001 【プロローグ】
夏休みに入った。
街には、どこか浮ついた空気が漂っている。
海へ向かう若者。
祭りの準備に追われる商店街。
大きな荷物を抱え、家族旅行へ向かう人々。
学生たちにとって、夏休みは一年の中でも特別な季節だ。
――だが。
夢宮アリカ、神代恵那、鷲宮風太の三人には、そんな夏を謳歌する時間はなかった。
……少なくとも、今はまだ。
「――そこまで!」
試験官の声が教室に響いた。
直後。
カチャカチャカチャ――。
受験生たちが、一斉にペンを机へ置く。
「筆記試験はこれにて終了です。お疲れ様でした」
教室に、安堵の息が広がった。
国家魔術師三種試験。
魔術師として一定以上の知識と実力を持つ者に与えられる、国家資格の一つだ。
試験は筆記試験と実技試験の二段階。
双方の合計点が規定された合格ラインに達していれば、晴れて合格となる。
つまり――。
今日の筆記試験だけで、すべてが決まるわけではない。
「実技試験は三日後、指定された無人島にて行います」
試験官が続ける。
「集合時刻、持参物については事前に配布した資料を確認してください。遅刻者は減点対象となりますので、くれぐれも注意するように」
説明が終わる。
受験生たちは順番に教室を出ていった。
その中で――。
「ああぁぁ……」
机に突っ伏す少女が一人。
夢宮アリカだった。
「頭が……くらくらするぅ……」
「夢宮さん、大丈夫?」
隣を歩いていた風太が心配そうに顔を覗き込む。
「うん……たぶん……」
「たぶん?」
「六割……」
「え?」
「六割はできてる……ハズ……」
自信があるのかないのか分からない答えだった。
恵那がアリカの顔を覗き込む。
「アリカ、知恵熱?」
「出てないよぉ!」
「なら大丈夫」
「恵那ちゃん、判断が雑じゃない!?」
アリカが抗議する。
対照的に、恵那と風太の表情にはそれほど疲労が見えない。
「二人はどうだったの?」
アリカが尋ねる。
「私は普通」
恵那が答える。
「僕も、たぶん大丈夫だと思う」
風太も続いた。
「うぅ……」
アリカだけが頭を抱える。
「魔術理論の最後の問題、あんなの分かるわけないよぉ……」
「アリカ」
「なに?」
「最後の問題、応用問題じゃなくて基礎問題だったよ」
「…………」
「…………」
「……聞かなかったことにして」
そんな会話をしながら、三人は駅へ向かって歩いていた。
その時だった。
――キィッ。
三人の横で、一台の車が静かに停車した。
窓が開く。
「三人とも、お疲れ様」
「あっ!」
アリカの顔が一気に明るくなる。
「啓太さん!」
運転席にいたのは、天城啓太だった。
「送っていくから、乗りな」
「ありがとうございます!」
風太が頭を下げる。
「迎えに来てくれたんですか?」
「ああ。ちょうど仕事も終わったところだったからな」
三人が乗り込む。
そして――。
恵那は迷うことなく助手席へ。
「……」
「……」
アリカと風太は顔を見合わせる。
「……じゃあ、僕たちは後ろですね」
「うん……」
二人が後部座席へ乗り込んだ。
「啓太くん」
シートベルトを締めながら、恵那が尋ねる。
「車、買ったの?」
「ああ」
啓太はハンドルを握りながら答えた。
「コツコツ貯めてた金と、運用してた分を合わせてな」
「高校生が自分で車を買うって、すごいですね……」
風太が感心する。
「よくご両親が許してくれましたね。ウチなんか、姉さんが教習所に通うのだって反対されてましたよ」
「説得するなら、それ相応の理由と材料を用意する。交渉術の基本だよ」
「啓太くんらしい……」
恵那が小さく笑った。
しかし。
後部座席から、ずっと黙っていたアリカが突然身を乗り出した。
「啓太さん!」
「ん?」
「お金の運用って、儲かるんですか!?」
「……」
啓太の眉が僅かに動いた。
「まあ……上手くいけば、な」
「じゃあ私も――」
「やめた方がいい」
即答だった。
「え?」
「ちゃんとした知識がない状態で手を出すべきじゃない」
「べ、勉強……」
アリカの顔から笑顔が消える。
「ここでも勉強……」
「アリカは、手を出しちゃダメ」
恵那が静かに言った。
「僕もそう思う」
風太も頷く。
「うぅ……」
アリカは完全に撃沈した。
啓太が苦笑する。
「ま、まあ、本当に興味があるなら、基本くらいは教えてあげても――」
「啓太くん」
「……ん?」
恵那が真顔で啓太を見る。
「ダメ。絶対」
「……う、うん」
啓太は素直に頷いた。
車内に小さな笑いが起きる。
しばらくすると、話題は自然と試験へ移っていった。
「そういえば、三日後の実技試験なんですけど」
風太が尋ねる。
「啓太さんも来るんですよね?」
「ああ」
「え?」
アリカが振り返る。
「じゃあ啓太さんが試験官なんですか?」
「いや、試験官じゃないよ」
啓太は首を横に振る。
「俺はあくまで試験の進行がスムーズに進むように手伝いに行くだけ。受験生の合否には関わらない」
「なるほど……」
「今回、俺たち精霊庁から何人か補助要員が出るんだ」
「試験会場は無人島だよね?」
恵那が尋ねた。
「ああ」
啓太が頷く。
「国家魔術師三種試験の実技試験は、毎年、山と海で交互に行われてる。今年は海側――つまり無人島だ」
「パンフレットにも書いてあったね」
恵那が思い出す。
「三日以内に、指定されたポイントを通過してゴールする……だったよね」
「正確には、三日間の制限時間内に複数のチェックポイントを通過して、最終ゴールを目指す試験だな」
「それだけなら、そんなに難しくないんじゃない?」
恵那が首を傾げる。
「私たちなら、普通にクリアできそうだけど」
「試験内容だけを見るならな」
啓太が苦笑する。
「ただ、ゴールした順位によって得点が変わる。それ以外にも、加点と減点の基準があるらしい」
「らしい?」
風太が聞き返した。
「ああ。採点方式の細かいところまでは、俺も知らされてない」
啓太は前を向いたまま答えた。
「俺は運営補助だからな。採点には関わらない」
「じゃあ……」
アリカが目を輝かせる。
「一位でゴールすれば、筆記試験の点数を挽回できるってことですね!」
「そういうことになる」
「じゃあ頑張ります!」
アリカが拳を握る。
しかし啓太は、少しだけ真剣な顔になった。
「ただし、油断はするなよ」
「え?」
「三人みたいな若い受験者は、毎年それほど多くない」
啓太の声が少し低くなる。
「受験者の大半は、精霊塾の一般課程を修了した人たちだ。知識も経験もある。中には実戦経験を積んでから受験する人もいる」
「……」
「試験だからといって、相手を侮らないことだ」
三人の表情が引き締まった。
「分かりました」
風太が頷く。
「私も頑張る」
恵那も続く。
「……はい!」
アリカも拳を握り直した。
すると啓太は、少しだけ表情を和らげる。
「それと、今回の試験補助には俺と豪華、それから――」
一拍。
「三人とは面識がないと思うけど、俺の同級生で白石アリーチェっていう子も来る」
「え?」
風太が目を丸くする。
「……姉さんも?」
「ああ」
「姉さん、そんなこと一言も言ってませんでしたけど……」
「ん?」
啓太が首を傾げる。
「言ってなかったのか?」
「はい」
「まさか……」
アリカが小さく呟く。
「忘れてたりして」
「流石にそれはないんじゃない?」
恵那が苦笑する。
「豪華さんだよ?」
「それは……」
「……」
三人が顔を見合わせる。
「…………」
「…………」
「……ありそう」
ぽつりと風太が言った。
「ははは!」
三人と啓太の笑い声が車内に響いた。
――その三日後。
「――えっ!? 国家魔術師三種試験!?」
鷲宮家。
「今日だったの!?」
豪華は部屋中をひっくり返す勢いで荷物を探していた。
「着替え! 食料! 救急用品! 筆記用具!」
ベッドの上に荷物が次々と放り投げられる。
「姉さん……」
その様子を見ていた風太は、深いため息をついた。
「やっぱり忘れてたんだ……」
「違う!」
「何が?」
「忘れてたんじゃない!」
豪華は叫ぶ。
「ちょっと……予定を覚えてなかっただけよ!」
「それを世間では忘れてたって言うんだけど……」
「風太!」
「はいはい」
そんな姉弟のやり取りを見ながら、風太は苦笑する。
こうして。
国家魔術師三種試験、実技試験当日。
海に囲まれた一つの無人島へ――。
新たな試験と、彼らがまだ知らない出来事が、静かに幕を開けようとしていた。




