010 【別れの風】
――あの激闘から、一ヶ月。
季節は、ゆっくりと移り変わり始めていた。
啓太、そしてアガと二人の仲間。
あの戦いで負った傷は、ようやく癒えていた。
そして今日。
アガたちは、日本を離れる。
モンゴルへ帰国する日だった。
空港へ向かう前。
夢宮家の前には、アリカとその家族が集まっていた。
「アガさん……」
アリカが、目の前に立つ大柄な男を見上げる。
初めて出会った時。
アガは、傷つき、疲れ果て、行く場所さえ失っていた。
そんな彼を、夢宮家は家族として迎え入れた。
そして――。
ほんの短い時間だったが。
アリカにとって、アガは忘れられない存在になっていた。
「元気でね」
アリカが笑う。
少しだけ寂しそうな笑顔だった。
「ああ」
アガが頷く。
いつものように、表情はほとんど変わらない。
だが。
「アリカ」
「うん?」
「もし……お前や、この家族に何かあれば」
アガは、夢宮家の家族を見渡す。
「必ず駆けつける」
「……!」
アリカの目が大きくなる。
「どれだけ遠くにいようとも」
アガは静かに続けた。
「お前たちは、俺の大切な仲間だ」
「……うん!」
アリカは大きく頷いた。
「ありがとう、アガさん!」
父のトオルも、母も、静かに頭を下げる。
「こちらこそ、ありがとう」
「どうか、お元気で」
アガは短く頷いた。
「世話になった」
そして。
視線が、啓太へ向く。
「……啓太」
「ん?」
二人の間に、僅かな沈黙が流れる。
「お前に、一つ言っておく」
「何だ?」
「お前の力だ」
アガの瞳が、啓太を真っ直ぐに見据える。
「お前は、普通の闇の精霊使い以上に精霊が見えている。その力は――大きな災いを招く」
「…………」
啓太は黙って聞いていた。
「力を持つ者は、その力に飲まれることがある」
アガの声には、脅しも迷いもなかった。
ただ、戦いを通して何かを感じ取った者の忠告だった。
「お前の闇は、普通の力ではない」
「分かってる」
啓太は答える。
「だけど」
一歩、アガへ近づく。
「いつかは、掌握してみせる」
その目には、迷いがなかった。
「俺自身の力にする」
「…………」
アガは啓太を見つめる。
そして――。
ほんの僅かに。
その口元が緩んだ。
「……そうか」
次の瞬間。
普段、ほとんど表情を変えないアガの顔に――。
まるで花が咲くような、穏やかな笑みが浮かんだ。
アリカが目を丸くする。
「アガさんが……笑った」
「…………」
アガは少しだけ気まずそうに視線を逸らす。
そして、啓太へ手を差し出した。
「啓太」
「ああ」
「お前は、俺の友だ」
啓太の目が僅かに見開かれる。
「また会おう」
「……ああ」
啓太は、その手を強く握った。
「その時は――敵じゃなく、仲間としてな」
「約束だ」
二人の手が離れる。
やがて。
アガと二人の仲間は、モンゴルへ帰っていった。
これから彼らは――。
モンゴルの国家精霊使いとして、自分たちの国を守っていく。
きっと、戸惑うことも多いだろう。
日本とは違う環境。
違う制度。
そして、これまでとは違う責任。
それでも。
啓太は信じていた。
彼らならば。
自分たちの信念を持ち、その道を歩んでいける。
誰かに命じられたからではなく。
誰かに褒められるためでもなく。
自分たちが正しいと信じるもののために。
「……頑張れよ」
遠ざかっていく飛行機を見上げながら、啓太は呟いた。
その隣では、アリカも空を見上げていた。
「…………」
アガと出会ったのは、ほんの短い時間だった。
突然現れた、異邦人。
言葉も文化も違う。
最初は、何を考えているのかさえ分からなかった。
それでも。
アガと過ごした時間の中で、アリカは多くのことを学んだ。
強さとは何か。
仲間を思うということ。
そして――。
自分の信念を貫くということ。
「次に会う時は……」
アリカは、小さく拳を握った。
「もっと強くなってるからね」
誰に言うでもなく、空へ向かって呟く。
「アガさんに、すごいって言ってもらえるくらい……!」
その顔には、決意が宿っていた。
そして。
少し離れた場所から。
恵那は、啓太の背中を見つめていた。
「…………」
あの日。
アガとの戦い。
啓太が命を懸けて戦っていた、その理由。
恵那には、何となく分かっていた。
けれど。
あの時、啓太自身の口から聞いた。
――絶対に守ると、約束した女の子がいる。
その言葉が、今も胸に残っている。
「啓太くん……」
恵那は、そっと胸元に手を当てる。
胸の奥が、少しだけ苦しい。
だけど。
嫌な苦しさではなかった。
むしろ――。
大切なものを、初めてはっきりと意識したような。
そんな感覚だった。
「…………」
恵那はもう一度、啓太の背中を見る。
そして。
自分の胸の奥に芽生え始めた感情を、まだ言葉にすることはできなかった。
ただ一つだけ。
確かなことがあった。
あの日から。
恵那にとって、啓太という少年の存在は――。
以前よりも、ずっと大きなものになっていた。
◇
――同じ頃。
ヴァンレイスファミリー本部。
薄暗い部屋の中。
複数のモニターが並んでいる。
その中央にあるスクリーンには、白い文字が浮かんでいた。
――SOUND ONLY――
映像はない。
聞こえてくるのは、一人の男の声だけ。
『――まさか、あれほどの実力者をあてがうとは、思いもしなかったぞ』
クレアは椅子に座りながら、笑みを浮かべる。
「何か問題でもありましたか、首領さま?」
「坊っちゃま!」
マウロがすぐに叱責する。
「首領様に対して、そのような口の利き方は――」
『よい』
声の主が遮った。
『クレア』
「はい」
『問題はないさ』
淡々とした声。
『むしろ、幹部たちを説得するのに、これ以上の材料はなかった』
クレアは嬉しそうに笑う。
「なら、僕も一生懸命に探した甲斐があるってものですよ」
もちろん。
実際には――。
アガが偶然現れたところを利用しただけだ。
だが、そんなことを正直に報告する必要もない。
『だが――天城啓太の実力については、我々も危険視している』
「…………」
クレアの笑顔が僅かに消える。
『世界的に見ても希少な、そして謎の多い闇の精霊』
声が続く。
『その力を、あれほどまでに使いこなしている』
モニターに映し出されるのは、戦闘中の啓太。
『しかも、風の神器を操る者と互角に渡り合った』
「…………」
クレアは黙って画面を見る。
『我が組織――人類の聖域-アルカニスは、六年前の神代家との戦いで、その主力の大半を失った』
空気が重くなる。
『現在の組織力は、あの時の半分にまで落ち込んでいる』
「知ってるよ」
クレアが答える。
「パパも――あの時の戦いで負った怪我が原因で死んだ」
『そうだ』
声の主は、否定しなかった。
『故に、今の我々に必要なのは戦力の強化だ』
そして。
『クレア・ヴァンレイス』
その名を呼ぶ。
『力をつけよ』
「…………」
『其方に与えた、その勾玉』
クレアの懐。
そこにある赤黒い勾玉へ視線を落とす。
『あれには、かつて伝説の陰陽師――蘆屋道満が使役したとされる、最強の式神――阿喰羅王が封じられている』
「……阿喰羅王」
クレアが、その名を口にする。
『伝承によれば――』
一拍。
『それは、精霊の天敵とされる存在だ』
クレアは勾玉を握る。
「パパでも、完全にはその力を引き出せなかったらしいね」
『……そうだ』
声の主が答える。
『だからこそ――其方に託す』
クレアは黙って聞いていた。
『三年だ』
「…………」
『三年の間に、組織としての力を取り戻せ』
そして。
『クレア・ヴァンレイス』
再び、その名が呼ばれる。
『阿喰羅王の力も、必ず引き出せ』
クレアの瞳が細くなる。
『それまでは――』
声が低く響く。
『神代、そして天城に残りの生を謳歌する時間をくれてやれ』
「…………」
クレアは、ゆっくりと立ち上がる。
そして。
口元に笑みを浮かべた。
「分かったよ、首領さま」
赤黒い勾玉を握り締める。
「三年だね」
その瞳には、子供のような無邪気さと――。
底知れない狂気が宿っていた。
「僕は必ず――」
一瞬。
父親の顔が脳裏を過ぎる。
「パパを超えてみせる」
暗い部屋の中。
赤黒い勾玉だけが、静かに輝いていた。




