009 【外法の鬼】
――静かだった。
先ほどまで轟音と爆炎に包まれていた採石場は、嘘のように静まり返っていた。
焼け焦げた岩肌。
削り取られた大地。
あれほど激しく燃え盛っていた炎も、今ではその残滓が地面に熱を残しているだけだった。
周囲に集まっていた火の精霊たちも、戦いを終えたことで少しずつ姿を消していく。
恵那は小さく息を吐いた。
「……終わった」
視線の先には、炎に焼き尽くされた大地。
神狩の姿はない。
恵那は振り返った。
「アリカ、大丈夫?」
「う、うん……」
アリカは自分の身体を確かめるようにして立ち上がった。
そして――
自分の傍らにいる存在を見た。
小さな風が渦を巻いている。
その中心には、一匹の獣のような姿。
鋭い爪。
風を纏った身体。
そして、鎌のように湾曲した風刃。
それは武器ではない。
アリカを選んだ、カマイタチのような守護精霊――雷鎌。
雷鎌は何も言わず、アリカの傍らに寄り添っている。
「……雷鎌」
アリカがそっと手を伸ばす。
風が指先を撫でた。
それを見た恵那が微笑む。
「仲良くなったみたいね」
「うん……」
アリカは雷鎌を見つめる。
自分を選んでくれた存在。
その意味は、まだ分からない。
それでも――
この小さな守護精霊が、自分を信じてくれていることだけは分かった。
「帰ろう」
恵那が言った。
「もう大丈夫だから」
二人は採石場を後にしようと歩き出した。
――そのとき。
「……待て……」
「……?」
アリカが振り返る。
「今……何か聞こえなかった?」
恵那も足を止めた。
静寂。
そして――
ズ……。
地面を何かが擦る音。
「……っ」
恵那の表情が変わった。
焼け焦げた岩陰から、一人の男が這い出してくる。
「……神狩……」
全身が焼け焦げていた。
衣服はほとんど残っていない。
それでも――
生きている。
「……このままじゃ……」
神狩が震える腕で地面を掴む。
「終われねえ……」
血の混じった唾を吐き出す。
「終われねえんだよ……!」
恵那が眉をひそめた。
「しつこいのは嫌い」
「黙れぇ……!」
神狩が懐から何かを取り出した。
赤黒い勾玉。
それを見た瞬間、恵那の全身を悪寒が走った。
「……何、それ」
神狩は答えない。
自分の傷口へ指を押しつける。
流れ出した血を、赤黒い勾玉へ擦りつけた。
「テメエは……」
勾玉が脈動する。
「殺してでも連れ帰る!」
――ドクン。
勾玉が動いた。
まるで意思を持った生き物のように。
神狩の手から離れる。
そして――
神狩の胸へ突き刺さった。
「――ッ!」
神狩が絶叫する。
次の瞬間。
勾玉を中心に、黒赤い液体が噴き出した。
それは瘴気と呼ぶには生ぬるい。
まるで腐った泥水。
ヘドロのような呪いそのものが、神狩の身体を包み込んでいく。
「何……あれ……」
アリカが後ずさる。
恵那は咄嗟にアリカの前へ立った。
「アリカ、逃げて」
「え?」
「何か……変」
あれは精霊術ではない。
精霊の力とも違う。
もっと禍々しい。
そして――
間に合わなかった。
「ギィィィィィィィィィィィッ!」
神狩の絶叫が採石場に響き渡る。
身体が膨張する。
骨が軋む。
肉体が捻じ曲がる。
そして――
人間だった男の姿が、完全に消えた。
そこに立っていたのは――
二メートルを優に超える巨大な鬼。
血のように赤い二本の角。
筋肉質な巨体。
そして首には――
九つの骸骨を模した装飾が連なる首輪。
「……鬼……?」
アリカが呟いた。
鬼は答えない。
ただ、赤く濁った瞳で二人を見る。
そこに理性はなかった。
怒り。
憎悪。
破壊衝動。
ただ、それだけ。
「……まずい」
恵那は構えた。
鬼の周囲から濃密な瘴気が立ち上っている。
吸い込めば危険。
肺を腐らせる。
炎の加護を受けている恵那でさえ、この瘴気が体内へ入れば命に関わる。
「アリカは私の後ろに」
「でも……!」
「いいから!」
恵那が叫ぶ。
鬼が突然、天を仰いだ。
「――ギャアアアアアアアアッ!」
鼓膜を破るような奇声。
次の瞬間――
大地が隆起した。
「――!」
巨大な岩石が次々と空中へ放り上げられる。
そして――
恵那たちへ殺到した。
「火の精霊!」
恵那の周囲に炎が集まる。
炎弾が連続して放たれ、岩石を次々と撃ち落としていく。
だが――
終わらない。
岩。
岩。
岩。
さらに岩。
「くっ……!」
恵那は炎の壁を作る。
それでも鬼は止まらない。
まるで大地そのものを武器にしている。
しかも、先ほどの神狩とは違う。
土の精霊たちが苦しんでいる。
何かに無理やり命令され、狂わされているかのようだった。
恵那は攻撃を防ぎ続ける。
だが――
火の精霊たちが一体、また一体と消えていく。
先ほどまで戦場を覆っていた炎も、すでに大半が消えていた。
「このままじゃ……」
――ガッ!
「っ!」
迎撃を抜けた岩石が、恵那の身体を掠めた。
制服が裂ける。
腕に赤い線が走る。
「恵那ちゃん!」
「大丈夫!」
そう答えたものの――
状況は悪化していた。
アリカは唇を噛みしめる。
「……また」
自分は守られている。
また。
恵那の後ろにいる。
何もできない。
「……嫌だ」
アリカは雷鎌を見る。
「もう……嫌だ!」
その瞬間だった。
雷鎌が、淡く輝いた。
「……え?」
風が吹いた。
一陣の風が、アリカの頬を撫でる。
雷鎌から伝わってくるものがあった。
言葉ではない。
それでも、アリカには分かった。
――選ぶ。
――共に戦う。
「……私を?」
風がアリカの身体を包む。
そして――
アリカの中で、何かが繋がった。
「……あ」
精霊。
風の精霊。
そして、それを支える守護精霊――雷鎌。
アリカはまだ知らない。
術式も。
戦い方も。
精霊を操る技術すらない。
それでも――
契約だけは成立した。
アリカは風の精霊に選ばれた。
「……これが……」
アリカが手を伸ばす。
「私の……力?」
雷鎌がアリカの周囲を駆ける。
その動きに合わせるように、風が渦巻いた。
恵那が振り返る。
「アリカ……?」
その瞬間。
「アリカ!」
岩石が迫っていた。
「――っ!」
アリカが雷鎌とともに腕を振る。
風が爆発した。
恵那の炎とアリカの風が混ざり合う。
巨大な熱風となった奔流が、迫り来る岩石を押し返した。
「――!」
さらにその勢いは止まらない。
炎を纏った風が鬼へ直撃する。
轟音。
鬼の巨体が僅かに揺れた。
「やった……!」
アリカの顔に笑みが浮かぶ。
「私にも――」
しかし。
鬼は――
無傷だった。
「……え?」
ゆっくりと鬼がアリカを見る。
赤い瞳が細くなる。
そして――
殺意の矛先が、アリカへ向いた。
「……っ」
鬼が地面を蹴った。
「アリカ!」
恵那が叫ぶ。
雷鎌が轟雷を纏った風を放つ。
恵那も炎を叩き込む。
雷と炎。
二つの攻撃が鬼へ殺到する。
だが――
鬼は止まらない。
身体から瘴気を撒き散らしながら、一直線にアリカへ迫ってくる。
「来ないで!」
アリカが雷鎌とともに構える。
しかし――
間に合わない。
鬼の拳が振り下ろされる。
その前に――
「させない!」
恵那が飛び込んだ。
炎の剣が鬼の拳と衝突する。
――ガァン!
「――っ!」
炎の剣が弾き飛ばされた。
そして――
鬼の腕が恵那を掠めた。
「……!」
瘴気が傷口から入り込む。
恵那の視界が揺れた。
「な……に、これ……」
呼吸が苦しい。
肺が焼けるようだった。
鬼が恵那の身体を掴み上げる。
「恵那ちゃん!」
アリカが叫ぶ。
鬼が恵那を握り締める。
さらに瘴気が身体へ侵入していく。
「……っ……」
恵那の意識が薄れていく。
「恵那ちゃんを……離して!」
アリカの魔力に反応し、雷鎌が大きく姿を変える。
風の刃が巨大化する。
雷鎌自身が、アリカの未熟な力を補うように風を集める。
「――雷鎌!」
一閃。
雷光を纏った風刃が、鬼の腕を切り裂いた。
「ギィィィィィ!」
初めて鬼が苦痛の声を上げた。
反射的に恵那を手放す。
「恵那ちゃん!」
アリカが駆け寄る。
地面に落ちた恵那を抱き起こす。
「恵那ちゃん!」
「……アリ……カ……」
恵那の瞳は焦点が合っていない。
苦しそうに呼吸している。
「大丈夫……だから……」
「大丈夫じゃないよ!」
アリカの声が震える。
その背後。
鬼が立ち上がった。
怒りに任せ、二人へ向かって突進する。
「――!」
もう避けられない。
その瞬間――
――轟音。
一台のバイクが採石場を駆け抜けた。
「ぶちかませ!」
漆黒の影が飛び出す。
巨大な竜。
闇の精霊によって形作られた存在――
「闇竜!」
闇竜の拳が鬼の顔面を捉えた。
――ドゴォン!
鬼の巨体が吹き飛ぶ。
岩壁へ叩きつけられた。
「二人とも無事か!?」
バイクを止めた啓太が叫ぶ。
「啓太さん!」
アリカが叫ぶ。
「恵那ちゃんが!」
啓太は一瞬で状況を理解した。
恵那の呼吸。
傷。
そして漂う瘴気。
「……瘴気を吸ったのか」
「どうしたら……」
「大丈夫だ」
啓太は恵那を抱き上げる。
そして――
恵那の額へ自分の額を重ねた。
その瞬間。
周囲の闇の精霊たちが、一斉に集まり始めた。
啓太の身体から、淡い闇色の輝きが広がっていく。
それは闇の精霊たちが放つ、独特の輝きだった。
集まった闇の精霊が、恵那の身体へ触れる。
瘴気が反応した。
黒い霧のようなものが、恵那の身体からゆっくりと引きずり出されていく。
肺へ入り込んだ瘴気までも、闇の精霊が絡め取っていく。
「……!」
アリカは息を呑んだ。
そして――
恵那の傷が、まるで時間を巻き戻しているかのように塞がっていく。
啓太は意識を失った恵那を、そっと地面へ寝かせた。
「恵那を頼む」
「……う、うん!」
啓太は立ち上がった。
そして――
吹き飛ばされた鬼へ視線を向けた。
鬼がゆっくりと起き上がる。
血走った眼。
血のように赤い二本の角。
そして――
九つの骸骨を模した装飾の首輪。
「……」
啓太の目が細くなる。
「その特徴……」
記憶を探る。
「外法丸……」
かつて蘆屋道満という陰陽師が使役したと伝えられる、強力な式神。
だが、目の前の存在はただの式神ではない。
何者かによって受肉させられている。
しかも――
精霊を狂わせるほどの呪いを纏っている。
啓太は鬼を見据えた。
相手が何処の誰であろうと関係ない。
恵那を傷つけた。
アリカを殺そうとした。
それだけで――
啓太には戦わない理由がなかった。
「……来い」
啓太が歩き出す。
鬼が吠える。
「ギィィィィィィィィィィッ!」
その瞬間――
外法丸の頭上に、漆黒の球体が出現した。
闇の精霊が凝縮された球体。
「――潰すか」
ズンッ!
凄まじい重力が、外法丸へ直接降り注いだ。
「――ッ!」
鬼の巨体が大地へ押しつけられる。
地面が大きく陥没した。
外法丸は必死に身体を起こそうとする。
だが――
重力はさらに増していく。
両膝が地面につく。
両手をつく。
それでも耐えられない。
ズズズズズ……。
ついに外法丸の巨体が、完全に地面へ押し伏せられた。
啓太は黒い球体を消す。
ゆっくりと外法丸の前へ歩く。
そして――
見下ろした。
外法丸が顔を上げる。
一瞬。
その表情に、理性のようなものが浮かんだ。
だが――
すぐに怒りへ変わる。
「――グォォォォォッ!」
外法丸が啓太へ飛びかかった。
だが。
遅い。
啓太の拳が先に届いた。
右。
左。
「――エレメンタルフィスト」
闇を纏った拳が、鬼の顔面へ叩き込まれる。
――ドゴォン!
続けざまに二発。
インパクトの瞬間、闇の精霊が爆ぜる。
鬼が地面へ叩きつけられる。
それでも立ち上がる。
「……しぶといな」
鬼が後方へ飛び退いた。
そして――
「ギィィィィィィィィィィィッ!」
鼓膜を破るほどの奇声。
大地が震えた。
地面が隆起する。
大量の土砂が巻き上がる。
そして――
巨大な津波となって啓太へ襲いかかった。
圧倒的な質量。
それこそが土の精霊術の強み。
だが――
啓太は眉一つ動かさなかった。
「……汚い精霊術だ」
津波を構成する土の精霊たちが、苦しんでいた。
まるで何かに無理やり命令され、狂わされている。
啓太は静かに刀を生成する。
漆黒の刀身。
闇の精霊が刃へ集約される。
「――終わりだ」
上段。
一瞬の静寂。
そして――
一閃。
天地を切り裂くような黒い刃が走った。
巨大な土石流が――
真っ二つに割れる。
そのまま黒い斬撃が鬼を捉えた。
「――――」
鬼の身体が止まる。
そして――
ゆっくりと二つに分かれた。
外法丸。
かつて蘆屋道満が使役したとされる鬼は――
その場で完全に崩れ落ちた。
採石場に、静寂が戻る。
啓太は刀を消した。
そして背後を振り返る。
そこには――
眠ったままの恵那。
そして、雷鎌を傍らに従えたアリカがいた。
アリカは啓太を見つめていた。
恐怖。
驚き。
そして――
新たに芽生えた、自分自身の力。
それらを胸に抱えながら。
この日。
夢宮アリカは――
風の精霊に選ばれた。
そして同時に。
彼女の物語もまた、大きく動き始めることになる。




