003 【疑念の風】
料亭の一室。
鍋から立ち上る湯気が、甘い香りを部屋いっぱいに漂わせていた。
薄切りの牛肉。
豆腐。
長ネギ。
春菊。
日本特有のすき焼きを前にして、二人の男が向かい合っている。
一人は、日本の極道組織――阿比留一家の組長。
阿比留。
そして、その向かいに座っているのは。
ヴァンレイスファミリーの新たなボス。
クレア・ヴァンレイスだった。
「日本のすき焼きは、食べたことがおありかな?」
「……」
クレアは答えなかった。
阿比留は気にした様子もなく、鍋へ視線を落とす。
「薄切りの牛肉と野菜を、醤油、砂糖、酒などで作った甘辛いタレで煮る、日本の鍋料理です」
「……」
クレアは、相変わらず無言だった。
阿比留は深めの小鉢を手に取る。
そして。
頃合いになった肉へ、箸を伸ばした。
「――お前が先に取るのかよ?」
空気が凍り付いた。
阿比留の部下たちが、即座に反応する。
「……」
しかし。
阿比留は笑顔を作った。
「ははは」
肉を小鉢へ移しながら、穏やかな声で言う。
「私も若い頃は、こうやって親父によそってもらったものです」
そして、クレアの前に小鉢を差し出した。
「礼儀や任侠心を教えるのは、先達の務めというもの」
「……」
クレアは小鉢を見た。
そして。
受け取らずに立ち上がった。
「……要するに」
クレアが、阿比留を見下ろす。
「お前は俺に、あれこれと口を挟む立場になりたいわけだ」
「……」
阿比留の笑顔が消えた。
「……あまりに図に乗るなよ」
阿比留のこめかみに青筋が浮かぶ。
「クソ餓鬼――」
「ガッ!?」
最後まで言い切ることはできなかった。
何かが。
阿比留の口の中へと、突っ込まれていた。
「……!」
一触即発。
阿比留一家の部下たちが銃を抜く。
同時に。
クレアの背後に控えていたヴァンレイスファミリーの男たちも、銃口を向けた。
「まだ立場が分かっていないようだな?」
「ガッ! ガッ! ッガ!」
「ガーガーうるさいよ、アヒルちゃん!」
クレアが口元を歪める。
そして。
ピンッ!
金属音が鳴った。
クレアが、阿比留の口に突っ込んだ何かから、金属製のピンを引き抜いた。
「……っ!?」
阿比留の目が見開かれる。
クレアは、そのまま阿比留を蹴り飛ばした。
「ぐっ!?」
畳の上を転がる阿比留。
その口には。
手榴弾が詰め込まれていた。
「戦争がしたいのなら、いつでも歓迎してやるよ」
クレアは静かに告げる。
「……っ」
「殺すつもりなら、最初から殺せ」
言って。
クレアは引き抜いたピンを、卓上へ置いた。
「そうじゃないなら」
冷たい目で、阿比留一家の人間たちを見回す。
「俺に喧嘩を売る前に、自分たちの立場を考えろ」
そして、部下たちを引き連れ、部屋を出て行った。
「お、親父!」
扉が閉まった。
その瞬間。
阿比留一家の部下たちが、慌てて組長へ駆け寄る。
「手榴弾!?」
「落ち着け!」
一人が叫んだ。
「安全レバーは外れてない!」
部下が震える手で手榴弾を掴む。
「ピンを戻して……ゆっくり、口から出すんだ!」
慎重に。
本当に慎重に。
手榴弾が阿比留の口から取り出される。
「……っ」
「親父! 大丈夫ですか!?」
阿比留は畳に手をついた。
「ハァ……」
息を吐く。
「ハァ……ハァ……」
震えている。
怒り。
恐怖。
そして。
屈辱。
「……ケダモノの目をしていた」
「親父……」
「アレは……人間が飼いならせる生き物じゃない」
阿比留の目に、強い憎悪が宿る。
「奴らを……」
「親父?」
「殺せ」
「……」
「殺せ!」
阿比留が叫ぶ。
「殺せ! 殺せ! 殺せ!」
料亭の一室に。
憎悪に満ちた声が響き渡った。
⸻
数日後。
恵那とアリカが通う中学校。
連続通魔事件の犯人は、未だ捕まっていなかった。
被害者が増えたことで、学校側も警戒を強めている。
その結果。
この日の授業は、午前中のみとなった。
「急に半日授業になるなんてね」
「仕方ないよ。通魔、まだ捕まってないんだし」
アリカと恵那。
そして、二人と仲の良い同級生二人。
四人で校門を出ようとしていた時だった。
「あの」
声をかけられた。
校門の前。
二人の男が立っていた。
「夢宮アリカさんですね?」
「え?」
アリカが自分を指差す。
「はい」
男の一人が、手帳を取り出した。
「精霊庁刑事部の長谷川といいます」
続いて、もう一人の男も警察手帳を見せる。
「自分は佐島です」
アリカは、何が起きているのか理解できず、目を瞬かせた。
「連続通魔事件の参考人として」
長谷川が言う。
「一緒に署まで、ご同行ください」
「え?」
「え?」
アリカだけではない。
恵那も。
友人二人も。
状況を理解できず、困惑していた。
「ちょっと待ってください」
恵那が、長谷川の前に出た。
「失礼ですが、あなたは?」
「アリカの友人。神代恵那と言います」
「神代?」
長谷川の隣で、佐島が反応した。
「先輩。神代って、あの神代家の――」
「ああ」
長谷川が思い出したように呟く。
「悪いが、こっちは子供の相手をしている暇はないんでね」
「そんな」
恵那が一歩も退かない。
「理由も言わず、一方的すぎる」
「詳しいことは、ここでは話せない」
長谷川は恵那を見た。
「嬢ちゃんもこっち側の人間なら、弁えな」
そして。
恵那をどかそうとした。
「ちょっと待って――」
「それでも」
別の声がした。
「彼女は未成年だ」
長谷川の動きが止まる。
「任意同行をするなら、せめて親の許可は取るべきじゃないですか?」
「……」
長谷川が振り返った。
「……何でお前がここにいるんだよ」
そこに立っていたのは。
天城啓太だった。
「啓太くん!」
「知り合いの街で連続通魔事件が起きてるって聞いたので」
啓太は平然と答える。
「気になって刑事部に聞きに行ったんですよ」
「……」
「そしたら、ケンさんと佐島さんが、アリカを参考人として引っ張りに行ったって聞かされたので」
「ケンさんって呼ぶな」
「え?」
アリカたちが目を瞬かせる。
どうやら。
啓太と長谷川は知り合いらしい。
「てか」
長谷川が、恵那とアリカを指差す。
「このガキンチョたちは、お前のツレかよ」
「はい」
「……」
長谷川は頭を掻いた。
「啓太くん」
恵那が呼ぶ。
啓太は安心させるように笑った。
「恵那。安心していいよ」
「?」
「この人、見た目怖いし、口も悪いけど」
長谷川が啓太を睨む。
「子供には、すごく甘いから」
「おい、啓太」
「?」
「余計なこと言うな」
その後ろで。
佐島が、必死に笑いを堪えていた。
「……ったく」
長谷川は大きくため息をつく。
「おい、佐島」
「はい」
「学校から部屋を借りてこい」
「はい」
「あと、この子の両親に来てもらって、立ち会いをお願いしろ」
「分かりました」
佐島は学校へ向かっていく。
長谷川は啓太を見る。
「啓太」
「?」
顎をクイッと動かす。
――ついてこい。
啓太は、その意味を理解した。
⸻
体育館裏。
人の気配がなくなった場所で、長谷川は啓太に尋ねた。
「それで?」
「?」
「お前、あのアリカってガキと、どんな関係だ?」
「四月に知り合って」
啓太は答える。
「色々と面倒を見てます」
「二ヶ月くらいの付き合いじゃねぇか」
「そうですね」
「それじゃ、よく知らねぇだろ」
「そうですね」
啓太は頷いた。
「俺が知っていることといえば……」
そして。
アリカの性格。
好きなこと。
苦手なこと。
過去の出来事。
学校生活。
家族。
恵那との関係。
そして。
彼女が人を傷つけることを、どれほど嫌うか。
事細かに説明していく。
「……」
長谷川が、無言になった。
「……超仲良しじゃん!」
「え?」
「何で、そんなことまで知ってんの?」
長谷川は啓太を見る。
「怖っ」
「……」
「いや、お前。本当に四月からの付き合い?」
「アリカは」
啓太の声が変わった。
「人を傷つけるような子じゃない」
長谷川は、啓太を見る。
「俺が保証します」
「……」
「それが俺の知っている、アリカです」
「……だろうな」
長谷川が呟く。
「あの子の目は、通魔なんてできる奴の目じゃない」
「じゃあ、何で容疑者として浮上してるんです?」
啓太が尋ねる。
長谷川は答えなかった。
「……ケンさん」
「参考人って言っただろ」
「それは建前ですか?」
「……」
沈黙。
そして。
長谷川は舌打ちした。
「被害者の中に、あのガキンチョの関係者がいたんだよ」
「関係者?」
「昔、アリカをいじめていた一人だ」
啓太の表情が変わった。
「しかも」
長谷川は続ける。
「リーダー格だった女だ」
「……」
「最近になって、アリカは風の精霊と契約した」
そして。
「カマイタチ型の守護精霊とも契約している」
「……」
「被害者は全員、刃物でふくらはぎや太腿を切りつけられている」
長谷川は吐き捨てるように言った。
「最近、精霊と契約したガキンチョが」
目を細める。
「昔のいじめに復讐するために、犯行を行った」
「……」
「それが上の連中の描いた筋書きだ」
「他の被害者への動機は?」
「力を手に入れたことによる暴走」
「……それはまた」
啓太が眉をひそめる。
「ずいぶんと雑な話ですね」
「たくっ」
長谷川が頭を掻く。
「やってらんねーよ」
そして。
「おい、啓太」
「はい」
「玲司の奴に言っとけ」
「兄さまに?」
「膿を出すのは結構だが、人手不足のせいで捜査の質が下がってるってな!」
「分かりました」
啓太は小さく笑う。
「兄さまに具申しておきます」
「頼むぜ、本当に」
長谷川は大きく息を吐いた。
しかし。
すぐに啓太へ視線を向ける。
「そんなことより」
「?」
「お前も、こんなところで油売ってていいのか?」
「今日は非番ですよ」
「組対の応援に駆り出されてたはずだろ?」
「今日くらい休ませてください」
「それなのに、わざわざ刑事部に話を聞きに行くとか」
長谷川は呆れたように言う。
「ほんと、恒一とそっくりな」
「……」
啓太の表情が、僅かに綻んだ。
「……そうですか」
「?」
「そう言われるのは」
啓太は小さく笑った。
「嫌いじゃないです」
長谷川は一瞬だけ啓太を見る。
そして。
「……そうかよ」
それ以上は、何も言わなかった。
⸻
アリカの両親が到着した。
事情聴取は、速やかに終わった。
アリカの両親は一般人だ。
突然精霊使いとなったアリカ自身も、精霊庁や魔術師側の事情には詳しくない。
そのため。
事情を理解している啓太も同席することになった。
「啓太くん」
待っていた恵那が尋ねる。
「アリカは?」
「大丈夫」
啓太が答える。
「簡単な事情聴取を受けただけだよ」
「恵那ちゃん!」
そこへ。
アリカが駆け寄ってきた。
「恵那ちゃん、あのね!」
不安そうな顔だった。
「私、精霊で悪いことなんてしてない」
「……」
「私、本当に何もしてない」
「分かってる」
恵那は迷わなかった。
「アリカは、そんなことしない」
「……うん」
「アリカ」
その時。
二人の前に、同級生の二人がやって来た。
「……」
アリカが少し表情を明るくする。
「二人とも」
「?」
「待っててくれてたんだ」
「……」
「あのね」
アリカが口を開く。
「私、二人に――」
「アリカって」
一人が尋ねた。
「精霊使いなの?」
「……」
アリカが止まる。
「あ」
言葉に詰まった。
「うん」
そして。
「最近、精霊使いになったの」
「……」
「もしかして」
もう一人が、恵那を見る。
「神代さんも?」
「そうだよ」
恵那が答えた。
「私は小さい頃から、精霊と契約してる」
「そう……なんだ」
二人は顔を見合わせる。
「あのね!」
アリカが慌てて言った。
「二人には、機会を見て伝えようと思ってたの」
「……」
「ごめん」
一人が呟いた。
「ちょっと……色々なことがありすぎて」
アリカが黙る。
「今は、何にも分かんないや」
「……そうだよね」
アリカの声が小さくなる。
「ごめんね」
二人は。
何も言わなかった。
そして。
「じゃあ」
「……うん」
二人は、そのまま帰っていった。
「……」
アリカは背中を見送っていた。
元気がない。
「アリカ」
「……はい」
両親がアリカを呼ぶ。
「帰ろう」
「……うん」
アリカは恵那を見る。
「じゃあね、恵那ちゃん」
「うん」
「また明日」
「また明日」
アリカは両親とともに、家へ帰っていった。
しばらく。
恵那は、その背中を見ていた。
「……」
「送っていくよ」
啓太が言う。
「……いい」
恵那は首を振った。
「やらなきゃいけないことができた」
「……」
恵那の瞳に。
強い炎が宿っていた。
啓太は、その意味を理解した。
「そっか」
止めることはしない。
ただ。
「あまり遅くなって」
いつものように。
「巫女様に心配をかけないようにね」
「……うん」
恵那は小さく頷く。
そして。
歩き出した。
その胸の奥で。
静かに燃える炎とともに。
私の友達を疑うなら――。
私が、全部調べる。




