004 【沈黙の水底】
精霊庁。
地下取調室。
窓はない。
分厚い防音扉。
白い壁。
天井から吊り下げられた照明が、部屋の中央だけを冷たく照らしている。
その光の下に、一人の男が座っていた。
手錠。
拘束具。
そして――沈黙。
男は何も喋らない。
正面に座る取調官も、しばらく口を開かなかった。
時計の針だけが、一定の間隔で音を刻んでいる。
――カチ。
――カチ。
――カチ。
やがて扉が開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、天城玲司だった。
精霊庁の中でも名の知られた男。
圧倒的なカリスマ。
優れた軍略。
そして、水の精霊使い。
だが今の玲司からは、普段の激情も覇気も感じられない。
ただ――冷静だった。
玲司は男の正面に座る。
机の上に置かれた資料へ、一度だけ目を落とす。
「名前」
「……」
「もう一度聞こう。名前は?」
「……」
沈黙。
玲司は気にする様子もない。
「まあいい」
資料を閉じる。
「名前なんて、今はどうでもいい」
男が僅かに眉を動かした。
「重要なのは――」
玲司は男の目を見る。
「どうやって、ここから逃げたのかだ」
男は笑った。
「……脱獄した。それだけだ」
「そうか」
玲司は頷いた。
「なら聞こう」
指を一本立てる。
「刑務所の警備網をどうやって突破した?」
「……」
「二つ目」
二本目。
「脱走に使った船は、どうやって用意した?」
「……」
「三つ目」
三本目。
「なぜ、海上で待ち伏せしていたこちらの部隊の位置を知っていた?」
男の笑みが消えた。
玲司は見逃さなかった。
「……なるほど」
「何がだ」
「今ので十分だ」
「何が分かった?」
「お前たちだけでは脱走できなかった」
男の顔が強張る。
「刑務所の内部情報」
「船」
「逃走経路」
「そして精霊庁の動き」
玲司は淡々と並べていく。
「どれも、お前たちが独力で用意できるものじゃない」
「……」
「つまり――協力者がいる」
沈黙。
玲司は椅子へ深く腰掛けた。
「違うか?」
「……知らない」
「そうか」
玲司は怒らない。
声を荒らげもしない。
ただ、男の反応を観察している。
「なら、別の質問をしよう」
資料を一枚取り出す。
「船を手配したのは誰だ?」
「知らない」
「そうか」
もう一枚。
「刑務所内の警備情報を流したのは?」
「知らない」
さらに一枚。
「お前たちが脱走する時間を指定したのは?」
「……知らない」
「なるほど」
玲司は資料を机に置いた。
「では、お前は何を知っている?」
男は黙った。
玲司はしばらく待った。
やがて――
「……俺たちは」
男が口を開いた。
「言われた通りにしただけだ」
玲司の目が細くなる。
「誰に?」
「……知らない」
「連絡方法は?」
「知らない」
「顔は?」
「見てない」
「名前は?」
「……」
男は答えない。
玲司は、そこで初めて微かに笑った。
「徹底しているな」
「……」
「お前たちを使った奴は、相当に慎重だ」
男の表情が変わった。
「だが――」
玲司は静かに続ける。
「慎重な人間ほど、自分が安全だと思ったところに痕跡を残す」
「……何?」
「お前たちは、脱走した後にどこへ向かうよう指示された?」
「……」
男の視線が僅かに揺れた。
玲司は見逃さなかった。
「そうか」
「……何がだ」
「合流地点があったんだな」
「!」
男が息を呑む。
玲司は椅子から立ち上がった。
「場所は?」
「……言わない」
「そうか」
玲司は扉へ向かう。
「なら、別の人間に聞く」
「……!」
男が顔を上げる。
玲司は振り返った。
「お前たちは仲間だ」
「……」
「だが、命を預け合うほどの仲間ではない」
冷たい言葉だった。
「お前が黙っている間に、他の奴が話す可能性は十分にある」
「……そんなこと――」
「なら安心しろ」
玲司は淡々と言った。
「本当に誰も話さないなら、それでいい」
扉へ手を掛ける。
「こちらには時間がある」
そして――
「お前たちより、ずっと長い時間がな」
扉が閉じた。
⸻
取調室の外。
玲司は一枚の資料を受け取った。
「どうでした?」
部下が尋ねる。
「まだ入口だ」
「入口?」
「ああ」
玲司は資料を見る。
「奴らは実行犯だ」
「では――」
「問題は、その背後だ」
玲司は資料の一部分を指で叩いた。
「六年前の神代恵那誘拐事件」
その名前が出た瞬間、部下の表情が変わる。
「当時は、神代家の血筋を狙った単独犯行として処理された」
「はい」
「だが――」
玲司は静かに目を細めた。
「今回の脱走で、その前提が崩れた」
六年前。
神代恵那を狙った男。
そして今回。
刑務所から脱走した男たち。
一見すれば、別々の事件。
しかし――
「同じ匂いがする」
玲司は呟いた。
「誰かが裏で糸を引いている」
「組織、ですか?」
「ああ」
玲司は答える。
「それも――相当に大きな組織だ」
精霊庁の廊下に、靴音が響く。
玲司は歩きながら考える。
脱獄。
船。
情報。
逃走経路。
そして、合流地点。
偶然ではない。
全てが繋がっている。
「……何を狙っている?」
玲司の呟きは、誰にも届かなかった。
だが――
彼の中では、すでに一つの仮説が形になり始めていた。
六年前の事件は、終わっていなかった。
あの事件は――
まだ続いている。
⸻
その頃――
夢宮家。
「アーちゃん、メグくん。ただいまー!」
「おかえりー!」
「見て見て!」
母親が袋を掲げる。
「ペットショップでおもちゃとリード買ってきちゃった!」
「え?」
「怪我も治ったみたいだし、お散歩に行きましょう!」
アリカが雷鎌を見る。
「……お散歩?」
雷鎌は嫌そうに顔を背けた。
「……嫌なの?」
「……」
もちろん言葉にはならない。
しかし、アリカにはなぜか、
「絶対に嫌だ」
と言われたような気がした。
「大丈夫だって!」
アリカは笑う。
「楽しいよ!」
こうして――
守護精霊と少女の、奇妙な共同生活が始まった。
⸻
一方。
夕暮れの公園。
そこには、犬を連れた人々が集まっていた。
犬たちにとっては、飼い主たちの知らない「社交場」でもある。
その中で――
雷鎌は妙に目立っていた。
「おうおう、見ない顔だな」
一匹の大型犬が近づいてくる。
「どこの犬種じゃ、われ」
「……」
雷鎌は無言。
「おい、アニキが質問してるだろーが!」
「わん!」
「キャンキャン!」
「ガルルル……!」
何やら犬たちの間で騒ぎが始まる。
飼い主たちは、
「あらあら」
「まあまあ」
と微笑ましく眺めていた。
その一方で――
人間たちの知らない世界では。
小さな守護精霊を巡る物語と。
六年前から続く巨大な陰謀が。
それぞれ別の場所で、静かに動き始めていた。




