001 【プロローグ】
季節が、また一つ流れていく。
夏。
神代恵那、十五歳。
中学校生活最後の夏休みを目前に控えた、ある日のことだった。
進路は、すでに決まっている。
恵那も。
そして、親友である夢宮アリカも。
二人とも、精霊塾へ進学する。
けれど――。
二人には、もう一つ。
心の中で決めていたことがあった。
◇ ◇ ◇
精霊殿。
その一室には、天城家と夢宮家、そして恵那とアリカが揃っていた。
巫女様も同席している。
普段なら穏やかな空気に包まれているはずの場所だった。
だが。
恵那とアリカは、揃って真剣な表情を浮かべている。
やがて恵那が、静かに口を開いた。
「私、精霊庁で働きたいんです」
続いて、アリカも背筋を伸ばす。
「私も、恵那ちゃんと一緒に、精霊庁で働かせてください」
その言葉に。
その場にいた全員が、静かに二人を見つめた。
驚いていない。
まるで、ある程度予想していたかのようだった。
――ただ一人を除いて。
「ちょっと待って!」
啓太が勢いよく立ち上がった。
「二人とも、何を言ってるんだ!?」
「啓太くん」
「何で二人が、わざわざ精霊庁で……しかも、こんな急に!」
恵那は、少しだけ困ったように笑った。
「……急にじゃないよ」
「え?」
「ずっと考えてた」
アリカも頷く。
「私もです。両親と何度も話し合って……少し前に、ようやく納得してもらいました」
啓太の視線が、夢宮夫妻へ向く。
トオルは少し苦笑した。
「親としては、色々と思うところはあります」
隣に座るアリカの母も、不安そうに頷いた。
「危険な仕事だということも聞いていますから」
「だったら――」
「でも」
トオルは、娘を見る。
「この子が自分で決めたことなら、応援しようと決めたんです」
「……」
啓太は言葉を失った。
それでも、納得できない。
「待ってください」
声を抑えながら、啓太は続けた。
「ウチみたいな、代々精霊使いの家系なら……そういう進路に進む人間がいるのは分かります」
そして、アリカを見る。
「でもアリカは、まだ精霊使いになって三年にも満たない。精霊塾でしっかり学んでから、将来の進路を決めても遅くはありません」
「啓太さん……」
アリカが戸惑ったように名前を呼ぶ。
すると。
恵那が、静かに口を挟んだ。
「じゃあ……私は問題ないよね?」
「……恵那」
「私の家は、代々精霊使いの家系だったし」
一度、言葉を切る。
「パパとママも、元は精霊庁の職員だった」
「そういうことを言ってるんじゃない!」
思わず、声が大きくなった。
その瞬間。
「啓太」
低く、重い声が響いた。
祖父――天城剛志だった。
「座れ」
「おじいさま、でも――」
「今は二人が己の進路について話している」
剛志は、真っ直ぐに啓太を見据える。
「外野の貴様が口を挟むな」
「……外野?」
啓太の声が、わずかに震えた。
「俺は……二人の外野ですか?」
その言葉に、剛志の眉が僅かに動く。
「ならば聞く」
「……」
「貴様は、二人の人生に責任が持てるのか?」
「それは……」
答えられない。
「責任を持てぬ者が、あれこれと出しゃばって、さえずるな。不愉快だ」
「っ……」
啓太が俯く。
すると。
「おじい様」
恒一が口を挟んだ。
「何もそこまで言わなくても。啓太は、二人が大切だから反対しただけではありませんか」
「話を聞かず、最初から反対を押し付けるような奴の言葉に価値はない」
「ですが――」
「三人とも」
凛とした声が、その場を制した。
天城千代だった。
「少し落ち着きなさい」
啓太と恒一が口を閉ざす。
千代は二人を見て、優しく微笑んだ。
「啓太ちゃん。まずは二人の話を聞いてあげましょう?」
「……はい」
「あなたたちが喧嘩を始めてしまって、二人とも不安な気持ちになっているわよ?」
啓太は、恵那とアリカを見る。
二人とも、少し寂しそうな顔をしていた。
「……申し訳ありませんでした」
「恒ちゃんも、よろしいですね?」
「はい。取り乱して、申し訳ありません」
「剛志さんは……」
千代が、にっこりと笑う。
「これが終わったら、二人で少しお話ししましょうね?」
「……を!?」
剛志の顔から、さっと血の気が引いた。
「わ、分かった……」
冷や汗を流す祖父を見て、誰もが何も言わなかった。
ただ、恒一だけが小さく視線を逸らした。
――祖父より祖母の方が怖い。
それは、天城家では暗黙の了解だった。
千代は改めて、二人へ向き直る。
「さて。二人とも待たせてごめんなさいね」
そして、少しだけ困ったように笑う。
「こんなに空気が悪くちゃ、上手く話せないわよねぇ」
千代は、玲司へ視線を向けた。
「玲ちゃん。あなたが二人の話を聞いてあげなさい」
「かしこまりました、お婆様」
玲司は静かに頷いた。
こういう場面で父の和臣ではなく玲司が選ばれたのには理由がある。
和臣は家族への思いやりが非常に強い。
だからこそ、相手を尊重しすぎるところがある。
その点、玲司は違う。
身分や立場に左右されず、実力と意思を見て人を判断する。
感情に流されず、冷静に結論を下すことができる。
だからこそ――この場に相応しかった。
「さて」
玲司が二人を見る。
「まずは、二人が精霊庁勤務を希望する理由を聞こう」
そして。
「恵那くんから」
「はい」
恵那は、一度だけ息を吸った。
「私は……家族の仇を取りたいんです」
空気が変わった。
「穏やかではないな」
玲司は落ち着いたまま答える。
「精霊庁は魔術や精霊関連の犯罪を取り締まる。しかし、犯罪者を殺す組織ではない」
「分かっています」
恵那の瞳は揺らがない。
「私も、犯人をこの手に掛けたいわけじゃありません」
一呼吸。
「この手で捕まえて……罪を償わせたいんです」
玲司は、静かに頷いた。
「なるほど」
「……」
「しかし、それは今すぐでなければならないことなのか?」
「……」
「先ほど啓太が言った通り、精霊塾での課程を終えてからでも遅くはないと思うが?」
その問いに。
恵那は少しだけ俯いた。
そして――静かに顔を上げる。
「私は……ずっと、精霊庁に入れる年齢になるのを待っていたんです」
声は小さい。
けれど、そこには確かな意志があった。
「あの事件以来……精霊殿、精霊庁……そして天城家の人たちに守られて、今日まで生きてこられました」
指先を、ぎゅっと握る。
「でも……ふとした瞬間に、命を狙われていることを思い出して……怖くて、眠れなくなる時もありました」
啓太は何も言わない。
ただ、恵那を見つめていた。
「だから……」
恵那は、自分の胸に手を当てた。
「守られるだけじゃ、嫌なんです」
その言葉が、啓太の胸に刺さる。
「強くなって……誰かを」
一度、言葉を止める。
「……そして、自分自身を守れるようになるために」
恵那は、真っ直ぐに玲司を見る。
「私は、精霊庁に入りたいんです」
玲司は、しばらく何も言わなかった。
やがて。
「……君の気持ちは理解した」
玲司がアリカを見る。
「では次に、アリカくん」
「は、はい!」
アリカは慌てて背筋を伸ばした。
「君の志望動機を聞こう」
「私は……」
アリカは少しだけ恥ずかしそうに笑う。
「恵那ちゃんや、啓太さんに憧れて精霊使いを目指しました」
「……俺?」
啓太が驚く。
「はい!」
アリカは元気よく頷いた。
「恵那ちゃんが火の精霊を操る姿が、とても綺麗で」
そして、啓太を見る。
「啓太さんが戦う姿が……とても、かっこよくて」
「……」
啓太の顔が、少しだけ赤くなる。
恵那も横で、ほんの少しだけ目を細めた。
「でも……私の憧れと現実は、全然違っていました」
アリカの表情が真剣になる。
「恵那ちゃんが抱えている問題も」
「啓太さんが強くなるために、どれだけ頑張ってきたのかも」
「……あの頃の私は、全然考えていませんでした」
それでも。
アリカは笑った。
「でも、二人と一緒に過ごすうちに、色々なことが分かってきました」
「そして……」
「それでも、私が知っているのは、ほんの一部なんだって思ったんです」
拳を胸の前で握る。
「だから私は、自分の世界をもっと広げたい!」
その声には、迷いがなかった。
「自分にできることを増やして」
「友達を助けて」
「困っている人を助けて」
そして。
胸を張って言い切った。
「私がなりたい精霊使いになるんです!」
玲司は、静かに尋ねる。
「君が目指す精霊使いとは何だ?」
アリカは一瞬だけ目を丸くした。
そして。
満面の笑みを浮かべた。
「誰もが笑顔でいられる世界を作るために、戦う存在です!」
「……ふむ」
玲司は、僅かに口元を緩めた。
「君らしい。実に清々しく、明確な目標だな」
「ありがとうございます!」
玲司は、二人を見る。
その瞳に迷いはない。
「二人の考え、覚悟、そして将来の構想はよく分かった」
玲司は、はっきりと言った。
「私は、二人が精霊庁を目指すに値すると判断する」
「……!」
「よって、私は彼女らの希望を支持します」
反対する者はいなかった。
玲司は、そのまま今後の説明へ移ろうとする。
「それでは、差し当たって受験に必要な――」
その時だった。
ガタンッ。
椅子が鳴った。
全員が振り返る。
啓太が立ち上がっていた。
「……啓太?」
誰にも答えず。
啓太は、そのまま部屋を出ていった。
「啓太くん!」
恵那も、慌てて立ち上がる。
「待って!」
玲司は二人の背中を見送った。
「……休憩を挟みましょう」
◇ ◇ ◇
精霊殿の庭。
夏の風が、木々の葉を揺らしている。
啓太は、一人で立っていた。
「……啓太くん」
後ろから、恵那の声。
啓太は振り返らない。
「怒って……いますか?」
「怒ってない」
即答だった。
けれど。
声が、少しだけ硬い。
「……」
「……」
二人の間に、沈黙が落ちる。
風が吹く。
木の葉が揺れる。
恵那は、啓太の隣まで歩いていった。
それでも、何も言えない。
やがて啓太が、大きく息を吐いた。
「……ごめん、恵那」
「え?」
「恵那が、この道を選ぶって……何となく分かってたんだ」
啓太は空を見上げる。
「でも……」
言葉を探すように、少し間を置いた。
「もっと先の話だって、勝手に思い込んでた」
脳裏に、以前冴子から言われた言葉が蘇る。
――女は、守られるだけの存在じゃないの。
――アンタが守りたいって思っているのと同じくらい。
――私ら女だって、守りたいって思っているのよ。
守られるだけ。
そんな存在ではない。
恵那は。
自分が思っているほど弱くない。
自分に守られているだけでもない。
「……俺、馬鹿だよな」
「そんなこと……」
恵那は首を横に振る。
そして。
そっと。
啓太の袖を摘んだ。
ほんの少しだけ。
それだけなのに。
啓太の言葉が止まった。
「……恵那?」
恵那は、俯いている。
「私……強くなりたい」
「……うん」
「強くなって……」
袖を摘む指に、少しだけ力が入る。
「啓太くんと……一緒に……」
そこから先が。
どうしても言えなかった。
「……」
恵那の頬が、少しずつ赤くなる。
啓太は、そんな恵那を見つめた。
「恵那」
「……はい」
恵那が顔を上げる。
視線が重なる。
ほんの数秒。
けれど。
恵那にとっては、それがとても長く感じられた。
啓太は、優しく笑った。
「一緒に強くなろう」
「……!」
恵那の瞳が、僅かに揺れる。
そして。
小さく。
けれど、嬉しそうに。
「……うん」
花が咲くような笑顔だった。
啓太も笑う。
二人の間を、夏の風が通り抜ける。
恵那は、まだ啓太の袖を離さなかった。
――強くなりたい。
守られるだけじゃなく。
隣に立てるように。
そして、いつか。
今はまだ言葉にできない、この気持ちを――
ちゃんと伝えられるように。
恵那は、もう一度だけ。
啓太の隣で微笑んだ。




