008 【闇の本質】
倉庫から少し離れた道路。
一台の捜査車両が、急ブレーキをかけて停車した。
ドアが開く。
「――あの倉庫ね」
冴子が前方を見据える。
古びた工場跡地。
その中央に、巨大な倉庫が建っている。
窓ガラスはほとんど割れ、外壁にも無数の亀裂が走っていた。
そして何より――。
建物の中から、尋常ではない魔力の衝突が伝わってくる。
「いくわよ」
冴子がドアを閉めようとした、その時だった。
「ちょっと待て」
長谷川が手を上げた。
「どうした?」
佐島が振り返る。
長谷川は道路の向こうへ視線を向けていた。
一台のタクシーが、こちらへ近づいてくる。
「……あれは」
タクシーが停車する。
後部座席のドアが開いた。
「はぁ……はぁ……!」
飛び出してきたのは、恵那だった。
続いてアリカも降りてくる。
「……っ!」
冴子が目を見開いた。
「君たち!?」
佐島も思わず声を上げる。
「な、何でここに!?」
アリカは申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご、ごめんなさい!」
息を切らしながら、それでも必死に言葉を続ける。
「啓太さんとアガさんが戦ってるって聞こえて……!」
「だからって!」
長谷川が怒鳴った。
「ここまで来る奴があるか!」
「だって……!」
アリカの目に涙が浮かぶ。
「啓太さんとアガさんが戦ってるって聞いて……じっとしてなんて、いられなかったんです!」
「今回は、あの時と状況が違うんだ!」
長谷川が二人の前に立ちはだかる。
「あの倉庫の中にいるのは、俺たちでも簡単に手を出せねぇほどの化け物だ!」
「でも……」
恵那が倉庫を見る。
その表情は青ざめていた。
中から伝わってくる。
激しい魔力。
風の精霊の気配。
そして――。
啓太の気配。
「啓太くん……」
小さく呟いた、その瞬間。
――ドォォォォォン!!
倉庫の壁が大きく震えた。
「きゃっ!」
アリカが身をすくませる。
長谷川が倉庫へ振り返った。
「……くそっ!」
内部から、さらに激しい衝撃音が響く。
恵那の顔から血の気が引いた。
「啓太くん!」
「待て!」
長谷川が叫ぶ。
しかし――。
恵那はもう走り出していた。
「おい! 嬢ちゃん!」
「恵那ちゃん!」
佐島も慌てて追いかける。
「止まれ!」
長谷川の制止も届かない。
恵那は倉庫の入口へ駆け込んだ。
アリカも続く。
「恵那ちゃん待って!」
「バカ! 行くな!」
長谷川が頭を抱えた。
「佐島、止めろー!」
「む、無茶な!」
四人が倉庫へ駆け込んでいく。
そして――。
その瞬間だった。
倉庫の中で、何かが動いた。
――いや。
消えた。
アガの姿が、啓太の視界から完全に消失した。
「……っ!」
啓太は息を呑む。
どこだ。
姿が見えない。
気配も――。
「そこか!」
背後。
突然、風が爆発した。
アガの曲刀が振り抜かれる。
啓太は咄嗟に身を伏せた。
だが――。
避け切れない。
――ズバッ!
「ぐあっ!!」
背中が裂けた。
風圧だけで肉が切り裂かれ、啓太の身体が吹き飛ぶ。
床を何度も転がった。
「ぐっ……!」
立ち上がろうとする。
その瞬間。
――ヒュンッ!
「――ッ!」
風刃。
肩。
脚。
脇腹。
次々と風の刃が啓太の身体を裂いていく。
「ぐ……っ!」
速い。
あまりにも速い。
精霊術の発動速度そのものが違う。
アガは風を足場にしている。
空中でさえ自由に動き、死角へ回り込む。
その動きは、まるで風そのものだった。
「くっ……!」
啓太は右手を握り締める。
周囲の闇の精霊が集まってくる。
「エレメンタルフィスト!」
漆黒の魔力を纏った拳を放つ。
しかし――。
アガは身体を捻った。
拳が空を切る。
「――遅い!」
曲刀が振り抜かれる。
――ズバッ!
「――ッ!」
啓太の胸元が大きく裂けた。
血が舞う。
身体が崩れ落ちる。
「啓太さん!」
倉庫の入口付近で、アリカが叫びそうになる。
しかし――。
「……!」
恵那が咄嗟にアリカの腕を掴んだ。
「待って……!」
恵那自身も震えていた。
だが、今飛び出せば啓太の邪魔になる。
そう直感していた。
恵那は柱の陰に身を隠し、戦場を見つめる。
「啓太くん……」
その目の前で。
闇竜が駆ける。
しかし、その行く手を巨大な狼が塞いだ。
「グオオオオオッ!!」
「ガァァァァァッ!!」
二体の巨獣が再び激突する。
牙と爪。
闇と風。
巨大な身体同士がぶつかり合う。
啓太はそんな光景を霞む視界で見ていた。
「……まだ……だ……」
拳を床につく。
立ち上がろうとする。
だが、足が震える。
身体が言うことを聞かない。
アガがゆっくりと歩いてくる。
手には、巨大な曲刀。
その刀身へ、無数の風の精霊が集まっている。
「終わりだ、天城」
風が唸る。
曲刀が構えられた。
避けられない。
身体が動かない。
精霊術を発動する余裕もない。
闇竜も、まだ巨大狼と戦っている。
――殺される。
啓太は理解した。
このままでは。
自分はここで死ぬ。
そして――。
恵那を守れなくなる。
「……恵那……」
その名前が、頭の中に浮かんだ。
その瞬間。
過去の光景が蘇る。
あの日。
何もできなかった。
守りたいと思った。
守ると決めた。
けれど――。
普通の力では、足りなかった。
だから。
啓太は力を求めた。
恵那を守るために。
ただ、それだけのために。
そして――。
その力に触れた。
闇の精霊。
六つの精霊の中でも、極めて特殊な存在。
精霊とは、自然現象そのものに結びついた存在である。
炎。
水。
風。
土。
光。
そして――闇。
人々は、闇を夜や暗闇、影といった視覚的な現象だと思っている。
だが。
それは、本質ではない。
闇とは――。
時間と空間。
一見すれば、まったく別の概念に見える二つ。
しかし、その二つを合わせたものこそ――。
時空間。
それこそが、闇の自然現象。
闇の本質だった。
故に。
闇の精霊は、どこにでも存在する。
いつでも。
どこにでも。
だが、人間には時間も空間も、直接認識することができない。
だから人は――。
夜。
暗闇。
影。
光の届かない場所。
そうした、視覚的にも空間的にも曖昧な状況の中でしか、闇の精霊を認識することができない。
そして――。
闇の精霊使いの中でも。
その本質を正しく認識できる者は、ほんの一握り。
真に選ばれた者だけ。
その一人が――。
ここにいる。
啓太は、ゆっくりと顔を上げた。
アガが迫る。
「終わりだ」
曲刀が振り上げられる。
そして――。
振り下ろされた。
その瞬間。
啓太の周囲の空気が歪んだ。
「……悪いな」
黒い魔力が噴き出す。
「恵那を守るために――」
啓太の瞳が、静かにアガを捉える。
「俺は、この力を手に入れた」
――世界が遅くなった。
違う。
世界は、遅くなっていない。
啓太だけの時間が――。
速くなった。
振り下ろされる曲刀。
巻き上がる風。
舞い散る埃。
アガの指。
筋肉の動き。
すべてが、はっきりと見える。
啓太は一歩踏み出した。
曲刀が、目の前を通り過ぎる。
「――なに?」
アガの目が見開かれる。
啓太は――。
すでに背後にいた。
「遅い」
拳が叩き込まれる。
「ぐっ!」
アガの身体が吹き飛んだ。
床を滑る。
だが、アガはすぐに立ち上がった。
「……!」
鼻を動かす。
狼の嗅覚。
風の流れ。
魔力の気配。
「そこだ!」
曲刀が振り抜かれる。
――空振り。
「……いない?」
「ここだ」
背後。
拳が叩き込まれる。
「ぐあっ!」
アガが振り返る。
だが――。
もういない。
左。
右。
正面。
拳が次々と叩き込まれる。
「な……!」
狼の感覚でも追えない。
見えている。
感じている。
それでも、間に合わない。
「あり得ん……!」
アガが吼える。
啓太は一瞬で距離を詰めた。
「俺が、お前より速くなったんじゃない」
拳に闇が集まる。
「俺の時間が――」
アガの目の前から消える。
「お前より速く流れてるだけだ」
――ドゴォッ!!
拳がアガの腹部を撃ち抜いた。
「ぐっ……!」
アガが吹き飛ぶ。
それでも曲刀を離さない。
「まだだ!」
風が爆発する。
アガが突っ込んでくる。
啓太は紙一重でかわした。
曲刀が頬を掠める。
啓太の拳が光る。
「俺はもう――」
拳を引く。
「何もできなかった、あの時の俺じゃない!」
「グオオオオオオッ!!」
その瞬間。
闇竜が巨大狼を弾き飛ばした。
轟音とともに、巨大狼が瓦礫へ叩きつけられる。
そして。
啓太の隣へ、闇竜が立った。
漆黒の巨体。
黄金の瞳。
巨大な翼。
啓太と闇竜。
二つの漆黒が並ぶ。
アガが曲刀を構える。
啓太も拳を構える。
風と闇。
狼と竜。
拳と曲刀。
二人が同時に駆けた。
「エレメンタルフィスト!!」
「――ッ!!」
最後の一撃が交差する。
――轟ッ!!
巨大な衝撃波が工場跡を駆け抜けた。
瓦礫が吹き飛ぶ。
風が渦を巻く。
そして――。
静かになった。
アガの手から、曲刀が離れる。
――カラン。
金属音が、静まり返った倉庫に響いた。
アガの身体が、ゆっくりと倒れる。
啓太は立っていた。
「……はぁ……」
荒い呼吸。
身体中から血が流れている。
魔力は、ほとんど残っていない。
それだけではない。
時間そのものを加速させた反動が、身体を激しく蝕んでいる。
それでも。
啓太は倒れなかった。
闇竜がゆっくりと歩いてくる。
啓太は、その巨体を見上げた。
そして――。
「……恵那」
小さく呟いた。
その瞬間。
張り詰めていた糸が切れた。
膝から力が抜ける。
「……っ」
闇竜が身体を支える。
啓太は、その巨体へ身を預けた。
終わった。
そう思った。
――その時。
「……これが」
声がした。
「これが……貴様の力か」
「……!」
啓太が顔を上げる。
土煙の向こう。
アガが立っていた。
身体中が傷だらけだった。
服は裂け、血が流れている。
呼吸も荒い。
それでも。
その目だけは、まだ死んでいなかった。
アガは啓太を見つめる。
「その若さで……これほどの力」
一歩。
アガが歩く。
「貴様は……そこへ至るために、一体どれだけのものを犠牲にして生きてきた?」
啓太は黙っていた。
アガには分かっていた。
どれほどの才能があろうと。
どれほどの努力を積み重ねようと。
これほどの若さで、これほどの力を身につけることなど、本来ならばあり得ない。
禁忌に触れる。
何かを差し出す。
命。
魂。
記憶。
あるいは――。
大切な何か。
そうでもしなければ。
この力には届かない。
「答えろ、天城」
アガが問う。
「貴様は、何を犠牲にした?」
啓太は、ゆっくりと顔を上げた。
「……俺は」
静かな声だった。
「大切なものは、何一つとして犠牲にしていない」
「……何?」
アガの目が細くなる。
「ならば……」
そして問いかけた。
「何のために、力を欲した?」
啓太の視線が、倉庫の入口へ向いた。
そこには柱の陰に隠れている恵那の姿があった。
恵那は息を呑んでいる。
啓太は、それを知らない。
ただ――。
一人の少女の姿を思い浮かべていた。
「絶対に守ると――」
啓太の声に、迷いはなかった。
「約束した女の子がいる」
その言葉を聞いた瞬間。
恵那の瞳が大きく揺れた。
「……啓太くん」
小さな声。
だが、啓太には届かない。
アガはしばらく啓太を見つめていた。
やがて――。
ゆっくりと目を閉じる。
「……そうか」
その声には、怒りがなかった。
憎しみもない。
ただ、静かな納得だけがあった。
「…………俺の負けだ」
曲刀は、もう手元にない。
戦う理由も、残っていなかった。
その時だった。
「アガさん!」
アリカが飛び出した。
「啓太さん!」
恵那も顔を上げる。
「アリカ!」
長谷川が叫んだ。
「だから行くなって!」
しかし、もう遅い。
「佐島、止めろー!」
「だから何でいつも僕が!」
アリカは二人の間へ駆け寄っていく。
「二人とも!」
涙を浮かべながら叫ぶ。
「もう戦わないでー!」
アガが振り返る。
「……アリカ」
その声には、先ほどまでの殺気がなかった。
そして。
「お疲れ様」
落ち着いた声が響いた。
冴子が倉庫へ入ってくる。
「どうやら、何とかなったみたいね」
その後ろから湊も姿を現す。
「うっわ……」
周囲を見回す。
「中、メチャクチャだ。派手にやったな」
「お前ら……」
長谷川が呆れたように呟く。
そのさらに後ろ。
一人の少女が、ゆっくりと姿を現した。
啓太が顔を上げる。
そして――。
「……恵那」
その名前を呼んだ瞬間。
啓太の表情から、最後に残っていた緊張が消えた。
恵那は何も言わなかった。
ただ、まっすぐに啓太を見つめていた。
その瞳には――。
安堵と。
心配と。
そして、ほんの少しだけ。
今まで知らなかった啓太の一面を知ってしまったことへの、戸惑いが浮かんでいた。




