003 【御逆島ーみさかじま】
御逆島。
その名の由来を知る者は、今となってはほとんどいない。
日本本土から遥かに離れた、広大な無人島。
海岸線には白い砂浜が広がる一方、島の内側には深い森林と険しい山岳地帯が広がっている。
そして、この島には古くから一つの言い伝えが残されていた。
――天を縛ろうとする者、天に喰われる。
ただの古い伝承。
少なくとも、試験を受ける五十人の受験生にとっては、その程度の認識だった。
◇ ◇ ◇
「ここなら、いいと思います」
恵那が立ち止まった。
森を抜けた先。
少し開けた場所に、小さな沢が流れている。
背後には木々があり、風も比較的穏やかだった。
「うん。夜になってから場所を探すより、今のうちに決めちゃった方がいいですよね」
隣にいた京華も頷く。
太陽はまだ高い。
だが、島の中では日没後の暗闇が想像以上に早く訪れる。
二人は試験開始から無理に速度を上げることなく、着実に指定されたルートを進んできた。
「じゃあ、テントを張りましょう」
「はい」
二人で簡易テントを設営する。
その後、恵那は沢の水を浄水器に通し、飲料水を確保。
京華は周辺を確認し、食料になりそうなものを探し始めた。
「恵那さん、こっちに食べられそうな山菜があります」
「本当ですか?」
「ええ。ただ、種類を間違えると危険なので、試験の資料に載っているものだけにしましょう」
「そうですね」
二人は持参した簡易資料と照らし合わせながら、食べられる山菜だけを採取していく。
一方――。
「いました」
沢の浅瀬に、魚が泳いでいる。
「京華さん、魚です」
「では、私が」
京華は袖をまくり、沢へ入った。
魚が逃げる。
京華が追う。
「……っ」
ぱしゃっ。
逃げる。
「……」
京華が無言で追う。
ぱしゃっ。
「……捕まえました」
「すごい……」
恵那が思わず拍手する。
京華の手には、小さな魚が数匹。
「これくらいあれば十分でしょう」
「山菜も結構採れました」
互いに成果を確認する。
二人の食料は、すでに三日分を確保できていた。
◇
「じゃあ、料理しましょうか」
「はい」
二人は協力して夕食の準備を始めた。
山菜を洗い、魚を処理する。
火を起こし、簡単な調理をする。
豪華な料理ではない。
だが、二人で作った食事は思いのほか美味しかった。
「……美味しいですね」
「本当ですね」
恵那が笑う。
京華も小さく微笑んだ。
「恵那さんは、料理は得意なんですか?」
「普通……だと思います。啓太くんのお家で料理をすることもありますけど」
「啓太くんって、船で話していたお兄さんですか?」
「はい」
「仲が良いんですね」
「……はい」
少しだけ、恵那の頬が緩む。
「京華さんは?」
「私ですか?」
「好きなこととか。趣味とか」
「そうですね……」
京華は少し考えた。
「読書が好きです。あとは音楽を聴くことも」
「どんな本を?」
「ホラー小説が多いですね」
「意外です」
「そうですか?」
「もっと……こう、可愛いものが好きなのかなって」
「ふふ。どうしてですか?」
「なんとなくです」
二人の間に、穏やかな笑い声が生まれた。
試験という緊張感から、ほんの少しだけ解放された時間だった。
◇ ◇ ◇
一方。
「アリカちゃん、もう少し休もうよぉ……」
「駄目だよ、恭華ちゃん!」
森の中を二人の少女が走っていた。
「まだ明るいんだから、進めるだけ進まなきゃ!」
「でも、お水……」
「節約!」
アリカは自分の水筒を確認する。
「大丈夫。まだあるよ!」
「本当に?」
「うん!」
アリカと恭華は、ひたすら前へ進んでいた。
休憩を最低限に抑え、とにかく早く指定通過ポイントを目指す。
そして――。
「見つけた!」
アリカが叫んだ。
木々の間に設置された装置。
受験者用のカードをかざす。
電子音が鳴った。
『第一チェックポイント、通過を確認』
「やったぁ!」
アリカが両手を上げる。
「これで一つ目!」
「順調ですね」
「この調子で二つ目も行こう!」
二人はさらに進んだ。
だが――。
気がつけば、太陽が沈み始めていた。
「……あれ?」
アリカが空を見上げる。
赤かった空が、急速に暗くなっていく。
「そろそろテント張った方がいいんじゃない?」
「うん……」
慌てて周囲を探す。
二つ目のチェックポイントまで、かなり近づいている。
しかし、夜の森を進むのは危険だ。
「ここにしよう!」
二人は急いでテントを設営した。
そして――。
「…………」
「…………」
気づいた。
「……恭華ちゃん」
「なに?」
「私たち……」
「うん」
「食料、取ってない」
「…………」
二人は顔を見合わせた。
「どうしよう!?」
「どうしましょう?」
完全に盲点だった。
水を節約し、移動速度を優先した結果、食料の確保を完全に後回しにしていた。
「何か食べられるもの探そう!」
「でも、もう真っ暗ですよ?」
「懐中電灯がある!」
二人はライトを手に周囲を探し始めた。
そして――。
「…………いた」
「え?」
アリカのライトが、何かを照らした。
地面。
そこに――。
巨大なカエルがいた。
「…………」
「…………」
「…………大きいね」
「大きいですね」
カエルが二人を見る。
二人もカエルを見る。
「…………」
「…………」
アリカが恐る恐る手を伸ばした。
「食べられる……よね?」
「たぶん……」
「……」
「試験資料には、食用可能な両生類についても……」
「分かった! 私、やる!」
「頑張って!」
「恭華ちゃんも手伝ってよぉ!」
夜の森に、少女たちの悲鳴が響いた。
◇ ◇ ◇
そして別の場所。
「この川なら水は確保できますね」
水城修司が川面を覗き込んだ。
「はい」
風太も頷く。
二人の行動には焦りがなかった。
急ぎすぎない。
かといって、立ち止まりもしない。
水を確保したら、また歩く。
そして――。
「風太君」
「はい?」
「少し待ってください」
修司が足を止めた。
茂みを見る。
「何かいます」
「え?」
次の瞬間。
一匹の野うさぎが飛び出した。
「あっ!」
風太が驚く。
しかし修司は素早かった。
野うさぎの進路を読み、逃げ道を塞ぐ。
ほどなくして、食料として確保することに成功した。
「すごい……」
「料理人をしていたので、こういうのは多少慣れています」
「料理人だったんですか?」
「ええ」
二人は歩きながら話を続ける。
「昔から、幽霊とかは見えていたんです」
「幽霊……」
「でも、それだけでした」
修司は笑う。
「見えるだけ。話せるわけでもない。力が使えるわけでもない。だから、自分はそういう体質なんだと思って付き合っていました」
「じゃあ……精霊使いになったのは?」
「五年くらい前です」
「そんなに最近なんですか?」
「はい」
修司は少し遠くを見るような目をした。
「働いていた料理屋に、強盗が入ったんです」
「……」
「刃物を持った男が二人。逃げる暇もありませんでした」
その時。
自分は死ぬ。
そう思った。
「その瞬間、水の精霊が現れました」
「水の精霊が……」
「ええ」
そして――選ばれた。
「水が私たちの間に壁を作ってくれた。強盗は怯んで逃げていきました」
「……すごい」
「私もそう思います」
修司は笑った。
「料理人として生きてきた私を、精霊が必要としてくれた。それ以来、精霊使いとして勉強しています」
風太は黙って聞いていた。
「だから私は、精霊には感謝しています」
「……はい」
その言葉に、風太も静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
午後の御逆島。
試験初日の緊張感から解放された啓太たちは、束の間の自由時間を利用して、島の南側にある砂浜へ来ていた。
青い空。
白い砂浜。
どこまでも広がる海。
「はぁ~……」
豪華が砂浜に寝転がり、大きく伸びをする。
「やっぱり海っていいわねぇ!」
「鷲宮さん、試験中ですよ」
「分かってるわよ。だからこそ休める時に休むの!」
「…それもそうですね」
啓太は苦笑しながら、パラソルの下で海を眺めていた。
普段なら任務中にこんな場所でのんびりすることなどない。
ましてや、今回は国家資格の試験だ。
だが、日中の受験者監視は試験官が担当している。
啓太たち補助要員には、夕方まで自由時間が与えられていた。
「たまには、こういうのも悪くないか」
「でしょう?」
豪華が満足そうに笑う。
その隣ではアリーチェが海を眺めながら、持参した日焼け止めを手にしていた。
「…………」
「どうした?」
啓太が尋ねる。
「天城さん」
「はい」
「お願いがあります」
「なんでしょう?」
アリーチェは少しだけ頬を赤くしながら、日焼け止めを差し出した。
「これ、塗ってください」
「…………」
啓太は日焼け止めを見る。
そしてアリーチェを見る。
もう一度、日焼け止めを見る。
「……俺ですか?」
「はい」
「自分で届かないところだけ、ということだね」
「そうです」
「…………」
啓太は少し困ったように眉を下げた。
「いや、アリーチェさん」
「はい?」
「俺じゃなくてもいいよね?」
「駄目です」
「即答だね」
「天城さんにお願いしたいんです」
「どうして?」
「…………」
アリーチェが黙る。
「……なんとなくです」
「なんとなくですか」
「はい」
「それなら、なおさら俺じゃなくても……」
「嫌です」
「…………」
啓太は困った。
本当に困った。
だが、慌てるわけでもなく、ただどうしたものかとアリーチェを見ている。
「……アリーチェさん」
「はい」
「これ、俺がやると問題になりませんか?」
「何がですか?」
「いろいろと」
「問題ありません」
「即答ですね……」
アリーチェはにっこり笑った。
「天城さんは真面目ですから」
「そういう問題じゃないと思うんだけど」
「じゃあ、決まりですね」
「決まってません」
「決まりです」
「決まってませんよ」
二人のやり取りを聞いていた豪華が、むくりと起き上がった。
「……あんたたち」
「?」
「さっきから何やってんの?」
「アリーチェが背中に日焼け止めを塗ってほしいそうで」
「ふーん」
豪華はアリーチェを見る。
そして啓太を見る。
数秒。
「私が塗ってあげるわよ」
「えっ?」
アリーチェが目を丸くした。
「何よ、その顔」
「い、いえ……」
「背中くらい私でも塗れるでしょ」
「…………」
アリーチェは日焼け止めを握ったまま固まる。
「どうしたの?」
「……お願いします」
「よし、任せなさい!」
豪華が日焼け止めを受け取る。
「ほら、座って」
「はい」
アリーチェが砂浜に座る。
豪華が日焼け止めを手に取り――。
「いくわよ!」
「はい」
ぬり。
「ひゃっ……!」
アリーチェの声が、静かなビーチに響いた。
「ちょっと鷲宮さん!」
「何よ!」
「冷たいです!」
「日焼け止めなんだから当たり前でしょ!」
「そうですけど……!」
ぬりぬり。
「ひゃっ……!」
「動かない!」
「くすぐったいんです!」
「我慢しなさい!」
「無理です!」
「ならもっと我慢!」
「ひゃあっ!」
砂浜に響き渡る、妙に艶のある悲鳴。
「…………」
啓太はパラソルの下で黙って海を見た。
「……何してるんだ、あの二人」
だが、その表情はどこか呆れながらも穏やかだった。
「はい、終わり!」
豪華が満足げに手を叩く。
「どう?」
「……ありがとうございます」
アリーチェが振り返る。
「綺麗に塗れてます」
「でしょ?」
「はい」
そしてアリーチェは、ふと啓太を見る。
「天城さん」
「はい?」
「次は腕をお願いします」
「…………」
啓太は数秒黙った。
「……豪華さん」
「何?」
「もう一度お願いします」
「任せなさい!」
「えっ!?」
再びアリーチェの声が砂浜に響き渡る。
「ひゃあああっ!」
「動くなって言ってるでしょ!」
「無理ですってば!」
啓太は小さくため息をついた。
「……平和だな」
その言葉とは裏腹に。
ビーチにはしばらく、二人の少女の騒がしい声が響き続けていた。
◇
しばらくして。
ようやく落ち着いたところで、アリーチェがふと思い出したように言った。
「そういえば、この島……御逆島っていうんですよね」
「御逆島?」
啓太が振り返る。
「はい」
アリーチェは島の奥を見つめる。
「古い伝承が残っているそうです」
「どんな?」
「『天を縛ろうとする者、天に喰われる』」
啓太は眉をひそめた。
「物騒な伝承だな」
「昔、この島では精霊を支配しようとした魔術師たちがいたそうですよ」
「精霊を?」
「はい」
アリーチェは少し寂しそうに言った。
「精霊使いになれない私には……精霊を求める人の気持ちは、分からなくもありません」
「…………」
「私だって、精霊と契約できたらと思ったことはあります」
それは、アリーチェが普段ほとんど口にしない本音だった。
「でも……」
アリーチェは続ける。
「だからといって、無理やり従わせるのは違うと思います」
「……うん」
「精霊だって、生きているんですよね」
「ああ」
啓太は海を見た。
かつての自分もそうだった。
精霊に選ばれなかった。
力を持っているのに、その力を認めてくれる存在がいない。
何度も焦った。
何度も、自分には資格がないのではないかと思った。
それでも――。
闇の精霊は、自分を選んだ。
そして闇竜もまた、自分と共にいる。
「……俺も」
啓太が静かに言った。
「昔は、精霊に選ばれないことが辛かった」
アリーチェが啓太を見る。
「でも今は違う」
啓太は胸元に手を当てる。
「俺を選んでくれた精霊に、感謝してる」
「……はい」
アリーチェは微笑んだ。
「私も、いつか……そう言える日が来たらいいですね」
「来ると思う」
「根拠は?」
「無いけど、わかるんだ」
「ふふ」
アリーチェが笑う。
「でも、天城さんらしいです」
その会話を聞いていた豪華も、海を見ながら呟いた。
「……精霊を支配する、ね」
彼女は知らない。
その言葉が、この島の奥深くに眠るものと繋がっていることを。
◇ ◇ ◇
夕刻。
自由時間が終わった。
「そろそろ行くぞ」
啓太が立ち上がる。
「はい」
「受験者の確認ですね」
アリーチェも立ち上がる。
日中は試験官たちが各所に配置され、受験者の行動を監視している。
そして夜間。
受験者の安全確認を行うのが、啓太たち補助グループの役目だった。
「全員、無事だといいけどな」
「大丈夫でしょう」
豪華が笑う。
「ここまで来た連中なんだから」
三人は島の内部へ向かった。




