004 【暗雲】
日が沈み、御逆島に夜が訪れた。
昼間とはまるで別の場所のようだった。
深い森は闇に包まれ、木々の間を吹き抜ける風の音だけが響いている。
試験一日目。
日中の受験者の監視は試験官たちが担当していたが、夜間になると役割が変わる。
受験者たちの安全確認。
それが、啓太たち補助グループに与えられた仕事だった。
「次の確認地点は……ここか」
啓太は手元の端末を確認する。
受験者に配布されているカード型デバイスには、GPSによる位置情報が記録されている。
それを照合しながら、担当する受験者のもとへ向かっていく。
「問題なければ、そのまま次へ移動。何かあれば対応」
独り言のように確認しながら、啓太は森の中を進んだ。
やがて――。
「……ここだな」
木々の向こうに、小さな明かりが見えた。
焚き火の光。
そのそばに、テントが二つ。
啓太は足を止め、周囲を確認する。
異常なし。
さらに近づいていく。
「こんばんは」
声をかけようとした、その時だった。
「啓太くん?」
「……え?」
聞き覚えのある声。
焚き火の向こうから顔を出したのは――。
「恵那?」
「はい」
神代恵那だった。
そして、その隣には京華が座っている。
「なんだ。二人だったのか」
「うん。ちょうど晩ご飯ができたところなんだ」
恵那が嬉しそうに答える。
焚き火の上には、簡単ながらもきちんと調理された料理が並んでいた。
「魚?」
「京華さんが捕まえてくれたの」
「山菜は恵那さんが」
京華も穏やかに微笑む。
「二人で作りました」
「なるほど」
啓太は二人と周囲を見回した。
「体調は?」
「問題ありません」
「水は?」
「十分に確保しています」
「食料は?」
「三日分くらいあります」
「なら問題ないな」
啓太は頷いた。
特に異常はない。
予定通りなら、次の受験者のところへ向かう。
「じゃあ、俺は次に――」
「あの」
京華が声をかけた。
「はい?」
「せっかくなので、啓太さんにも味見をしていただきませんか?」
「いや」
啓太は首を横に振る。
「試験には関係ないだろ」
「ええ」
「だったら――」
「関係ないので、問題ないのでは?」
「……」
啓太が黙る。
京華はにこにこと笑っている。
「仕事に支障が出るわけでもありませんし」
「……そういう理屈か」
「はい」
「……まあ」
啓太は焚き火の前を見る。
焼き魚から、香ばしい匂いが漂ってきた。
「一口だけなら」
「どうぞ」
啓太は腰を下ろした。
「ありがとう」
恵那が嬉しそうに笑う。
「じゃあ、これを」
恵那が箸を手に取った。
焼き魚の身を一口分だけほぐす。
「はい」
そのまま――。
「……?」
啓太の目の前に、箸が差し出された。
「啓太くん、どうぞ」
「ああ」
啓太は特に気にする様子もなく、そのまま口を開けた。
「あーん」
ぱくっ。
「……美味い」
「本当?」
「ああ。塩加減もちょうどいい」
「よかった……」
恵那がほっとしたように微笑む。
その隣で――。
京華がじっと二人を見ていた。
「……ふふ」
「どうした?」
「いえ」
京華は楽しそうに笑った。
「恵那さんは、良いお嫁さんになりそうですね」
「えっ……」
恵那の顔が一瞬で赤くなる。
「そ、そんな……」
「料理もできますし、こうして食べさせてくれますし」
「京華さん……!」
恵那が慌てる。
啓太は二人を見て、少しだけ苦笑した。
「まあ、仲が良いのは分かった」
「……啓太くん」
恵那が少し恥ずかしそうに啓太を見る。
「じゃあ、俺は行く」
「もうですか?」
「仕事だからな」
啓太は立ち上がる。
「二人とも、何かあったらすぐカードのSOSを使え。無理に自分たちだけで対処するな」
「はい」
「分かりました」
「それじゃ」
「おやすみなさい、啓太くん」
「ああ」
啓太が森の中へ消えていく。
その背中を見送った恵那は――。
「……ふふ」
嬉しそうに笑った。
「……恵那さん」
「はい?」
「随分嬉しそうですね」
「……そうですか?」
「ええ」
京華は口元を隠しながら、ニヤニヤしていた。
◇ ◇ ◇
一方。
「…………」
「…………」
アリカと恭華は、焚き火の前で固まっていた。
二人の前には夕食。
そして――。
「これ……本当に食べるの?」
アリカが恐る恐る尋ねる。
「食べ物ですから」
恭華が答える。
「でも……」
「自分たちで捕まえたものですよ」
「…………」
二人は顔を見合わせた。
そこへ――。
「こんばんは」
「アリーチェさん!」
森の向こうから、アリーチェが現れた。
「二人とも、問題ありませんか?」
「大丈夫です!」
「水もあります」
「食料は……」
アリーチェの視線が、二人の食卓へ向く。
「……これは?」
「…………」
「…………」
アリカと恭華は答えなかった。
「ま、まあ……食べ物です!」
アリカが元気よく答える。
「そうですか」
アリーチェは少し不思議そうだった。
「それでは、私は次の確認へ――」
「あっ、待ってください!」
恭華が呼び止めた。
「よかったら、味見していきませんか?」
「私が?」
「はい」
「試験に関係ありませんよね?」
「もちろんです」
「でしたら……」
アリーチェは少し考えた後、席についた。
「いただきます」
恭華が謎の肉を皿に乗せる。
アリーチェの前へ。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
アリーチェは箸を手に取った。
一口。
ぱくっ。
「…………」
二人が固唾を飲んで見守る。
「……美味しいですね」
「本当!?」
アリカが身を乗り出す。
「ええ。少し鶏肉に似ていますが……」
「…………」
「…………」
恭華とアリカが目を合わせる。
「何か?」
「い、いえ!」
アリーチェは立ち上がった。
「それでは、私はこれで」
「はい!」
「ご馳走様でした」
アリーチェはそのまま去っていく。
足音が遠ざかる。
「…………」
「…………」
アリカが肉を見る。
「恭華ちゃん」
「なに?」
「……食べよう」
「うん」
「だって、アリーチェさんが美味しいって言ったもんね」
「そうですね」
二人は意を決して箸を伸ばした。
ぱくっ。
「…………」
「…………」
「……美味しい」
「うん……」
◇ ◇ ◇
「おーい!」
別の野営地。
風太と修司が夕食を囲んでいるところへ、突然大きな声が響いた。
「……?」
風太が顔を上げる。
「誰でしょう?」
修司が振り返る。
木々の向こうから姿を現したのは――。
「いた!」
「姉さん!?」
「こんばんは!」
鷲宮豪華だった。
「ちょうど夕飯?」
「うん……」
「じゃあ、私も食べるわ!」
「えっ?」
豪華は有無を言わせず、二人の間に腰を下ろした。
「いただきます!」
「…………」
修司が呆然とする。
「姉さん……これは僕たち二人分だよ?」
「大丈夫、大丈夫!」
豪華は野うさぎの肉を使った料理を豪快に口へ運ぶ。
「うまい!」
「そうですか。それはよかった」
修司が苦笑する。
「料理人として嬉しいですね」
「これ、アナタが作ったの?」
「はい」
「最高!」
豪華は夢中になって食べる。
そして――。
「修司さん」
「はい?」
「おかわり」
「……まだ食べるんですか?」
「食べる!」
風太が頭を抱える。
「姉さん……」
「何よ?」
「一応、試験中だよ」
「分かってるわよ」
「受験者のところを回ってるんだよね?」
「そうよ」
「だったら……」
「腹が減ってたら仕事にならないでしょ!」
「…………」
風太は何も言えなかった。
豪華は二杯目を平らげると、満足そうに立ち上がる。
「ご馳走様!」
「はい」
「じゃ、次行ってくるわ!」
「……はい」
豪華は森の中へ消えていく。
風太はしばらく、その背中を見つめていた。
「…………」
「どうしました?」
修司が尋ねる。
「……あの人」
「はい」
「次の班の夕飯も食べに行く気がします」
「まさか」
「絶対行きます」
数秒後。
森の向こうから豪華の声が響いた。
「おーい! 次の班、夕飯できてるー!?」
「…………」
風太は額に手を当てた。
「……ちゃんと仕事してよ」
修司は思わず吹き出した。
「まあまあ。これも彼女なりの巡回なのかもしれませんよ」
「絶対違います」
御逆島の夜。
三つの野営地で、それぞれ違った夕食の時間が過ぎていった。
誰もがまだ知らない。
この島で過ごす最初の夜が――
この試験の、ほんの始まりに過ぎないことを。
◇ ◇ ◇
第二日目――雨の気配
御逆島。
国家魔術師三種試験、二日目。
朝日が昇ると同時に、島は再び受験生たちの足音で満たされていった。
昨日とは違う。
初日は、三日間を生き抜くための準備に追われた者が多かった。
だが、二日目ともなれば話は変わる。
残された時間は、あと二日。
ここからは、どれだけ効率よく指定されたルートを進み、最後のゴールへ到達できるかが重要になってくる。
◇ ◇ ◇
「昨日のうちに、かなり準備できましたね」
恵那が周囲を見渡す。
テントを畳み、必要な荷物をまとめる。
水。
食料。
燃料。
簡単な調理器具。
その他の最低限の生存用具。
昨日一日をかけて、二人はそれらを十分に確保していた。
「はい。食料もまだ余裕があります」
京華が確認する。
「なら、今日は進みましょう」
「そうですね」
二人は歩き始めた。
昨日とは明らかにペースが違う。
無駄な寄り道をせず、地形を確認しながら前へ進んでいく。
やがて――。
「見えました」
木々の間に、チェックポイントの装置が見えた。
「……私たちにとっては最初のポイントですね」
「はい」
恵那がカード型デバイスを装置にかざす。
電子音。
『通過を確認しました』
「よし」
二人は顔を見合わせる。
これで指定通過ポイントを一つクリア。
残るは二つ。
「この調子で行きましょう」
「はい」
二人は再び歩き出した。
しかし――。
「……恵那さん」
「はい?」
京華が空を見上げている。
「雲が増えてきましたね」
恵那も顔を上げた。
先ほどまで見えていた青空。
その一部を、灰色の雲が覆い始めている。
「雨……降るでしょうか」
「分かりません。ただ」
京華が周囲を見る。
「この島の地形で雨が降れば、かなり危険だと思います」
「……川も増水するでしょうし、足場も悪くなりますね」
「はい」
二人は少し考える。
もし今日の午後から雨が降り始めたら。
そして、それが最終日まで続いたら。
移動そのものが困難になる可能性がある。
「だったら」
恵那が前を見る。
「降り出す前に、できるだけ距離を稼ぎましょう」
「私もそう思います」
方針は決まった。
「行きましょう」
「はい!」
二人は魔力を身体へ巡らせた。
脚力。
持久力。
反応速度。
試験の規定で許されているのは、あくまで魔力による身体強化のみ。
精霊の力は使えない。
それでも――。
「少しペースを上げます!」
「分かりました!」
二人は森の中を駆けるように進み始めた。
雨が降り出す前に。
一歩でも先へ。
◇ ◇ ◇
一方。
「……空が悪くなってきましたね」
風太が立ち止まった。
隣では修司も空を見上げている。
「ええ」
昨日までとは違う。
風が湿っている。
遠くの空には厚い雲が広がっていた。
「雨が降ったら、昨日みたいなやり方は難しくなります」
「そうですね」
昨日の二人は、歩きながら食料を確保していた。
だが、雨の中でそれを続けるのは難しい。
視界が悪くなる。
足場が滑る。
川も増水する可能性がある。
そして何より――。
「最終日まで雨が続いたら……」
風太が呟く。
「食料を探す余裕もなくなります」
「その通りです」
修司は少し考えた。
「なら、今のうちに確保しましょう」
「今日と明日の分を?」
「ええ」
進行速度は落ちる。
だが、食料不足というリスクを抱えたまま進むよりはいい。
「今日一度、しっかり食料を確保する。その後は、雨が降っても歩けるように、できるだけ無理のないルートを選んで進みましょう」
「はい」
風太も頷いた。
「急がなくても、確実にゴールへ近づけばいい」
「そういうことです」
二人は進行を一度止め、食料の確保へ切り替えた。
焦らない。
無理をしない。
それでも、一歩ずつ前へ。
二人の方針は変わらなかった。
◇ ◇ ◇
そして――。
「やったぁ!」
アリカがカードを掲げた。
『第二チェックポイント、通過を確認』
「これで二つ目!」
隣の恭華も笑う。
「順調ですね」
「うん!」
昨日とは違う。
昨日は食料の確保を完全に忘れてしまった。
だが、今日は違う。
「今日はちゃんと食べ物を探そう!」
「昨日みたいなことにならないようにですね」
「そう!」
二人は森の中へ入った。
しばらく進んだところで――。
「……あっ」
アリカが足を止める。
「どうしたんですか?」
「いた」
「何が?」
アリカが指を差した。
木々の向こう。
巨大な影が動いた。
「……イノシシ!」
「本当ですね」
「今度こそ!」
二人は顔を見合わせる。
「追うよ!」
「はい!」
イノシシが走り出す。
二人も走る。
「待ってー!」
「逃がしません!」
イノシシは森を駆け抜け、やがて川辺へ出た。
「追い詰めた!」
アリカが叫ぶ。
「今です!」
二人が左右から同時に飛びかかった。
「せーの!」
「――っ!」
その瞬間。
イノシシが急激に方向を変えた。
「え?」
「しまっ――」
ドボンッ!!
「きゃああああっ!」
「うわぁぁぁっ!」
二人は見事に川へ落ちた。
大きな水しぶきが上がる。
そして――。
イノシシは悠々と反対側の茂みへ消えていった。
「…………」
「…………」
ずぶ濡れになった二人が、川の中で呆然とする。
「……逃げられましたね」
「…………うん」
「残念です」
「……うん」
アリカが拳を握る。
「……お肉は諦めよう」
「賛成です」
二人は川から上がった。
「でも!」
アリカが川を見る。
「魚ならいる!」
「なるほど」
今度は作戦変更。
川魚を捕まえる。
さすがにイノシシよりは難易度が低い。
「そこ!」
「えいっ!」
ぱしゃっ。
「逃げた!」
「そっち!」
ぱしゃっ!
「いた!」
「今です!」
何度も失敗を繰り返しながらも――。
「捕まえたぁ!」
アリカが魚を掲げた。
「やりました!」
恭華も笑う。
ついでに川の水も確保できた。
「これで食料も水も大丈夫」
「昨日より成長しましたね」
「うん!」
二人は満足そうに頷いた。
だが――。
アリカが空を見上げる。
「……あれ?」
「どうしました?」
「雲……」
空を覆う灰色の雲。
「……まずいですね」
恭華の表情が変わる。
「急ごう」
「はい」
目指すは三つ目の指定通過ポイント。
雨が降る前に、少しでも先へ進む。
二人は急いで森の中へ入っていった。
◇
森の中。
先ほどまでよりも足取りが速い。
「この先です!」
「分かった!」
二人は茂みを抜けていく。
その時だった。
「――きゃあっ!!」
恭華の悲鳴。
「恭華ちゃん!?」
アリカが振り返る。
「どうしたの!?」
「……っ!」
恭華がその場にしゃがみ込んでいた。
「足……!」
「え?」
アリカが駆け寄る。
恭華の足元。
草むらの中から、一本の細長い影が逃げていく。
「蛇……!」
「咬まれたの!?」
「……たぶん」
恭華が自分の足を見る。
小さな傷。
そこから血が滲んでいる。
「どうしよう……」
アリカの顔から血の気が引いた。
「毒蛇だったら……」
「分かりません」
恭華は冷静に答える。
「まず、落ち着きましょう」
「でも!」
「アリカちゃん」
恭華がアリカの手を握る。
「大丈夫です」
「…………」
アリカは毒蛇だった場合を考えて、毒が体に回らない様に、取り敢えず恭華の太もも付近をタオルで縛る。
そして毒を体外に出すために、何度か傷口から毒を吸い出し始めた。すると…
空から、一滴。
冷たい雨粒が落ちてきた。
ぽつ。
「……雨」
二滴。
三滴。
そして――。
森の向こうから、低い雷鳴が響いた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
御逆島の北側。
荒々しい岩場が続く海岸に、一隻の小型船が近づいていた。
エンジン音が、波の音に混じる。
船が岩陰へ寄せられる。
「よっと!」
一人の男が岩場へ飛び降りた。
続いて、二人。
三人の男たちが御逆島へ上陸する。
一人が周囲を見渡した。
「……こんな場所に、本当にお宝があるのか?」
「一万パーセント間違いねぇよ」
別の男が胸を張る。
「ミーの頭脳が、ここだと言っているぜ」
「つっても、断崖絶壁の崖じゃん」
目の前には、切り立った岩壁。
人が近づくことすら困難な場所だった。
「だからこそだろ」
男は笑う。
「誰も近寄れねぇ。だから、まともに調査もできなかった」
「なるほどな」
男は懐から、掌ほどの小さな羅針盤を取り出した。
普通の羅針盤とは少し違う。
方位磁針ではない。
針は北を示さず、ゆっくりと回転している。
そして――。
ぴたり。
ある方向で止まった。
「あっちだ」
男がニヤリと笑う。
「行くぜ」
三人は岩場を越え、その針が示す方向へ歩き始めた。
その先に何があるのか。
彼ら自身も、まだ知らない。
ただ一つ確かなことがある。
彼らがこの島へやって来た目的は――。
宝探しなどではない。
そして。
その存在を、島にいる五十人の受験者たちはまだ誰一人として知らなかった。




