006 【 見えるもの、見えないもの】
精霊庁――地下取調室。
分厚い扉の向こうには、冷たい空気が漂っていた。
机を挟んで座る男は、長い沈黙を続けている。
その正面に座っているのは、天城玲司。
玲司は手元の資料を閉じた。
「……もう一度聞く」
低く、静かな声。
「なぜ、神代恵那を襲った?」
「……知らねえ」
「嘘だな」
「本当に知らねえよ」
男は目を逸らす。
玲司は怒鳴らない。
ただ、その男の一挙手一投足を見ていた。
「お前たちは、ただの実行犯だった」
「……」
「ならば、命令した人間がいる」
「……」
「そいつは何を欲しがっていた?」
男の口元が歪んだ。
「……精霊だ」
「何?」
「神代家の守護精霊――鳳凰だ」
玲司の表情が僅かに変わった。
「……続けろ」
「神代家の血もだ」
「なぜ血に価値がある?」
「知らねえよ」
男は吐き捨てるように言う。
「ただ、あの家の血は特別なんだとよ」
玲司は黙って聞いている。
「精霊使いってのは、血を繋ぐことで力を維持してきた家が多いらしい」
「……」
「神代家もそうだ」
男は笑った。
「世界でも五本の指に入る精霊使いの一族だ」
玲司の目から温度が消える。
「……それで?」
「鳳凰と神代の血」
男は言った。
「両方手に入れれば、精霊使いの世界で大成できる――そういう話だった」
玲司の拳が僅かに握られる。
そして男は、何気なく続けた。
「生き残ったのは女だ。利用価値はいくらでも――」
「黙れ」
低い声だった。
だが。
その一言だけで、取調室の空気が凍りついた。
玲司の瞳から、完全に感情が消えている。
「……それ以上、神代恵那のことを口にするな」
男は初めて怯えた。
玲司は立ち上がる。
「お前たちが何を考えていたのかは分かった」
「……」
「だが――」
玲司は男を見下ろす。
(こんな話を、啓太には言えないな)
兄弟の間で、隠し事をすることなど玲司にとって本意ではない。
しかし。
これは今の啓太に伝えるべき話ではない。
怒りに任せれば、あの弟は必ず動く。
そして――
自分自身を傷つけるまで。
「では、最後の質問だ」
玲司は椅子に座り直した。
「お前たちに命令した人間の名前は?」
男は黙っていた。
だが、やがて諦めたように口を開く。
「……アベル」
「姓は?」
「アベル・ヴァレンティア」
玲司の目が細くなる。
「……そうか」
その名を、玲司は心の中で繰り返した。
アベル・ヴァレンティア。
それが――
神代家を襲った者たちの背後にいる人間だった。
同じ頃――
精霊庁から遠く離れた街では。
何も知らない二人の少女が、並んで歩いていた。
「ねえ、恵那ちゃん」
「なに?」
「今日、一緒に帰らない?」
「……うん」
恵那は少しだけ笑った。
アリカと一緒に歩く。
それだけのことなのに、不思議と心が落ち着く。
「今日の体育、疲れたね」
「アリカは楽しそうだったけど」
「楽しいのと疲れるのは別!」
「そうなの?」
「そうなの!」
アリカが笑う。
恵那もつられて笑った。
――その時だった。
「あれ?」
前から歩いてきた少女が、アリカを見て立ち止まった。
「……アリカ?」
「え?」
「やっぱり!」
昔の同級生だった。
「久しぶり!」
「久しぶり」
アリカは笑顔で答える。
だが。
その少女は、昔を思い出したように笑った。
「そういえばアリカって、まだ幽霊見えるとか言ってるの?」
「うん。まあね」
「懐かしいなぁ」
少女は笑う。
「昔、『あそこに幽霊がいる』とか言ってたよね」
「言ってたね」
「それでみんなから嘘つきって呼ばれてたじゃん」
「そうだったね」
「机に悪口書かれたり、教室でからかわれたり」
「……」
アリカは笑っていた。
「昔のことだよ」
「でも面白かったよね」
「……」
恵那が足を止める。
「……何が?」
少女が恵那を見る。
「え?」
「何が面白かったの?」
「いや、昔の話だから――」
「昔なら、人を傷つけてもいいの?」
恵那の声は静かだった。
しかし。
そこには明確な怒りがあった。
「アリカは笑ってるけど、それは楽しかったから笑ってるんじゃないでしょ」
「……」
「あなたたちは、アリカが見えていたものを信じなかった」
「……」
「それどころか、嘘つきだって決めつけて傷つけた」
少女は何も言えなくなる。
「だったら、少なくとも笑い話にするべきじゃない」
しばらく沈黙が続いた。
「……行こう」
少女は友人を連れて、その場を離れていった。
アリカは、その背中を見送った。
「……恵那ちゃん」
「なに?」
「怒ってくれたんだね」
「当たり前でしょ」
「……そっか」
アリカは小さく笑った。
「ありがとう」
二人は再び歩き始める。
しばらくして。
「ねえ、恵那ちゃん」
「うん?」
「さっきの話……本当なんだ」
「……」
「私、本当に幽霊が見えるんだ」
恵那は何も言わない。
「小さい頃から」
アリカは笑う。
「最初は怖かった。でも、怖いだけじゃなかった」
「……」
「寂しそうな子もいたから」
アリカは前を見る。
「だから助けてあげたいって思った」
「……」
「でも、誰も信じてくれなかった」
少しだけ声が震える。
「だから、途中から笑って話すようになったの」
「どうして?」
「そうすれば、辛くないから」
恵那は胸の奥が痛くなった。
「……アリカ」
「ん?」
「私ね」
恵那は立ち止まった。
「あなたに言わなきゃいけないことがある」
「何?」
「幽霊はいるよ」
「……え?」
「精霊もいる」
アリカの目が大きくなる。
「そして――」
恵那は続けた。
「あなたが一緒に暮らしている、その子も」
「……オコジョみたいな幽霊?」
「守護精霊」
「……!」
アリカは言葉を失った。
「じゃあ……私が見ていたものは……」
「本物だよ」
「……」
「あなたは嘘つきじゃない」
アリカの瞳に涙が浮かぶ。
「……そっか」
「うん」
「私……」
アリカは涙を拭う。
「ちゃんと見えてたんだ」
「そうだよ」
「……よかった」
アリカは笑った。
今度の笑顔には、無理がなかった。
「恵那ちゃん」
「なに?」
「ありがとう」
「……うん」
「私たち、友達だよね?」
「……今さら?」
「確認したいの!」
恵那は少しだけ笑った。
「うん。友達」
「やった!」
アリカが恵那の手を取る。
「これからもよろしくね!」
「こちらこそ」
二人は再び歩き出した。
その頃。
精霊庁では、玲司が一人、廊下を歩いていた。
手元には、取調べで得た情報。
人類の聖域――アルカニス。
そして。
アベル・ヴァレンティア。
玲司は資料を閉じる。
「……まだ終わっていない」
六年前の事件。
神代家。
鳳凰。
恵那。
そしてアルカニス。
すべてが繋がっている。
しかし――
そのことを、今の恵那は知らない。
今日。
彼女が初めて心から信じられる友人を得たことも。
その友人が、やがて守護精霊に選ばれることも。
そして、その少女が――
アルカニスの目的にとって、決して無関係ではない存在になっていくことも。
まだ、誰も知らなかった。
夕暮れの道を歩く二人の少女。
その少し後ろを、雷鎌が追いかけている。
小さな守護精霊の身体を構成する粒子が、夕陽を受けて淡く輝いた。
――友情が生まれた日。
そして同時に。
六年前から続く因縁が、再び動き始めた日でもあった。




