004 【美少女カード】
精霊塾放課後
放課後。
西日が精霊塾の窓から差し込み、教室の床や机を淡い橙色に染めていた。廊下からは、帰宅する生徒たちの話し声や足音が少しずつ遠ざかっていく。
そんな中、教室に残っていたのは三人だけだった。
「……結局、三人で勉強会になっちゃいましたね」
机の上に広げられた教科書と問題集を見下ろしながら、白石アリーチェが小さくため息をつく。疲れているというより、予定外の居残りに対する諦めが混じったため息だった。
「いいじゃない。三人でやった方が楽しいし!」
鷲宮豪華は、明るい笑顔でそう言った。椅子の背もたれに寄りかかりながら、手にしたシャープペンをくるくる回している。
その隣では、天城啓太が黙々と問題集を解いていた。紙をめくる音と、シャープペンの走る音だけが、静かになった教室に響いている。
そして――。
「……鷲宮さん。ここ、さっきから三回間違えていますよ」
アリーチェが問題集の一点を指で叩いた。
「えっ!?」
豪華が勢いよく顔を上げる。回していたシャープペンが指から滑り、机の上で小さく跳ねた。
「だから、そこは公式が違うって言っているでしょう」
「うぅ……!」
豪華は眉を下げ、問題集を覗き込む。何度見直しても自分の間違いが理解できないらしく、頬を膨らませながら首を傾げていた。
アリーチェは呆れたように目を細めながらも、豪華の手元を丁寧に指し示す。
「ここで先にこれを計算するんです。順番を飛ばしているから、答えがずれているんですよ」
「でも、さっきから同じところで引っかかるんだけど……」
「それは、説明を聞いていないからでしょう」
「聞いてるわよ!」
「聞いているだけで、理解していないんです」
言葉は厳しいが、アリーチェの指先は止まらない。豪華が理解できるまで、何度でも説明するつもりらしい。
もともと面倒見のいい性格なのだ。
「天城さん、アナタもちゃんと見てあげてください」
アリーチェが、今度は啓太へ視線を向ける。
「俺は自分の勉強で手一杯なんだけど……」
啓太は問題集から顔を上げ、困ったように眉を寄せた。
「天城さんが一番余裕あるじゃないですか」
「……そうかな?」
「そうです」
即答だった。
アリーチェの視線が、啓太の問題集へ移る。そこにはすでに、ほとんど空欄が残っていなかった。
啓太は観念したように肩をすくめ、豪華の問題集を覗き込む。
「ここはこう。順番に考えれば難しくない」
啓太は豪華の書き込みを指で追いながら、淡々と説明した。
「まず、この数字をこっちに移して、それから――」
「なるほど!」
豪華の顔がぱっと明るくなる。さっきまでの苦悩が嘘のように、目を輝かせて何度も頷いた。
「……鷲宮さん。さっき私が同じことを説明したわよ」
アリーチェの声が、わずかに低くなる。
「え?」
豪華がきょとんとした顔で振り返る。
「……」
アリーチェは無言のまま、啓太と豪華を見比べた。細められた目には、ほんの少しだけ不満の色が浮かんでいる。
「いや、違うんだって!」
豪華がすぐに両手を上げた。
「何が違うんですか?」
「天城くんの説明の方が分かりやすかっただけ!」
豪華が悪気なく言うと、アリーチェの眉がぴくりと動いた。
「……そう」
アリーチェは無表情のまま啓太を見る。
「……な、何?」
啓太が身を引く。
「何でもありません」
そう言いながら、アリーチェはほんの少しだけ頬を膨らませた。机の上のペンを指先で弄びながら、視線だけを問題集へ落とす。
豪華はそんなアリーチェの様子に気づかず、啓太へ身を寄せて問題を解き始めていた。
啓太はアリーチェの横顔をちらりと見た。
「……怒ってる?」
「怒っていません」
「でも、顔が――」
「怒ってないと言っているでしょう」
「はい」
啓太は素直に頷いた。
アリーチェは小さく鼻を鳴らしたが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
そんなこんなで勉強会は続き――。
窓の外がすっかり夕暮れに染まる頃、ようやく問題集の最後のページが閉じられた。
「今日はここまでにしましょうか」
アリーチェが伸びをしながら言う。肩を回すと、長時間机に向かっていた疲れが少しだけ抜けた。
「賛成!」
豪華は両腕を上げ、椅子の背もたれに体を預けた。
「じゃあ、帰るか」
啓太が教科書を重ねる。
三人は荷物をまとめ、静かになった精霊塾を後にした。
廊下には、夕方の冷えた空気が流れ込んでいた。掲示板の紙が風に揺れ、遠くの階段から誰かの足音が響く。
そのまま帰るのかと思いきや――。
「ねえ、近くのファミレス寄らない?」
豪華が鞄を肩に掛けながら、二人を振り返った。
「勉強したらお腹が空くでしょ!」
豪華は当然のように胸を張った。
啓太は苦笑し、アリーチェも仕方なさそうに頷いた。
⸻
ファミレス
精霊塾から少し歩いた先にあるファミレスは、放課後の学生たちで賑わっていた。
入口の自動ドアが開くたびに、店内の明るい照明と、焼けた料理の香ばしい匂いが外へ流れ出してくる。店内では食器の触れ合う音や、学生たちの笑い声、注文を確認する店員の声が絶えず響いていた。
窓際の席には精霊塾の生徒が何組か座っている。制服姿の学生たちがドリンクバーのグラスを片手に談笑し、店内は学校の延長のような空気に包まれていた。
三人は奥の四人掛けの席に座り、それぞれ注文を済ませる。
豪華は迷うことなく大きなパフェを注文し、啓太は軽めの食事を選んだ。アリーチェはメニューを閉じると、運ばれてきた水のグラスに手を伸ばす。
「それで、二人は卒業後どうするんですか?」
何気なくアリーチェが尋ねた。
店内の喧騒に紛れるような、穏やかな声だった。
話題は自然と、将来の進路へと移っていった。
「私は精霊塾を卒業したら、そのまま精霊庁に行く!」
豪華が即答する。
注文したパフェが来る前から、すでに満足そうな顔をしていた。
「大学には?」
アリーチェが尋ねると、豪華は一瞬も迷わず答えた。
「行かない!」
「……鷲宮さんらしいですね」
アリーチェが苦笑する。呆れたように首を振りながらも、その表情には親しみがあった。
「私は精霊庁で仕事をしながら、精霊大学へ進学する予定です」
アリーチェは水のグラスをテーブルに置き、落ち着いた口調で続けた。
「へえ」
啓太が顔を上げる。
「大学まで行くんだな」
「ええ。将来的には幹部候補生を目指すつもりですから」
アリーチェはさらりと言ってのけた。
その声には迷いがない。背筋も自然に伸び、将来の道筋をすでに見据えているようだった。
「アリーチェなら、本当に幹部になりそう」
豪華が感心したように頷く。
「そういう豪華は、精霊庁で何をするつもりなの?」
「現場!」
「即答ですね」
「だって、じっと座っているより、動いている方が性に合ってるもの!」
豪華はそう言って、拳を握った。いかにも彼女らしい答えだった。
「天城くんは?」
アリーチェが、今度は啓太へ視線を向ける。
「俺?」
「ええ」
啓太は一瞬、手元の水のグラスへ目を落とした。
「……まだ決めてない」
「アナタが?」
豪華が意外そうに目を見開く。
「精霊庁には行くつもりですよね?」
「それは決めてる。でも、その先については……まだ考えてない」
啓太は窓の外へ視線を向けた。
ガラス越しに見える街は、夕暮れから夜へ移り変わろうとしている。通りを走る車のライトが、濡れてもいない道路の上を細く滑っていた。
自分が精霊庁を目指す理由。
それは、恵那の家族を襲った事件の真相を追うためだ。
けれど、その事件が解決した後、自分が何をするのか。
そこまでは、まだ考えていなかった。
啓太の表情から、いつもの軽さが少しだけ消える。
「まあ、天城くんなら何とかなるでしょ」
豪華はあっさり言った。
「根拠は?」
啓太が振り返る。
「なんとなく!」
豪華は胸を張った。
「……雑だな」
啓太が苦笑すると、アリーチェも小さく笑った。
その時だった。
「――この美少女カードの子、可愛くない?」
後ろの席から、男子生徒の声が聞こえてきた。
店内は賑やかだったが、その言葉だけは妙にはっきりと耳に入った。
「俺はこっちの子がタイプだな」
「このSSR、十万超えてるらしいぜ」
「マジで!?」
男子生徒たちは、テーブルの上に置いたスマートフォンを囲みながら盛り上がっている。画面の光が、彼らの顔を下から照らしていた。
三人は一瞬、会話を止めた。
盗み聞きするつもりはない。
ただ、席が近いせいで自然と耳に入ってくるのだ。
「美少女カード?」
豪華が首を傾げる。
啓太も聞き覚えがあった。
「そういえば、今朝ネットニュースで見たな」
最近、街の学生の間で流行しているらしい。
美少女の写真をカード風に加工したもの。
希少なカードにはレアリティが設定され、中には高額で取引されているものもあるという。
「十万円超えてるって……ただのカードだろ?」
啓太が呟く。
その声に、アリーチェがわずかに眉を寄せた。
すると――。
「アリーチェ先輩のカード、美人だもんな」
その一言。
空気が変わった。
店内のざわめきは変わらない。食器の音も、他の客の笑い声も聞こえている。
それなのに、三人の周囲だけが急に静まり返ったように感じられた。
「…………」
アリーチェの手が止まる。
水のグラスに添えられていた指先が、ゆっくりと強くなる。透明な水面が小さく揺れた。
啓太と豪華が、ゆっくりと彼女を見る。
「……アリーチェ?」
啓太が慎重に声を掛ける。
アリーチェは返事をしなかった。
ただ、男子生徒たちの方へ顔を向けている。
その瞳から、先ほどまでの穏やかな光が消えていた。
「……少し、いいかしら?」
静かな声だった。
しかし、その静けさの奥には、押し殺された怒気がはっきりと滲んでいた。
啓太の背中に、冷たいものが走る。
怖い。
啓太はそう思った。
「ちょっと待て、アリーチェ」
啓太が手を伸ばす。
だが、時すでに遅し。
アリーチェは椅子を引く音すらほとんど立てずに立ち上がっていた。背筋を伸ばし、足音を抑えながら男子生徒たちの席へ向かっていく。
その歩みは静かだった。
静かなのに、妙な威圧感があった。
「アナタたち」
背後から声を掛けられ、男子生徒たちの肩が跳ねる。
「ひっ……!」
「し、白石先輩!?」
二人が振り返る。
アリーチェは彼らを見下ろしていた。口元には笑みが浮かんでいる。
ただし、それは親しみのある笑顔ではない。
「さっき、私の名前を出したわよね?」
「い、いや、その……」
男子生徒の一人が、スマートフォンを隠すように胸元へ引き寄せる。
その仕草を見た瞬間、アリーチェの目がさらに細くなった。
「詳しく聞かせてもらえるかしら?」
声は丁寧だった。
丁寧すぎるほどに。
「は、はい!」
二人は完全に蛇に睨まれた蛙だった。顔から血の気が引き、背筋を伸ばしたまま、逃げることもできずに固まっている。
⸻
事情を聞くと、その「美少女カード」は、どうやら個人が作ってネット上に流しているものらしい。
男子生徒たちは、カードを購入しただけだと必死に説明した。自分たちが撮影したわけではない。作った人物の名前も知らない。ただ、ネット上で話題になっていたから見ていただけだという。
それでも、アリーチェの怒気は収まらなかった。
「これ……」
アリーチェが男子生徒のスマートフォンを見る。
男子生徒は震える手で画面を差し出した。
ネット掲示板には、現在出回っているカードの一覧が掲載されていた。
画面には、カード風に加工された少女たちの写真が並んでいる。名前やレアリティ、撮影場所らしき情報まで添えられていた。
その中に――。
「……私がいるわね」
アリーチェの声が低くなる。
「いるな」
啓太が画面を覗き込む。
そこには、確かにアリーチェの写真があった。
制服姿で歩いているもの。
教室で窓の外を見ているもの。
誰かと話している途中のもの。
しかも、どれもカード風に加工されている。
アリーチェの指が、スマートフォンの端を強く掴んだ。
「ちょっと待って」
豪華も身を乗り出す。
「これ、いつ撮った写真?」
「分からない」
啓太は写真をじっと見る。
画面を横へ滑らせ、別の写真を確認する。
そして、すぐに違和感に気づいた。
「……これ、盗撮じゃん」
「え?」
豪華が顔を上げる。
啓太は画面を指差した。
「写真に写ってるアリーチェ、カメラを見てない」
一枚目。
二枚目。
さらに別の写真。
どれも同じだった。
アリーチェは誰かと話していたり、歩いていたり、手元の資料を見ていたりする。撮影されていることに気づいている様子は一切ない。
「普通に撮影した写真なら、何枚かは視線が合うはずだ。でも、全部そうじゃない」
啓太の声が低くなる。
「撮影者は、アリーチェに気づかれないように撮っていたんだと思う」
「……つまり」
アリーチェの表情が険しくなる。
眉間に深い皺が寄り、瞳の奥に鋭い光が宿った。
「誰かが、私に気づかれないように撮影していた……?」
「たぶん」
啓太が頷く。
「しかも、その写真をカードに加工して売ってる」
「…………」
アリーチェは黙って画面を見つめていた。
握りしめた拳が、かすかに震えている。
怒鳴っているわけではない。
声を荒らげてもいない。
それでも、彼女の周囲には近づきがたいほどの怒気が漂っていた。店内の暖かな空気が、そこだけ冷え込んだように感じられる。
「……そう」
アリーチェが小さく呟く。
「なるほど」
その声は静かだった。
静かすぎて、かえって怖い。
男子生徒たちは顔を見合わせ、さらに身を縮めた。
だが――。
その横から豪華が画面を覗き込んだ。
「ねえ」
豪華の声に、張り詰めていた空気がわずかに揺らぐ。
「何?」
アリーチェが振り返る。
「私のカードは?」
「……え?」
豪華はアリーチェの怒気など気にした様子もなく、スマートフォンを覗き込んだ。
ネット掲示板を開き、カード一覧を端から端まで確認していく。
「あれ?」
豪華の指が画面を滑る。
さらにスクロール。
「ない」
もう一度スクロール。
「……ない」
豪華の眉間に、今度は別の意味で皺が寄った。
そして――。
豪華はテーブルに身を乗り出した。
「何で私のカードが無いのよ!!」
店内の何人かが、驚いたようにこちらを振り返った。
「…………」
アリーチェが固まる。
啓太も固まる。
男子生徒たちも固まった。
先ほどまで張り詰めていた空気が、豪華の一声で奇妙な方向へ吹き飛んでいく。
数秒の沈黙。
啓太が恐る恐る口を開く。
「……豪華」
「何よ!」
豪華は本気で怒っていた。頬を膨らませ、両手をテーブルにつき、画面を睨みつけている。
「これ……美少女カードだぞ」
「どういう意味よ!!」
「いや、そういう意味だろ」
「納得いかない!」
豪華が拳を握る。
「私だって美少女でしょうが!」
「…そうだね微少女だ」
啓太が呆れたように呟く。
アリーチェは額に手を当て、深々とため息をついた。さっきまでの怒気が完全に消えたわけではないが、豪華の勢いに少しだけ調子を崩されたようだった。
「……もう、どうでもいいです」
「どうでもよくない!」
「豪華」
「何よ!」
「問題はそこじゃないでしょう」
アリーチェがじろりと睨む。
豪華は口を開きかけたまま固まり、しばらく考え込んだ。
「…………」
やがて、ゆっくりと姿勢を戻す。
「……そうだった」
ようやく真顔に戻った。
アリーチェが深いため息をつく。
啓太は改めて画面を見る。
アリーチェの写真。
知らない間に撮られた写真。
そして、それを加工して流通させている人物。
写真の背景には、精霊塾の校舎や通学路、近隣の店まで写り込んでいるものもあった。
単なる悪ふざけではない可能性もある。だが…
「まぁ精霊や魔術が関係していないなら、あとは警察の仕事だ。」
私的な捜査は職権乱用になる。
本来は警察の管轄に踏み込むのは、いくら精霊庁に所属する彼らでも処分は免れない。
アリーチェと豪華は渋々納得して、この日は解散となった。




