。


 豪華が恵那を抱きしめた。


「……!」


 力強く。


 逃げられないほどに。


「大丈夫」


 耳元で、豪華が言う。


「アリカを鍛えたのは、この私よ」


「……」


「そう簡単にやられるような子じゃない」


 そして、少しだけ笑った。


「啓太だって、簡単にやられるヤツじゃないでしょう?」


「……でも……」


「最悪を考えないで」


 豪華は恵那の背中を叩く。


「最高を考えなさい」


「……最高……?」


「そうよ」


 豪華は真顔で言った。


「二人は無事!」


「……」


「なんやかんやで啓太がアリカを見つけ出して!」


 ――実際には、かなり当たっている。


「嵐がやむまで、どこかで雨宿りしているのよ!」


「……」


「きっとそう!」


 恵那は涙で濡れた顔のまま、豪華を見る。


「……何ですか、それ」


 ほんの少し。


 口元が緩んだ。


 豪華は胸を張る。


「乙女の勘は当たるものよ!」


「……」


「それに!」


 豪華は恵那から離れ、本部にいる全員を見渡した。


「今の私たちにできることは、二人が動けない状態で――」


 拳を握る。


「もし侵入者と遭遇していたなら、いつでも動けるように力を蓄えておくこと!」


 その言葉に、アリーチェも黙って豪華を見る。


「それが――」


 豪華は恵那へ視線を戻した。


「私たちに求められていることよ!」


 恵那は黙っていた。


 そして、小さく尋ねる。


「……適応力、ですか?」


 豪華の目が輝いた。


「分かっているじゃない!」


 いつもの豪快な笑み。


 だが、その表情はすぐに真剣なものへ変わった。


「……恵那」


 その名前に。


 恵那が僅かに目を見開く。


 いつもなら――。


『神代さん』


 そう呼ぶはずだった。


 けれど、今は違った。


「恵那」


 豪華は、まっすぐに彼女を見る。


「適応しなさい」


 恵那はしばらく豪華を見つめていた。


 そして――。


 ゆっくりと涙を拭う。


「……分かりました」


 炎は、完全に消えていた。


 嵐はまだ止まない。


 アリカも。


 啓太も。


 どこにいるのか分からない。


 それでも――。


 ここにいる者たちは、ただ待つだけではない。


 いつでも動けるように。


 いつでも戦えるように。


 今できることをする。


 それが――。


 仲間を信じるということだった。

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