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002 【盃の契り、精霊の声】



 畳敷きの広間に、異様な緊張が漂っていた。


 ここは日本のとある極道組織の本部。


 しかし、今日この場所に集まっている者たちは、日本の極道だけではなかった。


 遠く海を越えたイタリアからやって来た、巨大犯罪組織――ヴァンレイスファミリー。


 その次代のボスとなる人物と盃を交わすため、日本側の有力者たちが一堂に会していた。


 長机を囲む男たちの視線が、一人の青年へと集中する。


 青紫~青系の無造作な長めの髪、細身で長身の青年


 人形のように整った顔立ち。


 その容姿だけを見れば、とても巨大な犯罪組織の長になる人間には見えない。


 だが、彼の名を知る者にとって、その存在は恐怖そのものだった。


「ここに座す方々は、先代の頃より大変懇意に――」


「マウロ」


 老齢の男の言葉を、クレア・ヴァンレイスが遮った。


「前置きはいい。早く済ませろ」


 マウロと呼ばれた老人は、一瞬だけ目を閉じる。


 そして、深いため息をついた。


「……では、盃の儀を行います」


「さあ、献血タイムだ」


 場違いなほど軽い声が響いた。


「手早く済ませよう」


 ジョパンニだった。


 テーブルの上には、美しく装飾されたデキャンタが置かれている。


 中には、深い赤色のワイン。


 それがクレアの前へと運ばれた。


 クレアの側近であるレオナルドが、装飾の施されたナイフを差し出す。


 クレアはそれを受け取った。


「……」


 ためらいはない。


 親指に刃を当てる。


 そして――浅く切った。


 赤い血が滲む。


 クレアは傷口をデキャンタの上へと移動させた。


 ぽたり。


 一滴の血が、赤いワインの中へと落ちる。


 すぐに男たちの前に置かれたグラスへ、ワインが注がれていった。


 マウロが、厳かな声で告げる。


「クレア・ヴァンレイスをボスと認める者は――盃を飲み干してください」


 促されるように、一同がグラスを持ち上げた。


 しかし。


 誰も飲まない。


 互いに視線を交わし、様子を窺っている。


 目の前にいる青年は若い。


 若すぎる。


 先代のボスとは違う。


 まだファミリーを率いるには早いのではないか。


 そんな感情が、男たちの表情から透けて見えていた。


「……」


 クレアが、ゆっくりと彼らを見る。


「……飲めよ」


 低い声だった。


 怒鳴っているわけでもない。


 威圧しているわけでもない。


 それでも。


 その瞬間。


 誰もが息を呑んだ。


 クレアの目。


 そこに宿っていたのは、怒りではない。


 もっと得体の知れないものだった。


 狂気。


 理性を持ちながら、それでも平然と人を殺せる者だけが持つような――冷たい狂気。


「……っ」


 男の一人が震える手でグラスを傾けた。


 それを皮切りに、一人、また一人とワインを飲み干していく。


 クレアは、全員が飲み終えるまで無言で眺めていた。


 そして、小さく息を吐く。


「さっさと飲めばいいものを」


 呆れたような声音だった。


「彼らからすれば、若いボスに思うところはあるんだろう」


 クレアは空になったグラスを見渡す。


「だが、ウチに逆らうことなんて、結局できないんだからな」


「……クレア」


 ジョパンニが、隣の男を見る。


「イワン。お前はまだ分かっていないねぇ」


「何がです?」


 イワンが首を傾げる。


 すると、レオナルドが静かに口を開いた。


「奴らは、ファミリーを恐れて飲んだんじゃない」


「?」


「クレアを恐れて――飲まされたんだ」


 イワンは、しばらく考え込んだ。


「……何が違うんですか?」


「「……」」


 レオナルドとジョパンニが顔を見合わせる。


 そして同時に肩をすくめた。


 まるで、


『仕方のない奴だ』


 とでも言いたげな仕草だった。


 クレアだけが、その様子を見て薄く笑った。


「……お前は本当に馬鹿だな、イワン」


「えっ!?」


 そんなイワンの悲鳴を残して、盃の儀は終わった。


⸻


 帰りの車内。


 街灯の光が、窓の外を流れていく。


 運転席にはイワン。


 助手席にはジョパンニ。


 後部座席に座るクレアの隣には、マウロがいた。


「坊っちゃま」


「ボスと呼べよ、マウロ」


「いいえ」


 即答だった。


「坊っちゃまと呼ばせていただきます」


「……チッ」


 クレアは露骨に舌打ちをした。


 だが、マウロは気にする様子もない。


 むしろ、長年仕えてきた主人の悪癖を見るような目だった。


「坊っちゃま」


「なんだ」


「あのようなやり方では、下の者はついてきません」


「……」


「いずれ軋轢を生みます。そして、その軋轢はファミリーにとって多大なる損失となるでしょう」


 クレアは窓の外を見た。


「いいじゃないか」


「坊っちゃま」


「逆らう奴は、粛清していけばいい」


 マウロは目を閉じる。


「……はぁ」


「ため息をつくな」


「坊っちゃまが先代のような人間であれば、私も苦労はしないのですが」


「パパの話はするな」


 クレアは窓に映る自分の顔を見る。


 冷たい笑みを浮かべながら。


「俺を恐れる奴だけが、俺の下にいればいい」


 車内に、重い沈黙が落ちた。


⸻



 同じ頃。



 仕事を終えた女性が、一人で夜道を歩いていた。


 住宅街。


 人通りは少ない。


 街灯の明かりが、等間隔に地面を照らしている。


「……」


 女性は歩きながら、ふと眉をひそめた。


 何かがいる。


 背後。


 這うような気配。


「……?」


 振り返る。


 誰もいない。


 道には自分以外、誰の姿もなかった。


「気のせい……?」


 女性は再び歩き始める。


 しかし。


 その気配は消えない。


 むしろ。


 近づいている。


 女性の足が、少しずつ速くなる。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 背後から何かが這ってくるような、奇妙な音。


「……!」


 走る。


 女性は恐怖に駆られ、足を速めた。


 だが。


 気配はさらに近づく。


 もう、すぐ後ろだ。


「い……いや……!」


 女性は振り向いた。


 その瞬間。


 ――何かが飛びかかってきた。


「きゃああああああっ!」


 悲鳴が夜の住宅街に響き渡る。


 次の瞬間。


 鮮血が、路面へと飛び散った。


⸻


 翌朝。


 精霊殿の修練場。


「精霊使いは――!」


 アリカが叫ぶ。


「力と――!」


 風が集まる。


「技と――!」


 さらに圧縮される。


「根性――っ!」


 バシュッ!


 放たれた風の刃が、離れた場所にある的へと突き刺さった。


 的に深い傷が刻まれる。


「届いた!」


 アリカが両手を上げて喜んだ。


「やった!」


「……」


 恵那は、微苦笑を浮かべながらその様子を見ていた。


 そして、隣にいた啓太へと視線を向ける。


「あれって、いいの?」


 豪華に言われて以降。


 アリカは気合を入れる度に、


『力と技と根性!』


 と叫ぶようになっていた。


 啓太は少し考える。


「一概に悪いとは言い切れないよ」


「そうなの?」


「うん」


 その時、巫女様が口を開いた。


「精霊の力は、とても神秘的なものなのです」


 恵那とアリカが巫女様を見る。


「精霊には意思がないと言われています」


「でも」


 巫女様は続ける。


「その力は、術者の精神性や意志の強さによって、引き出せる術の規模や威力が変わることがあります」


「精神性……」


 恵那は小さく呟いた。


 恵那自身にも、覚えがあった。


 神狩との戦い。


 あの時。


 火の精霊が集まりやすい環境を用意したとはいえ、自分は太陽を彷彿とさせるほどの巨大な精霊術を生み出した。


 あれほどの術を、もう一度使えと言われても。


 恵那にはできる自信がない。


 あの時は。


 ただ。


 アリカを――。


 守りたい。


 その想いだけが、自分の中にあった。


「……」


 偶然だったのだろうか。


 自分でも思いもよらない力が、偶然引き出された。


 そう考えることもできる。


 恵那は啓太を見る。


「啓太くんは、どう思ってるの?」


「……多分だけど」


 啓太は、少し考えてから言った。


「精霊の声は、とても小さいんだ」


「……声?」


 恵那が首を傾げる。


 それではまるで。


 精霊には意思があると言っているようだった。


「人には聞こえないくらい、とても小さな声」


 啓太は続ける。


「でも俺たちは、その声に気付けない」


「……」


「だから精霊は、俺たちの想いに応えることで」


 啓太は静かに笑った。


「自分たちの存在に、気付いてもらおうとしているんじゃないかな」


「精霊の……声」


「少し夢想的な考えかもしれないけどね」


 恵那は、軽く首を振った。


「ううん」


 そして、啓太へ微笑みかける。


「とてもロマンティックで素敵だと思うよ」


「……」


「精霊には意思がないって言われるより」


 恵那は空を見上げた。


「そういう考え方の方が、私は好き」


 そして。


 誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。


「……私も、精霊の声を聞いてみたい」


「……」


 巫女様は二人の姿を見ながら、微笑んでいた。


 そんな中。


 アリカが拳を握る。


「それってつまり!」


「?」


「根性が大事ってことですよね!?」


「「……」」


 啓太と恵那の動きが止まった。


 そして。


 恵那が、ゆっくりとアリカを見る。


「アリカ」


「はい?」


「私はそういう考え方が嫌い」


「何で!?」


 修練場に、アリカの悲鳴が響いた。


⸻


 修行が終わり、アリカが帰る時間になった。


「アリカ」


「はい?」


「自宅まで送るよ」


 啓太はそう言って、手に持っていたヘルメットを放った。


「おっと!」


 アリカが見事にキャッチする。


「いいんですか?」


「最近、物騒だから」


「物騒なんですか?」


 アリカが首を傾げる。


 すると、巫女様が答えた。


「近頃、この辺りで通魔が出ると聞いています」


「通魔……」


「女の子の一人歩きは危険ですから、お言葉に甘えるといいでしょう」


「わかりました!」


 アリカが笑顔を見せる。


「じゃあ、甘えさせてもらいます!」


 アリカは啓太のバイクの後部座席へと乗った。


 ヘルメットを被りながら、恵那と巫女様を見る。


「それじゃあ恵那ちゃん、巫女様! また明日!」


「うん。また明日」


「気を付けてくださいね」


 恵那と巫女様も手を振る。


 その時だった。


「啓太くん」


「ん?」


 啓太が振り返る。


 恵那は、じっと啓太を見ていた。


「私」


「?」


「まだバイクに乗せてもらってない」


「……」


 啓太の動きが止まる。


 その瞬間。


 何故か啓太の背中を冷たい汗が流れる。


 アリカも、ヘルメットの奥から二人を見ている。


「……」


「……」


「……今度」


 啓太は少しだけ視線を逸らした。


「一緒に出かけよう」


「約束」


「ああ」


 啓太は頷く。


「約束だ」


「……うん」


 恵那が嬉しそうに笑った。


 ヘルメットの奥。


 アリカの目は、二人のやり取りを見てキラキラと輝いていた。


「ふふふ……」


「アリカ?」


「何でもありません!」


 啓太のバイクが走り出す。


 恵那はその背中を見送っていた。


 そして、啓太と交わしたばかりの約束を思い出す。


「……バイク、楽しみだな」


 その声は小さい。


 しかし、その表情は。


 普段の恵那からは想像できないほど、嬉しそうだった。


 だが。


 その頃。


 同じ街のどこかでは。


 また一人。


 何かの気配に怯える人間がいた。


 そして――。


 闇の中で。


 何かが、這っていた。


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