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003 【小さな迷子】



 それは、恵那たちが中学校へ入学して間もない頃のことだった。


 まだ春の匂いが残る放課後。


 校舎の裏手には、夕暮れの長い影が伸びていた。


 人の気配はほとんどない。


 そんな場所を、一匹の小さな生き物が必死に走っていた。


 イタチに似た姿。


 しかし、普通の動物とは明らかに違う。


 その身体には血肉の気配がなく、淡い光の粒子が輪郭を形作っている。


 その粒子も、今は弱々しく明滅していた。


 ――傷ついている。


 その小さな存在は、何度も振り返る。


 背後から迫る黒い霧。


 悪霊。


 そして、その霧の中には低級妖怪の気配も混じっていた。


 逃げなければ。


 けれど――


 もう、力が残っていない。


 小さな身体がふらついた。


「……!」


 そのまま地面へ倒れ込む。


 ここまでだった。


 そう思った、その時。


「怪我してるの?」


 少女の声がした。


 顔を上げる。


 そこに立っていたのは――


 夢宮アリカだった。


「大丈夫?」


 アリカはしゃがみ込む。


 目の前にいる生き物が何なのか、彼女には分からない。


 ただ、傷ついている。


 それだけは分かった。


「……」


 恐る恐る手を伸ばす。


 小さな身体を抱き上げる。


「軽い……」


 けれど、不思議だった。


 確かに身体がある。


 体温も感じる。


 なのに――


 血が流れていない。


「……幽霊?」


 アリカは首を傾げた。


 その瞬間。


 ――ぞわっ。


 背後から、禍々しい気配が押し寄せる。


「……え?」


 振り返る。


 黒い霧が、こちらへ向かってくる。


「な、何……?」


 アリカは小さな生き物を抱きしめる。


 恐怖で目を閉じた。


 黒い霧が迫る。


 そして――


 その時だった。


 ふわり、と。


 優しい気配がした。


「……?」


 アリカは目を開けた。


 赤い粒子が舞っている。


 炎のように揺らめく、無数の赤い光。


 その向こうに――


 一人の少女が立っていた。


「……神代さん?」


 恵那だった。


 だが、恵那は気付いていない。


 自分が見られていることに。


 恵那は目の前の悪霊を見据える。


 ――まずい。


 アリカがいる。


 ここで正体を見せるわけにはいかない。


 恵那は一瞬で判断した。


 次の瞬間――


 全身を炎が包み込んだ。


「……!」


 アリカが息を呑む。


 炎。


 少女の身体を覆うほどの炎。


 しかし――


 制服は燃えていない。


 髪も。


 肌も。


 何一つ傷ついていない。


 炎だけが、恵那の身体を覆っていた。


 精霊術。


 術者の技量が高ければ、火を自在に操りながら、燃やす対象だけを選ぶことができる。


 恵那はその力を使い――


 地面を蹴った。


「――!」


 一瞬だった。


 赤い粒子が弾ける。


 恵那の姿が、アリカの横を駆け抜ける。


 すれ違いざま。


 悪霊に炎が触れた。


 ――ゴウッ!


 黒い霧が一瞬で赤く染まる。


 悪霊の気配が消滅した。


 そして。


 恵那はそのまま走り去った。


 炎も消える。


 残されたのは――


 静寂だけだった。


⸻


 アリカは、しばらく動けなかった。


「…………」


 今、何が起きた?


 炎。


 少女。


 黒い霧。


 そして――


 自分を助けてくれた神代恵那。


「……夢?」


 頬をつねる。


「痛い」


 夢ではない。


 アリカは腕の中を見る。


 小さなイタチのような生き物が、苦しそうに震えている。


「……」


 アリカは眉を寄せた。


 頭の中には疑問が山ほどあった。


 けれど――


「そんなことより……」


 今は、この子を助ける方が先だった。


「大丈夫だからね」


 優しく抱きしめる。


「家に帰ろう」


 血は流れていない。


 それでも、確かに傷ついている。


 目の前で苦しんでいる命を見捨てる理由なんて、アリカにはなかった。


⸻


 一方。


 恵那は学校から少し離れた場所まで走っていた。


「……はぁ」


 立ち止まり、後ろを振り返る。


 誰も追ってきていない。


「……気付かれた?」


 恵那は考える。


 そして――


「……まさか」


 頭の中に、先ほどの少女の顔が浮かんだ。


 夢宮アリカ。


 昼間に話していた、あの少女。


「アリカが……見鬼の才の持ち主だったなんて」


 恵那は驚きを隠せない。


 そして、もう一つ。


「あのイタチ……」


 目を閉じる。


 記憶を辿る。


 以前、自分が関わった事件。


 その中で見た、小さな守護精霊。


「……あの時の守護精霊だよね?」


 確信に近いものがあった。


 なぜ、ここにいる?


 なぜ傷ついている?


 なぜアリカが抱いている?


 疑問は尽きない。


「……様子を見るべきかな」


 すぐに引き離すという選択肢もある。


 しかし――


 アリカは明らかにイタチの様な守護精霊を心配していた。


 恵那は小さく息を吐く。


「……精霊殿の巫女様に相談しよう」


 今の自分だけで判断するべきではない。


 そう考え、恵那は帰宅することにした。


⸻


 一方、その頃。


 アリカは自宅へ戻っていた。


「……どうしよう」


 ベッドの上に小さな生き物を寝かせる。


 改めて見ると、やはり不思議な生き物だった。


「幽霊……だよね?」


 しかし、触れば体重がある。


 体温もある。


 包帯を巻くこともできる。


 なのに――


 血が出ない。


「うーん……」


 アリカは首を傾げた。


 さらに妙なことがある。


 家まで運んでいる間、ずっと身体から何かを吸われているような感覚があった。


「……まさか」


 アリカは真剣な顔になる。


「寿命とか吸われてないよね?」


「何バカなこと言ってるのさ」


「え?」


 振り返る。


 そこにいたのは、アリカの弟だった。


 冷蔵庫から鶏肉を取り出している。


「ほら」


「何?」


「食べさせてみれば?」


 弟は千切った鶏肉をイタチのような生き物の前へ置いた。


 すると――


 その小さな生き物がゆっくりと顔を上げる。


 そして。


 ぱくっ。


「……食べた」


「幽霊なのに食べるんだ」


「お供物だと思えばいいんじゃない?」


 弟は平然としている。


「……」


 アリカは弟を見る。


「ねえ」


「何?」


「恵には見えてるんだよね?」


「そうだね」


 弟は淡々と答える。


「はっきり見えてる」


「……」


 アリカは目を丸くする。


「じゃあ、やっぱり幽霊じゃないの?」


「知らないよ。僕だってそんなに詳しくないし」


 弟は再び鶏肉をイタチのような生き物へ差し出す。


 小さな生き物はそれを食べる。


 少しだけ元気を取り戻したようだった。


「でもさ」


 弟が言う。


「アリカは、考えなしに動くからいつも後で後悔するんだよ」


「……」


 何も言い返せない。


「今回だって、何も考えずに拾ってきたんでしょ?」


「だって……」


 アリカは小さな生き物を見る。


「苦しそうだったから」


「そういうところなんだよ」


「何が?」


「アリカの悪いところ」


「ひどい!」


 弟はため息をついた。


「でも、もう拾ったんだから仕方ない」


「え?」


「もうすぐ母さん帰ってくるんでしょ?」


「うん」


「ペットを飼ってもいいか、自分で聞いてよね」


「でもでも……ママとパパに迷惑をかけたくないし……」


 すると弟は呆れた顔をした。


「超能天気な両親が、そんなことを気にする姿を想像できないんだけど」


「……」


「アリカは昔のことを気にしすぎなんだよ」


「恵……」


 アリカは弟を見つめる。


「私は弟がドライすぎて、学校でうまくやってるのか心配になってきたわ」


「余計なお世話」


「あと、本当に私と血が繋がってるのかも怪しくなってきた」


「それは僕も同意見だけど」


「えっ」


「家族の平和のために、絶対に本人たちには聞かないでよ?」


「……もう!」


 姉弟のやり取りを横目に、イタチのような生き物は鶏肉を食べ続けている。


 そして――


 ほんの少しだけ、その身体を覆う粒子が強くなった。


 アリカはそれに気付かない。


 だが、弟は気付いていた。


「……少し元気になったみたいだね」


「本当?」


「うん」


 アリカは嬉しそうに笑った。


「よかった……」


 その笑顔を見ながら、弟は何も言わなかった。


 姉は昔からそうだった。


 考えるより先に誰かを助ける。


 自分が傷つくことより、目の前で誰かが傷つくことを嫌がる。


 だから――


「……まあ、アリカらしいけど」


 弟は小さく呟いた。


⸻


 その夜。


 アリカはベッドの横で眠っている小さな生き物を見つめていた。


「……君はいったい、何なの?」


 イタチのような生き物は答えない。


 ただ静かに眠っている。


 アリカは昼間の光景を思い出す。


 赤い粒子。


 炎に包まれた少女。


 そして――


 自分を助けてくれた神代恵那。


「……神代さん」


 あのとき見えたものは、夢ではなかった。


 自分の中で何かが変わっている。


 そして――


 アリカはまだ知らなかった。


 自分の腕の中で眠る小さな存在が、ただの「幽霊」ではないことを。


 それが――


雷鎌と呼ばれる、カマイタチ型の守護精霊であることを。


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