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002【風に導かれし者】



 ――夢宮家。


 居間のソファには、一人の青年が横になっていた。


 つい数時間前まで、彼は河川敷で倒れていた。


 アリカたちが発見した時には、顔は土埃にまみれ、衣服は汚れ、身体はひどくやつれていた。


 救急車を呼ぶべきではないか。


 最初は、そう考えた。


「大丈夫よ。たぶん、お腹が空いてるだけ」


 アリカの母は、青年の呼吸や脈拍を確認しながら言った。


「そんなことで救急車を呼んじゃ駄目よ」


「でもママ! 倒れてたんだよ!?」


「意識もあるし、呼吸も脈も安定してる。それに、今の状態ならまず食事と休養を取らせた方がいいわ」


「そうなの?」


「ええ」


 母親は青年を見つめる。


 若い男。


 ひどく痩せている。


 服は汚れている。


 持ち物らしい持ち物もない。


「……ホームレスなのかしらね」


「ホームレス……」


 アリカが青年を見る。


「でも、なんでこんなところに?」


「それは起きてから聞けばいいわ」


 母親がそう言った時だった。


「きゅう……」


 雷鎌が青年の傍らに座り込んだ。


 普段なら落ち着きなく動き回る雷鎌が、青年から離れようとしない。


 青年が苦しそうに身じろぎすると、心配そうに顔を覗き込む。


「……」


 母親が雷鎌を見る。


「この子がこんなに心配するなんて珍しいわね」


 雷鎌は青年の顔を舐めた。


「きゅっ」


「……」


 母親は少し考え。


「きっと悪い人じゃないわ」


「それで連れて帰るの!?」


 恵が思わず突っ込んだ。


「じゃあ、恵はこの人を置いていける?」


「……」


「できないでしょう?」


「……できないけど」


「じゃあ決まりね」


「ママ、強引……」


 こうして。


 正体不明の青年は、夢宮家に運び込まれた。


     *


 ――夢。


 どこまでも広がる草原。


 青い空。


 地平線の彼方まで続く大地。


「アガ! こっちだ!」


「待て!」


 誰かが笑っている。


 何人もの仲間たち。


 共に暮らし。


 共に働き。


 共に戦い。


 共に酒を飲む。


 血の繋がった家族とは違う。


 それでも。


 彼らは間違いなく、自分にとって家族だった。


 ――ナイズ。


 大切な仲間たち。


 その姿が、遠ざかっていく。


「待ってくれ……」


 手を伸ばす。


「俺の……ナイズ……」


     *


「……」


 アガが目を開けた。


 見知らぬ天井。


「……?」


 身体を起こそうとした瞬間。


 腹の上に何かが乗っていることに気付いた。


 イタチに似た小さな獣。


 雷鎌が丸くなって眠っている。


「……」


 アガがゆっくり手を伸ばす。


「きゅっ?」


 雷鎌が目を覚ました。


 アガの顔を見る。


 そして――。


「きゅう!」


 嬉しそうに鳴いた。


 アガは驚いたように目を丸くする。


「……?」


「あ、気が付きましたか?」


 少女が駆け寄ってくる。


 アリカだった。


「ママー!」


 アリカが大声を上げる。


「ホームレスのお兄さんが目を覚ましたー!」


「アリカ、うるさいよ」


 恵が呆れた顔で現れる。


「あと、ホームレスって言うのは失礼だよ」


「えー?」


 アガには、二人の会話がまったく理解できない。


「ママー!」


 今度は母親がやってきた。


「あなた、大丈夫?」


「……」


 アガは困惑する。


 何を言われているのか分からない。


「もしかして……言葉が分からないのかしら?」


 恵がアリカを見る。


「アリカ、出番だよ」


「え!? 私!?」


 アリカは胸を張った。


「任せて!」


 そしてアガに向かって。


「きゃんゆーすぴーくじゃぱにーず?」


「……」


 アガは首を傾げる。


「ダメじゃん」


「えーん! だってー!」


 母親が苦笑する。


「こういう時は、名前で自己紹介するのよ」


 母親は自分を指差す。


「お母さん」


 次に二人を指差す。


「アリカ」


「アリカ!」


「恵」


「恵」


 アガは二人を見比べる。


 そして自分の胸に手を当てた。


「……アガ」


 恵がスマートフォンを取り出す。


「アガ……名前かな」


 検索画面を操作する。


「……モンゴル?」


 アガの目が僅かに動いた。


 恵は翻訳アプリを起動する。


『モンゴルから来たの?』


「……!」


 スマートフォンから流れたモンゴル語に、アガが目を見開く。


 そして恐る恐る答える。


「そう、だ」


「通じた!」


 アリカが喜ぶ。


 恵はさらに入力する。


『何か喋ってみて』


 アガは少し考え。


「……ちょーすごい。ちょーすごい」


「…………」


 一瞬、沈黙。


「ぷっ……」


 アリカが吹き出す。


「アハハハハ!」


 恵も堪えきれず笑う。


「ちょーすごいって何!?」


 母親まで笑い始める。


 アガは困惑する。


「……?」


「アガさん、もう一回!」


「ちょーすごい」


「アハハハ!」


「何で笑う!?」


 言葉は通じない。


 それでも。


 不思議と、その場には温かい空気が流れていた。


     *


 その後。


 アガは夢宮家から手厚い歓迎を受けた。


 風呂に入り。


 汚れた身体を洗い。


 温かい服を借り。


 そして――。


「いただきます!」


 食卓に並んだ料理を見たアガの目が輝いた。


 肉。


 米。


 味噌汁。


 野菜。


 久しぶりのまともな食事だった。


 アガは黙々と食べる。


「……」


「……」


 家族全員が見守る。


 そして。


「おかわり」


「早っ!」


 アリカが思わず叫んだ。


 母親が笑う。


「はいはい。いっぱい食べなさい」


 アガは何杯も飯を食べた。


 最後には満足そうに腹を撫でる。


「……うまい」


 その一言だけは、日本語だった。


「よかった!」


 アリカが嬉しそうに笑う。


     *


「しかし……」


 アリカの父親がアガを見る。


「うちもついに国際交流か」


「そうね」


 母親も笑う。


「アガさんは、何歳なの?」


 翻訳アプリを通して尋ねる。


『二十二歳。もう大人』


「じゃあ、お酒も飲める年齢ですね」


『酒、好き』


 アガが嬉しそうに笑う。


『仲間と飲むのが好き』


 だが、その表情が少し曇る。


『でも……仲間、見つからない』


 アリカが尋ねる。


「もしかして【ナイズ】って、友達の名前?」


 アガは首を振る。


『違う』


 胸に手を当てる。


『ナイズはモンゴルの言葉。仲間って意味』


「仲間……」


 アガは静かに頷いた。


 そして、自分の故郷について話し始めた。


 広大な草原。


 自然と共に生きる部族。


 しかし――。


 鉱物資源の開発によって、彼らの土地は変わっていった。


 草原は削られ。


 自然は失われ。


 長く暮らしてきた土地からも離れなければならなくなった。


 若者たちは都会へ。


 あるいは海外へ。


 仕事を求めて出ていった。


『俺の部族、自然を守る』


 アガは胸を張る。


『俺、部族長の息子。だから他の部族と一緒に自然守ってる』


「……」


『日本にも、仲間が四人来た』


「四人?」


『そう』


 アガの顔が曇る。


『突然、連絡なくなった』


「……」


『だから俺、日本来た』


 アリカと恵が顔を見合わせる。


「だから、日本に?」


『そう』


『でも、日本語分からない』


 アガは苦笑する。


『お金もない』


「え?」


『何も買えない』


「……」


『腹、減った』


「だから河川敷で倒れてたんだ……」


 アリカが納得する。


 だが。


 恵が眉を寄せる。


「ちょっと待って」


『?』


「お金を持ってないって……」


 恵が尋ねる。


「じゃあ、どうやって日本まで来たの?」


 アガは当然のように答えた。


『空、飛んできた』


「……」


「……」


「……」


 アリカが目を瞬かせる。


「飛行機に乗るお金はあったんだね!」


『違う』


「え?」


『飛行機、乗ってない』


「……はい?」


 アガが立ち上がる。


『アガ、空、飛べる』


 次の瞬間。


 ふわり。


 アガの身体が浮いた。


「…………」


 誰も喋らない。


 風がアガの身体を包み込んでいる。


 しかし――。


 テーブルの上のコップは動かない。


 カーテンも揺れない。


 紙一枚すら飛ばない。


 ただアガだけが、静かに宙へ浮いている。


「…………」


 アリカが口を開く。


「……ちょーすごい」


「そこ!?」


 恵が突っ込んだ。


 アガは嬉しそうに頷いた。


『ちょーすごい』


「言葉覚えるの早っ!」


 夢宮家に笑い声が響いた。


     *


 ――その頃。


 精霊庁。


「不法入国者?」


 啓太が聞き返した。


 向かいに立つ冴子が頷く。


「そう。身元不明。日本語も通じない。しかも――精霊使い」


「そんなの、警備部や入管の仕事じゃないのか?」


 湊が言う。


「不法入国なんて毎日のようにあるだろ」


「問題は、その人物がただの不法入国者じゃないことよ」


 冴子が端末を操作する。


「これを見なさい」


 大型モニターに映像が表示された。


 夜の海。


 その上空を――。


 一人の人影が飛んでいる。


 翼はない。


 飛行機でもない。


 人間が、風だけを纏って飛んでいる。


 そしてその影は――。


 日本海を単身で横断していた。


「……」


 湊の顔から笑みが消える。


「ちなみにさ」


 上擦った声で尋ねる。


「風の精霊使いが、このレベルで飛行するって……どれくらいいるの?」


 啓太が答える。


「日本国内なら、五人くらいって聞いたことがある」


「五人!?」


「各国を平均すると、飛行能力として認められる精霊使いはもっと少ないらしい」


「どこ情報よ、それ」


「父さん」


「……」


「……」


 冴子と湊が押し黙る。


 天城和臣。


 啓太の父。


 風の精霊使いであり、精霊使いや魔術師に関する事件を扱う検事。


 そして――。


 彼自身も飛行能力を持っている。


「……親子揃って規格外なのね」


 冴子が呟く。


「とにかく」


 気を取り直す。


「私たちは、この不法入国者を探す」


「けどよ」


 湊がモニターを見る。


「コイツが悪人だって決まったわけじゃないだろ?」


「対象は不法入国という法に反する行為をしている。それは事実よ」


「だからって、最初から悪人扱いするのは違うんじゃねえの?」


 冴子が眉間に皺を寄せる。


 啓太も映像を見る。


「……湊の言いたいことは分かる」


「だろ?」


「俺たちが、この人を悪人だと決めつけることはできない」


 啓太は淡々と続ける。


「だけど、だからといって放っておくこともできない」


「……」


「身元不明。目的不明。それに、これだけの精霊術を使える実力者だ」


 啓太の表情が引き締まる。


「もし何か事件を起こすつもりなら、被害が出てからじゃ遅い」


 湊が腕を組む。


「つまり?」


「敵か味方か分からないから、まず確認する」


「……なるほどね」


 冴子が頷く。


「決まりね」


 端末を閉じる。


「対象を発見したら、まず身元と入国経緯を確認する。こちらに敵対する意思がない限り、無用な戦闘は避ける」


「了解」


「了解」


 啓太も立ち上がった。


「行こう」


     *


 その頃。


 夢宮家。


 アガは窓の外を見ていた。


 風が吹いている。


 故郷と同じ風。


 優しく。


 静かに。


 何かを伝えるように。


 アガは目を閉じる。


「……ナイズ」


 小さく呟く。


 必ず見つける。


 どこにいるのか分からない。


 何が起きたのかも分からない。


 それでも。


 自分は仲間を探すためにここへ来た。


 風が導く限り――。


 アガは決して諦めなかった。


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