009 【狼は牙を剥く】
戦いが終わった倉庫。
先ほどまでの激しい戦闘が嘘のように、静まり返っていた。
床には、無数の瓦礫。
壁には大きな亀裂が走り、ところどころが崩れ落ちている。
その中央に――。
「……痛」
啓太が小さく呻いた。
「無理に動かないで」
冴子がそう言いながら、啓太の身体を簡単に確認する。
全身に無数の裂傷。
胸、背中、肩、脚。
どこを見ても軽傷とは言えない。
反対側には、アガが座っていた。
こちらも同じだ。
衣服は破れ、身体中が傷だらけ。
顔にまで傷が走っている。
あれほど激しくぶつかり合った二人だったが――。
今、二人の間に張り詰めた空気はなかった。
敵意もない。
殺気もない。
ただ、互いに疲れ切っている。
「……」
「……」
二人はしばらく無言で座っていた。
その間に、冴子は本部へ連絡を入れていた。
「こちらファントム2。現場の制圧を完了。対象二名を確保しました」
少し間を置く。
「はい。二名とも重傷。救護班を至急お願いします」
通信を切った。
すると――。
無線から再び声が入った。
『ファントム2、こちら本部』
「どうぞ」
『先ほど病院から連絡が入りました』
冴子の表情が変わる。
『入院中の外国人二名が、意識を取り戻しました』
「……!」
冴子は、隣に座るアガを見る。
「アガ」
「……?」
「あなたの仲間が、意識を取り戻したそうよ」
「……!」
アガの目が大きく見開かれた。
「本当……か?」
「ええ」
冴子は頷いた。
「二人とも命に別状はないそうよ」
「……そうか」
アガは俯いた。
しばらく何も言わない。
やがて――。
「……よかった」
その声は、小さかった。
だが。
確かな安堵が込められていた。
アリカも胸を撫で下ろす。
「よかったぁ……!」
恵那も静かに頷いた。
「本当に……よかった」
そして。
アガが啓太を見る。
「……天城」
「ん?」
「すまなかった」
アガは深く頭を下げた。
「俺は、お前が仲間たちを殺したと思っていた」
「……」
「だから……お前を殺そうとした」
啓太は黙ってアガを見る。
「だが、違った」
「……ああ」
「本当に……すまなかった」
アガはもう一度、頭を下げる。
啓太はしばらく黙っていた。
そして――。
「……もういいよ」
「……」
「お前も、知らなかったんだろ」
啓太は苦笑した。
「それに……俺も結構やり返したしな」
「……そうだな」
アガの口元に、ほんの僅かな笑みが浮かぶ。
アリカもほっと息を吐いた。
「よかった……」
こうして。
啓太とアガ。
二人の戦いは、ようやく終わった。
その後、救護班が到着。
二人はそれぞれ担架に乗せられ、病院へ搬送されることになった。
なお――。
アガに対する精霊庁としての正式な処分については、ひとまず保留となった。
不法入国。
そして、精霊庁職員である啓太との戦闘。
決して軽い問題ではない。
しかし。
アガには、まだ確認すべきことが残されていた。
――仲間たちのことだ。
◇
翌朝。
病院の一室。
「……ここは?」
目を覚ました男が、ゆっくりと目を開いた。
「病院だ」
「……アガ?」
もう一人の男も、驚いたように顔を向ける。
「アガ!」
病室の入口。
そこにアガが立っていた。
身体には包帯が巻かれている。
啓太もまた、その後ろに立っていた。
そして、冴子も同席している。
「……モンゴルから来てくれたのか?」
アガが呟く。
「ああ」
「俺たち……お前に顔向けが出来ないことをした」
男が苦悶の表情を浮かべる。
「悪かったな」
「何で謝るんだよ」
「……仲間なのに」
アガは、それ以上何も言わなかった。
やがて、ベッドの横の椅子へ腰を下ろす。
「……日本に来てから、何があった?」
二人は顔を見合わせた。
「最初は……普通に働いてたんだ」
一人が話し始める。
「工場だった。給料も悪くなかった」
「でも、仕事が上手くいかなくなった」
もう一人が続ける。
「俺たち、二人とも解雇された」
アガは黙って聞いている。
「帰る金もなかった」
「だから……知り合いに紹介してもらったんだ」
男は苦笑する。
「荒事専門の運び屋をな」
「……」
「最初から、まともな仕事じゃないって分かってた」
啓太が静かに二人を見る。
「犯罪に関わってることも……分かってた」
男の顔が曇る。
「でも……故郷に残してきた家族に金を送らなきゃならなかった」
「家族には?」
アガが尋ねる。
「……言ってない」
「何?」
「連絡はしてた。でも、いつも元気にしてるって言ってた」
男は俯いた。
「心配させたくなかったんだ」
病室に沈黙が落ちる。
「それで……」
男が続けた。
「ヴァンレイスファミリーから仕事を受けた」
「……」
「運ぶだけの仕事だと思ってた」
だが。
結果は違った。
「そして……お前たちは、天城と戦った」
冴子が静かに言う。
二人は頷いた。
「ああ」
「俺たちは、そこで倒された」
「動けなくなって……」
男が目を閉じる。
「その直後だった」
「タンカーが……爆発した」
啓太の表情が変わる。
「俺たちは何もできなかった」
「身体が動かなかったんだ」
そして――。
「その時、助けてくれたのが……」
二人の視線が啓太へ向く。
「お前の守護精霊だった」
啓太は何も言わない。
「俺たちは……あの竜に助けられた」
アガは黙っていた。
ただ、二人の話を聞き続けていた。
やがて。
ゆっくりと立ち上がる。
「……すまなかった」
二人が顔を上げる。
「アガ?」
「お前たちが苦しんでいたことに……俺は気付かなかった」
「そんな……」
「仲間なのに」
アガは拳を握る。
「俺は、自分が苦しんでいることばかり考えていた」
声が震える。
「お前たちを助けることもできなかった」
「アガ……」
「そして――」
アガは啓太へ向き直る。
「天城」
「……」
「改めて謝る」
深く頭を下げる。
「俺は、お前を誤解した」
「……」
「仲間たちを助けてくれたことにも、感謝している」
啓太は少しだけ笑った。
「……仲間が助かったなら、それでいいよ」
アガは顔を上げる。
「ありがとう」
その言葉には、もう敵意はなかった。
そこへ。
「アガ」
冴子が口を開く。
「あなたたちの今後についてだけど」
三人が冴子を見る。
「現在、モンゴル大使館と精霊庁上層部の間で協議が行われているわ」
「モンゴル……大使館?」
「あちらも、あなたたちの身元を把握したようね」
アガは黙って聞いている。
「日本側としては、今回の件について、最終的にはモンゴル政府と協議した上で処理する方針みたい」
「……そうか」
その時だった。
病室の扉が開いた。
「失礼するぞ」
長谷川だった。
その後ろに、二人の男女がいる。
一人は、モンゴル国の外交官。
そしてもう一人は、日本側の外交官だった。
「お前らに話がある」
長谷川が言った。
「今後についてだ」
◇
病室の応接スペース。
アガと二人の仲間。
啓太。
冴子。
そして、モンゴル側と日本側の関係者が向かい合っていた。
最初に口を開いたのは、モンゴル側の外交官だった。
「まず、祖国を代表して申し上げます」
真剣な表情。
「あなた方三名には、帰国していただきたい」
アガが顔を上げる。
「帰国……」
「はい」
日本側の外交官が続ける。
「ただし、問題があります」
彼女は書類を机の上へ置いた。
「あなた方二人には、日本国内で多数の犯罪行為に関与した事実があります」
二人の男が俯く。
「また、アガさん」
アガが顔を上げる。
「あなたには、不法入国に加え、精霊庁職員との戦闘行為があります」
アガは黙っている。
「通常であれば、厳しい刑事処分を免れることは難しいでしょう」
病室に緊張が走る。
だが。
モンゴル側の外交官が言った。
「しかし――」
全員の視線が集まる。
「あなた方三名には、別の道があります」
「……別の道?」
アガが尋ねる。
「モンゴル国は、あなた方三名を国家精霊使いとして受け入れたいと考えています」
「国家……精霊使い?」
啓太が小さく呟いた。
外交官が頷く。
「日本でいう精霊庁職員に相当する立場です」
アガは黙り込んだ。
「あなた方三名は、精霊使いとして極めて高い能力を持っている」
外交官の視線がアガへ向く。
「特に、あなたは強力な守護精霊を従え、さらに――」
一瞬、言葉を選ぶ。
「神器と思われる武器まで所有している」
アガの目が細くなる。
「……神器」
啓太も黙って聞いていた。
「モンゴル政府としては、その力を刑務所の中で眠らせておくことは、国家にとって大きな損失だと判断しました」
長谷川が腕を組む。
「要するに……」
長谷川が口を挟む。
「お前らの力を、国のために使えってことか」
「その通りです」
日本側の外交官が頷く。
「もちろん、簡単に罪をなかったことにするわけではありません」
書類を確認する。
「日本側で必要な刑事手続きについては行われます」
そして。
「その上で、これまでの犯罪行為については、あなた方の今後の国家への貢献を考慮し、処分を大幅に軽減する方向で調整されています」
「……」
「日本での手続きを終えた後、モンゴルへ送還」
外交官が続ける。
「そして、帰国後は国家精霊使いとして正式に任命する」
アガは黙ったまま、床を見つめていた。
悪い話ではない。
むしろ。
自分たちにとっては、望んでも得られないほどの機会だ。
だが――。
「……一つ」
アガが顔を上げた。
「条件がある」
モンゴル側の外交官が頷く。
「何でしょう」
「俺たち以外の仲間は?」
「……」
「俺たちには、まだ仲間がいる」
アガの声は真剣だった。
「世界中に散らばっている」
日本へ来た四人だけではない。
故郷を離れ。
生きるために。
家族を守るために。
それぞれの国へ散っていった仲間たち。
「俺たちと同じように……苦しんでいる奴がいるかもしれない」
アガは拳を握る。
「仕事が見つからず」
「家族のために、犯罪に手を染めているかもしれない」
「……」
「俺は……あいつらを見捨てたくない」
モンゴル側の外交官は、しばらく黙っていた。
やがて。
「分かりました」
「……!」
「モンゴル政府として、調査します」
アガが目を見開く。
「各国にいる、あなた方の仲間について情報を集めます」
「本当か?」
「はい」
「もし……」
アガが言葉を詰まらせる。
「もし、同じように苦しんでいる奴がいたら?」
「可能な限り、帰国できるよう支援します」
その言葉を聞いた瞬間。
アガの表情が変わった。
隣の二人も、顔を見合わせる。
そして――。
「……分かった」
アガが頷いた。
「俺は、国家精霊使いになる」
「アガ……」
「俺たち三人ともだ」
二人の仲間も頷いた。
「祖国が、そこまでしてくれるなら」
「俺たちも帰ろう」
アガは静かに目を閉じた。
長い間。
自分たちは祖国から離れていた。
誰にも頼らず。
自分たちだけで生きようとしていた。
その結果――。
犯罪に手を染めた。
仲間を傷つけた。
そして、啓太と戦った。
だが。
まだ、やり直せるのかもしれない。
アガは目を開く。
その視線が、啓太へ向いた。
「天城」
「ん?」
「……いつか」
少しだけ笑う。
「また会おう」
啓太も笑った。
「ああ」
「今度は――」
アガが手を差し出す。
「敵ではなく、仲間としてな」
啓太は、その手を握った。
「……楽しみにしてる」
二人の手が、固く握られる。
それを見ていたアリカが、少し離れたところで笑った。
「よかった……」
恵那も静かに頷く。
「うん」
こうして。
日本で始まったアガたちの物語は、ひとまず終わりを迎えることになった。
だが――。
世界各地には、まだ彼らの仲間たちがいる。
そして、その中には。
かつてのアガたちと同じように、故郷へ帰ることのできない者たちがいる。
その事実を知ったモンゴル政府が動き始めたことで――。
新たな物語の扉が、静かに開こうとしていた。
ヴァンレイスファミリー本部。
アガと仲間の処遇が決定された夜のこと
複数のモニターに映し出されていた戦闘映像。
今は、その映像も停止している。
画面に映っているのは――。
瓦礫だらけになった工場跡。
そこには、もう啓太もアガもいない。
「…………」
クレアは、ソファに深く腰を沈めていた。
明らかに機嫌が悪い。
「……つまんない」
頬杖をつきながら、ぼそりと呟く。
「せっかくの殺し合いだったのに」
クレアは唇を尖らせた。
「最後まで殺し合えばよかったのになぁ」
「しかし」
マウロが静かに口を開く。
「首領様から命じられていた『確かな実力者を当てがえ』については、成功したと言えるでしょう」
クレアがちらりと見る。
「アガは十分すぎるほどの実力者でした。そして――」
マウロは停止したモニターを見る。
「天城啓太もまた、それを上回るだけの力を持っていることが確認できました」
「うん」
クレアは答える。
「それは分かってる」
今回の任務そのものは成功。
首領から与えられた条件。
――確かな実力を持つ者を当てがえ。
その答えは、十分に得られた。
だが。
「……だからって、僕の気分が良くなるわけじゃないんだよねぇ」
クレアはつまらなそうに天井を見る。
その時だった。
何気なく、停止した映像を眺めていたクレアの視線が止まった。
「……ん?」
画面の端。
戦闘の最中に、一瞬だけ映っていた少女。
啓太たちの戦いを見つめていた少女。
そして――。
アガと親しげに話していた少女。
クレアの目が細くなる。
「この子……」
映像を巻き戻す。
少女の姿が画面に映る。
夢宮アリカ。
クレアは、にやりと笑った。
「なぁ」
部屋にいる男たちへ声をかける。
「このガキを利用するのはどうだ?」
「また始まったよ」
ジョバンニが呆れたように肩をすくめる。
「まーたウチのボスが悪いことを考えてるよ」
レオナルドも深いため息をついた。
「やれやれ……次から次へと、どうしてこう悪知恵が働くかね」
「それは僕たちがマフィアだからでしょ?」
イワンが真顔で答える。
「……それを自分で言うか?」
レオナルドが呆れる。
そんなやり取りなど気にせず、クレアは少女の姿を眺めていた。
「アガと仲が良い」
そして。
「アガが大切にしている」
クレアの口元が歪む。
「だったら――」
「なりません」
マウロが即座に遮った。
「……え?」
「なりません、坊っちゃま」
マウロは厳しい表情でクレアを見る。
「現在、首領様は他の幹部たちを集め、今後の方針について話し合っている最中です」
「うん」
「その最中に、勝手な行動を起こすのは危険です」
「心配性だなぁ、マウロは」
「坊っちゃま!」
「それにさ」
クレアは笑った。
「いざとなれば、僕らには――」
懐へ手を入れる。
そして取り出したのは――。
赤黒い勾玉。
血のような色をした、不気味な宝玉だった。
クレアはそれを指先で弄ぶ。
同じように。
レオナルドも。
ジョバンニも。
イワンも。
それぞれ懐から、よく似た赤黒い勾玉を取り出した。
「……それは」
マウロの顔から血の気が引いた。
「坊っちゃまには、まだ早過ぎます!」
「そう?」
「先代ですら手に余らせていた代物です!」
マウロが声を荒らげる。
「その力を、軽々しく扱うべきではありません!」
クレアの笑顔が消えた。
「……僕は」
勾玉を握り締める。
「パパとは違う」
「坊っちゃま……」
「僕は、パパみたいに失敗しない」
その声には、子供らしい無邪気さがなかった。
「だから――」
クレアは立ち上がる。
「いいから僕の言うことを聞けよ」
そして、命じた。
「このガキの素性を調べて」
モニターの少女を指差す。
「――連れて来い」
その瞬間。
――バチッ。
「……?」
一つの照明が明滅した。
次の瞬間。
――バァン!!
部屋中の照明が、一斉に砕け散った。
「なっ!?」
暗闇。
完全な闇に包まれる。
部下たちが一斉に身構えた。
「何だ!?」
「敵襲か!?」
「警戒しろ!」
その時――。
風が吹いた。
窓など開いていない。
それなのに。
部屋の中央から、強烈な風が巻き起こった。
カーテンが舞う。
書類が宙へ飛ぶ。
そして。
暗闇の中に、一つの人影が浮かび上がった。
狼の頭。
人間の身体。
全身から漂う、凄まじい殺気。
「……!」
レオナルドがクレアの前へ出る。
「クレア!」
部下たちが銃を構える。
しかし。
誰も引き金を引けない。
目の前にいる男から放たれる殺気が、それを許さなかった。
狼の牙が剥き出しになる。
「……俺は」
アガだった。
「この件から手を引く」
「…………」
クレアが目を瞬かせる。
「お前…」
まさか。
こんなにも早く戻ってくるとは思わなかった。
しかも――。
敵意を隠すことなく。
完全に敵として。
「僕たちを裏切るつもり?」
「勘違いするな」
アガの声が低く響く。
「俺は、貴様らと仲間になったつもりはない」
「へぇ……」
クレアは少しだけ目を細める。
「じゃあ、どうして?」
アガは答えない。
クレアには分からなかった。
だが。
一つだけ、確かなことがある。
クレアたちは、あの戦いを最初から最後まで見ていた。
だから知っている。
アガの仲間たちが意識を取り戻したことも。
そして――。
その仲間たちが、自分たちヴァンレイスファミリーの仕事を請け負っていたことも。
当然、アガも気付いているはずだ。
それなのに。
なぜ、今になってここへ来た?
クレアは笑う。
「へぇ……」
そして。
「でも、いいのかい?」
一歩、アガへ近づく。
「君が僕たちを裏切るっていうのなら――」
クレアの目が細くなる。
「君の大切な女の子が、どうなっても――」
最後まで言葉を続けることはできなかった。
――ゴォォォォォォッ!!
「なっ!?」
部屋中を猛烈な風が吹き荒れた。
机が揺れる。
椅子が倒れる。
書類が宙を舞う。
部下たちが一斉に後退した。
「うわっ!」
「な、何だこの風は!」
窓の外。
ヴァンレイスファミリーの拠点、その上空に――。
巨大な雲が渦を巻き始めていた。
雷鳴が轟く。
そして。
部屋の中央。
アガが、牙を剥き出しにする。
殺気。
先ほどの啓太との戦いでさえ見せなかったほどの殺気。
「……あの少女や」
一歩。
アガが踏み出す。
「その家族に手を出そうと言うのなら」
風がさらに強くなる。
「貴様らの命運は――」
アガの瞳が鋭く光る。
「ここまでだ」
「……っ!」
クレアの笑顔が消えた。
マウロはすぐに判断した。
「わ、分かった!」
「マウロ?」
「アガ殿!」
マウロが声を張る。
「あなたが大切にしている少女……そして、その家族には、決して手を出しません!」
クレアが振り返る。
「マウロ!」
しかし、アガはクレアを見た。
「……ボスは拒んでいるようだが?」
「…………」
マウロは答えない。
その顔には、苦悩が浮かんでいる。
そして。
ゆっくりと懐へ手を入れた。
取り出したのは、一丁の拳銃。
「……マウロ?」
レオナルドが眉をひそめる。
マウロは銃口を自らのこめかみに当てた。
「坊っちゃま」
「……」
「どうか……」
マウロの声が震える。
「このマウロめの命一つで、お許しください」
「何してんの、マウロ」
「坊っちゃまを守るのが、私の務めです」
アガが目を細める。
「……」
マウロの指が引き金にかかる。
「やめろ!」
レオナルドが叫ぶ。
しかし。
マウロは止まらない。
「坊っちゃま――」
引き金が絞られる。
――パァン!!
「――っ!」
乾いた銃声。
しかし。
マウロは倒れなかった。
銃口は天井を向いている。
「……!」
クレアがマウロの腕を掴んでいた。
直前。
クレアが、その腕を強引に跳ね上げたのだ。
「……もういい」
クレアはマウロを睨んでいた。
「分かったよ」
「坊っちゃま……」
「死ぬのは――」
クレアは一瞬だけ目を伏せる。
「パパだけで十分だ」
マウロが目を見開く。
「坊っちゃま……」
「僕のために死ぬ必要なんてない」
その言葉には。
いつもの軽薄さがなかった。
ほんの一瞬だけ。
クレアという少年の奥底にあるものが覗いた。
その瞬間。
風が止まった。
静寂。
誰もが息を呑む。
「…………」
アガの姿がない。
「……!」
レオナルドが周囲を見る。
しかし。
どこにもいない。
開いていないはずの窓から、僅かな風だけが吹き込んでくる。
アガは、もう去っていた。




