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005 【天逆鎖ーーあまのさかさ】

雨が、激しくなっていた。


 さっきまでなら「天気が崩れてきた」と表現できた。


 だが、今は違う。


 空を覆い尽くした黒雲から、まるで滝のように雨が叩きつけてくる。


 川の水位も、目に見えて上がっていた。


「……恭華ちゃん!」


 アリカは必死に少女の身体を支えながら、川辺から離れていく。


 恭華の足には、先ほど蛇に噛まれた傷がある。


 最初は大したことがないように見えた。


 少し腫れている程度だった。


 だが――。


「……アリカちゃん……」


「喋らなくていいよ!」


 恭華の声には、明らかに力がなかった。


 顔色も悪い。


 呼吸も、先ほどより浅くなっている。


「もう少し……もう少しだから!」


 アリカは歯を食いしばった。


 試験のことなど、もう頭から消えていた。


 必要なのは、とにかく安全な場所。


 増水した川から離れ、崖崩れの危険も少ない場所。


 雨が強くなれば、地面は一気に不安定になる。


 アリカは地形を何度も確認しながら、ようやく少し開けた場所を見つけた。


「ここなら……!」


 幸い、川からも距離がある。


 周囲に大きな崖もない。


 土砂が流れ込む可能性も比較的低い。


「恭華ちゃん、ここで休もう!」


「……うん……」


 アリカは恭華が濡れないようにシートで包み、テントを設営する。


 雨に濡れながらの作業だった。


 手が震える。


 それでも何とかテントを張り終えると、恭華を中へ運び込んだ。


「ほら……横になって」


「ありがとう……」


 恭華が寝袋に身体を入れる。


 アリカは濡れた髪を乱暴に拭きながら、恭華の顔を覗き込んだ。


「……え?」


 その瞬間。


 アリカの表情が凍った。


「恭華ちゃん……?」


「……なに?」


「熱……」


 額に触れた手が、すぐに離れる。


 異常なほど熱い。


「……熱い……」


 さっきまでとは明らかに違う。


 恭華の顔は赤く染まり、呼吸も苦しそうだった。


「これ……蛇の毒……?」


 アリカの脳裏に、最悪の可能性が浮かぶ。


 毒蛇。


 そして、時間の経過とともに悪化している症状。


「……まずい」


 アリカはすぐに試験用端末へ手を伸ばした。


 SOS。


 これを押せば、運営側が救助に来る。


 試験は失格になる。


 そんなことはどうでもいい。


 アリカの指が、SOSボタンへ伸びる。


「待って……」


 恭華が弱々しく手を伸ばした。


「押さないで……」


「え?」


「試験……まだ……」


「そんなの……!」


 アリカは恭華の手を握った。


「試験より、恭華ちゃんの方が大事だよ!」


「でも……」


「友達が苦しんでるのに、試験だからって見捨てるなんて……私にはできない!」


 迷いはなかった。


 アリカは端末を取り出す。


 そして――。


「SOSを――」


 押そうとした。


 その瞬間だった。


「あ……」


 アリカの顔から血の気が引いた。


 端末の画面。


 そこには、何も表示されていない。


「……え?」


 何度押しても反応しない。


「……なんで?」


 アリカは端末を振る。


 電源ボタンを押す。


 画面は暗いままだ。


「嘘……」


 そこで、ようやく思い出した。


 川。


 あの時、二人とも川へ飛び込んだ。


 アリカ自身も、恭華も。


 そして端末も――。


「……水没した……?」


 端末の内部にまで水が入り込んでいた。


 完全に壊れている。


「そんな……」


 アリカは何度もボタンを押す。


 だが、何も起こらない。


「お願い……!」


 それでも反応はない。


「お願いだから……!」


 恭華が薄く目を開ける。


「……アリカちゃん……」


「……大丈夫」


 アリカは端末を握りしめた。


 そして、顔を上げる。


「私が助けを呼んでくる」


「……え?」


「絶対に」


 外では雷鳴が轟いていた。


 雨音がテントを激しく叩く。


「ここで待ってて」


「でも……」


「絶対に戻ってくるから」


 アリカは恭華の手を握る。


「だから……それまで頑張って」


「……アリカちゃん……」


「大丈夫」


 アリカは笑った。


 けれど、その笑顔は少し震えていた。


「私、こう見えて結構しぶといから」


 立ち上がる。


 そしてテントの入口へ向かった。


「……絶対、助けを呼んでくる」


 そう言い残して――。


 アリカは、豪雨の中へ飛び出した。


◆


 同時刻。


 試験本部では、緊張が走っていた。


「……アリカ組のGPSが途絶えました」


「最後に確認された位置は?」


「第二チェックポイント付近です」


「突然か?」


「はい。現在まで復旧していません」


 モニターに表示された地図。


 そこにあるはずの一つの光点が、消えている。


「端末の故障か?」


「可能性はあります。しかし――」


 担当者が別の画面を見る。


「同時刻、不審船の目撃情報が入っています」


「不審船?」


「島の裏側。受験者の上陸地点とは反対側です」


 室内の空気が変わった。


「規模は?」


「小型船です。乗員数は不明」


「試験関係者ではないのか?」


「照合しましたが、登録された船舶ではありません」


 さらに外では、雨脚が強くなっている。


 風も激しい。


 試験本部では、すでに受験者の安全を最優先にするため、試験の一時中断が検討されていた。


「この天候では危険だ」


「全受験者に一時待機を――」


 その時。


「待ってください!」


 声を上げたのは、啓太だった。


「アリカの組の捜索に行かせてください」


「天城君」


「GPSが途絶えたなら、事故の可能性があります」


 啓太の目は真剣だった。


「早く捜索するべきです」


「その件についてだが――」


 運営責任者が啓太を見る。


「君には別の任務を頼みたい」


「……別の?」


「不審船の調査だ」


 啓太が目を細める。


「なぜ俺が?」


「現在、この場にいる者の中で、島内外を最も迅速に移動できる」


 責任者は淡々と続ける。


「加えて、万一相手が危険な人物だった場合にも対応できるだけの実力がある」


「……」


「受験者の回収は我々が行う。アリカ君の組についても、最後に確認された位置を基準に捜索隊を派遣する」


「ですが――」


「君にしか頼めない」


 啓太は一瞬だけ黙った。


 そして頷く。


「……分かりました」


 迷っている時間はない。


「不審船を確認します」


「頼む」


 啓太は水上バイクへ向かった。


◆


 その頃。


 アリカは地図とコンパスを手に、雨の中を走っていた。


「はぁ……はぁ……!」


 身体強化。


 魔力を全身へ巡らせ、脚力と持久力を高める。


「……誰か……!」


 周囲を見回す。


「誰かいない……!?」


 返事はない。


 雨音が全てを掻き消している。


 そこでアリカは目を閉じた。


「お願い……」


 風の精霊へ意識を集中する。


「近くに誰かいたら教えて……」


 風が、周囲を駆け巡る。


 木々の間を抜ける。


 岩肌を撫でる。


 そして――。


 微かな気配を捉えた。


「……!」


 アリカが目を開く。


「人……?」


 確かに感じる。


 風の向こう。


 何者かの存在。


「いた……!」


 アリカはそちらへ走った。


 木々を抜ける。


 岩場を回り込む。


 そして――。


「……洞窟?」


 断崖の一角に、大きな洞窟が口を開けていた。


「誰かいるの……?」


 アリカは慎重に近づく。


 風の精霊から伝わってくる気配は、確かにこの奥からだった。


◆


 ――少し前。


 断崖の前に、三人の男が立っていた。


「……これか?」


「間違いねぇ」


 一人が岩壁へ手を当てる。


 見た目は、ただの土壁。


 しかし。


 魔力を流すと、その奥に複雑な術式が浮かび上がった。


「すげぇな……」


「魔術による偽装だ。しかも封印まで重ねてやがる」


「普通なら気づかねぇだろうな」


 男はニヤリと笑う。


「だが――」


 手を掲げた。


「俺には分かる」


 大地が震えた。


「土の精霊よ」


 壁に亀裂が走る。


「――砕けろ!」


 轟音。


 土壁が一気に崩れ落ちた。


 その奥から――。


 巨大な空間が姿を現した。


「……おお」


 三人は息を呑む。


 そこは、まるで地下の祭殿だった。


 巨大なホール状の洞窟。


 壁面には古びた文様。


 そして、その中央に――。


 石像が立っていた。


 人の姿にも見える。


 だが、どこか人とは違う。


 顔には感情がなく、長い年月を経た石の表面には無数の亀裂が走っている。


 そして。


 石像の身体を這うように――一本の鎖が巻き付いていた。


 それは普通の鎖ではなかった。


 一つ一つの輪が、まるでメビウスの輪のように捻じれている。


 始まりと終わりの境界すら曖昧な、不自然な形。


 何重にも連なったそれは、鎖そのものが生き物のように蠢いているようにも見えた。


 黒とも、鈍い金属色ともつかない異様な色。


 近づくだけで、背筋を這うような悪寒がする。


 さらに、その周囲には幾重もの封印術式が施されていた。


 鎖の力を封じるための術式。


「これだ……」


 一人が震える声で呟いた。


「10000%間違いねぇ」


「鎖の呪具か?」


「石像に何か彫ってあるぞ」


 別の男が石像へ近づく。


 古代文字を指でなぞる。


「何々……?」


 そして読み上げた。


「天逆鎖……」


「――あまのさかさ?」


「ああ」


 男は資料を取り出す。


「文献に書いてあった」


 ページをめくる。


「精霊を従わせ、意思すら無視して契約を強制する禁忌の呪具」


「……ヤベエ代物だな」


「だからこそ価値がある」


 男が笑う。


「なら、さっさと回収しちまおう」


 封印へ手を伸ばす。


 術式が激しく明滅する。


 それでも男は構わない。


「これだけの封印……!」


「壊せるのか?」


「ここじゃあ無理だ。持ち帰ってからじゃねえと10000%解除できやしねえ?」


 男が鎖を石像から取り外していく。


 そして――。


 ジャラ……。


 石像から、天逆鎖を外した。


「――あのぅ」


 その声が。


 静まり返った洞窟に響いた。


 三人の動きが止まる。


「……?」


 全員が振り返った。


 洞窟の入口。


 そこに――。


 ずぶ濡れになった少女が立っていた。


 髪は雨に濡れて頬に張り付き、肩で息をしている。


 夢宮アリカ。


 彼女は三人の男と、男の手に握られた奇妙な鎖を交互に見た。


「……すみません」


 アリカは恐る恐る尋ねる。


「人を……助けを呼んで下さい……」


 誰も答えない。


 洞窟の中に、異様な沈黙が落ちる。


 アリカはまだ知らない。


 目の前にあるものが何なのか。


 そして――。


 自分が今、御逆島に隠された最悪の禁忌へ足を踏み入れてしまったことを。


◆


 一方、試験本部。


「全受験者へ通達!」


 通信担当が叫ぶ。


「悪天候のため、試験を一時中断します!」


 受験者たちの端末へ、一斉に通知が送られる。


「現在位置を維持し、安全な場所で待機してください!」


 運営側はGPS情報をもとに、次々と受験者を回収していく。


 そして――。


「アリカ組の捜索隊、発見!」


「場所は!?」


「最後のGPS情報から離れています。ですが、テントを発見!」


 数分後。


「恭華君を発見しました!」


 テントの中。


 恭華は高熱にうなされていた。


「すぐに搬送!」


 救護班が彼女を担架へ乗せる。


「蛇に噛まれた可能性があります!」


 急いで本部へ搬送される。


 治療班が血清を用意し、毒への処置を開始。


 時間との勝負だった。


 幸い、治療は間に合った。


 数時間後。


 恭華の容態は、徐々に安定していった。


「……夢宮さんは?」


 救護担当が尋ねる。


 恭華は薄く目を開けた。


「……アリカちゃんは……」


「どこにいますか?」


「……助けを……呼びに……」


 その言葉を聞いた瞬間。


 運営側の表情が変わった。


「捜索隊をもう一度出せ!」


「了解!」


「最後に確認された位置を中心に捜索範囲を拡大!」


 アリカが一人で雨の中へ出た。


 それを知った運営側は、ただちに捜索を開始した。


◆


 そして――。


 島の裏側。


 啓太は水上バイクを止めた。


 目の前には、一隻の小型船。


 波に揺られながら、そこに停泊している。


「……誰もいない?」


 船内を確認する。


 操舵室。


 船倉。


 客室。


 どこにも人影はない。


「……妙だな」


 啓太は船を降りた。


 砂浜へ視線を落とす。


 雨で濡れた地面。


 その上に――。


 複数の足跡。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


「三人……」


 啓太は足跡の方向を見る。


 島の内部へ続いている。


「船を置いて、三人で上陸したのか」


 無線を取る。


「こちら天城啓太。不審船を確認しました」


 通信が返ってくる。


『状況は?』


「船内は無人です。ですが、三人分と思われる足跡を確認。島内へ侵入したようです」


 少し間があった。


 そして――。


『了解。こちらからも報告があります』


「何ですか?」


『夢宮アリカ君とペアの受験者が事故に遭いました』


「……!」


 啓太の表情が変わる。


『ペアの受験者は救助済みです。しかし――』


「アリカは?」


『まだ発見されていません』


「……そうですか」


 啓太は拳を握る。


 アリカ。


 そして――。


 島へ侵入した三人。


 偶然なのか。


 それとも――。


「……分かりました」


 啓太は無線を切る。


 雨が激しく頬を打つ。


 それでも、その目は冷静だった。


「捜索隊に任せるしかない」


 今、自分が優先すべきことは別にある。


 この島に、受験者とは無関係の人間が侵入している。


 そして彼らは――。


 啓太は足跡を睨んだ。


「……追う」


 啓太は、島の奥へ向かって歩き出す。


 雨の向こう。


 御逆島の断崖絶壁が、まるで何かを拒むように静かに佇んでいる。


 啓太は知らない。


 その先でアリカが、すでに三人の侵入者と遭遇していることを。


 そして。


 彼らが手にしたものが――。


 この島に眠る、世界の理そのものを揺るがしかねない禁忌の呪具であることを。

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