002 【新しい日常】
春。
柔らかな陽射しが、精霊殿の境内を包んでいた。
桜の花びらが風に舞い、古い社殿の屋根へと静かに降り積もっている。
その朝。
「恵那ちゃん、ちょっと腕を通してみて」
「はい」
神代恵那は、真新しい制服に袖を通していた。
紺色のブレザー。
白いシャツ。
そして、新しい制服に合わせたスカート。
鏡の前に立つ少女は、少しだけ緊張した面持ちで自分の姿を見つめている。
「……変じゃないですか?」
「ふふ。全然変じゃないわよ」
背後から声を掛けたのは、天城美和だった。
恵那の襟元を整え、髪を軽く直す。
「とても似合ってる」
「……ありがとうございます」
恵那は小さく微笑んだ。
以前なら、こうして誰かに身支度を手伝ってもらうことさえ、戸惑っていたかもしれない。
けれど今は違う。
天城家の人々は、いつの間にか恵那にとって「家族」と呼んでもいい存在になっていた。
「今日は啓太君も来るんでしょう?」
「……はい」
恵那の声が、ほんの少しだけ弾む。
それを聞いた美和は、微笑ましそうに笑った。
「楽しみね」
「……はい」
恵那は鏡の中の自分を見つめる。
今日から――
自分も中学生になる。
入学式
校門前。
新入生や保護者たちで賑わう中、恵那は少し離れた場所に見覚えのある姿を見つけた。
「恵那!」
「……啓太くん」
制服姿の啓太が手を振っている。
つい先日、啓太自身も新たな学校生活を始めたばかりだった。
精霊使いを育成する国立の教育機関――精霊塾。
その高等部へ進級した啓太は、学生でありながら一線での活動も許されている。
そんな少年が、今日はわざわざ恵那の入学式に駆けつけていた。
「入学おめでとう!」
「……ありがとう」
「緊張してる?」
「少しだけ」
「大丈夫だって。恵那なら」
「……根拠は?」
「なんとなく」
「……もう」
恵那は呆れたように言いながらも、笑っていた。
その笑顔を見て、啓太も嬉しそうに笑う。
「じゃあ、行こう」
「うん」
二人は並んで校門をくぐった。
そして、入学式。
新入生代表として壇上に立った少女を見て、啓太は目を丸くした。
「……え?」
マイクの前に立っているのは――
恵那だった。
「新入生代表、神代恵那さん」
名前を呼ばれ、恵那が一歩前へ出る。
落ち着いた声で、新入生代表の挨拶を述べる。
その姿は堂々としていた。
式が終わると、啓太は恵那に駆け寄った。
「恵那、代表だったの!?」
「……言ってなかった?」
「聞いてない!」
「そうだっけ」
「そうだよ!」
恵那は少しだけ悪戯っぽく笑った。
「……驚いた?」
「そりゃ驚くよ!」
そんな二人を、美和は少し離れたところから微笑ましそうに眺めていた。
天城家・入学祝い
その日の夜。
天城家では、啓太と恵那の新生活を祝うホームパーティーが開かれていた。
「入学おめでとう!」
「おめでとう、二人とも」
家族から祝福され、恵那は少し照れたように頭を下げる。
「ありがとうございます」
食事を終えたところで、啓太が小さな箱を差し出した。
「恵那。これ」
「……?」
開けてみる。
中に入っていたのは、化粧水や乳液などが入ったフェイスケア用品のセットだった。
「中学生になったし、こういうのも必要かなって」
「……私に?」
「うん」
恵那はしばらく箱を見つめる。
「……ありがとう」
大切そうに胸へ抱える。
「じゃあ、私からも」
「え?」
今度は恵那が何かを取り出した。
手作りの御守り。
そして、もう一つ。
「パスケース」
「これ、作ったの?」
「うん」
啓太は目を輝かせる。
「すごい……!」
「気に入った?」
「もちろん!」
その言葉を聞いて、恵那は嬉しそうに微笑んだ。
その夜。
恵那は天城家に泊まった。
新しい制服。
新しい学校。
新しい生活。
そして――
変わらない、大切な人たち。
恵那にとって、その夜は忘れられない一日になった。
第二章・第一話
新しい友達
数日後。
恵那は一人で中学校へ向かっていた。
校門をくぐり、掲示板へ向かう。
「……一年三組」
自分の名前を見つける。
教室へ向かうと、既に何人かの生徒が集まっていた。
最初は少し緊張していた。
けれど――
「ねえ、神代さんってどこから来たの?」
「この学校、初めて?」
「部活どうする?」
気付けば、三人の女子生徒と話をしていた。
「神代さんって、普段何してるの?」
「私は……精霊殿で暮らしてるの」
「精霊殿ってあの神社みたいなところ?」
「うん。巫女をしてる」
「えっ!?」
三人が一斉に目を輝かせた。
一般人にとって精霊殿とは、いわゆる神社のようなもの。
巫女として暮らしているという恵那の話は、それだけで珍しかった。
「じゃあ、幽霊とか見えるの?」
「幽霊?」
「うん! 本当にいるの?」
三人の視線が集まる。
恵那は一瞬だけ考えた。
――一般人。
彼女たちは精霊や妖怪について、存在を信じている程度。
ならば、余計なことを話す必要はない。
「妖精とか幽霊とか……そういうのって、夢があっていいよね」
「おおー」
「神代さん、乙女チック!」
「ふふ」
嘘ではない。
しかし、本当のことも言っていない。
そのときだった。
「そういえば私、小学生の頃は霊感少女って言われてたんだよね」
「あったわねぇ。そんな時代も」
「あれが私たちの友情の始まりだったね」
「今となっては、笑い話だよ」
少女は笑って誤魔化した。
しかし――
恵那の目だけが変わった。
――見えないものが見えていた?
偶然だろうか。
それとも――
恵那は少女をじっと見る。
少女は何も知らないように友人たちと笑っている。
恵那は、あえて何も言わなかった。
ただ胸の奥に、小さな疑問を残した。
――この子。
もしかしたら……。
放課後
放課後。
生徒たちが帰り始めた校舎。
恵那も帰ろうとしていた。
そのときだった。
「……?」
足が止まる。
空気が――おかしい。
微かな違和感。
普通の人間なら気付かない程度のものだった。
しかし、見鬼の才を持つ恵那には分かった。
――妖気。
「……何?」
恵那は周囲を見渡した。
気配は校舎の奥から漂っている。
恵那は足音を殺しながら、その方向へ向かった。
廊下を曲がる。
階段を下りる。
そして、校舎裏へ続く角まで来たところで――
「……!」
恵那は足を止めた。
そこにいたのは――
昼間、一緒に話していた少女だった。
「……怖い……」
少女は、小さな動物を抱きしめている。
イタチのような姿をした小動物だった。
その周囲を――
黒い靄が覆っている。
ただの煙ではない。
生き物のように蠢きながら、少女へじわじわと迫っている。
「……悪霊」
恵那は小さく呟いた。
すぐに助けに行こうとした。
だが――
恵那は思いとどまった。
少女の前に姿を現せば、悪霊の注意が自分に向く。
それだけならいい。
しかし、少女が巻き込まれる可能性もある。
「……」
恵那は静かに物陰へ身を隠した。
まずは様子を見る。
悪霊の動き。
少女の位置。
逃げ道。
周囲に他の人間がいないか。
一つずつ確認していく。
「来ないで……」
少女が後ずさる。
黒い靄が迫る。
恵那は拳を握った。
――このままじゃ危ない。
恵那は周囲を見渡す。
悪霊との距離。
少女との距離。
逃げ道。
そして、自分が動いた場合の位置関係。
頭の中で瞬時に状況を組み立てる。
争いは嫌いだ。
できることなら、こんなものと戦いたくなどない。
それでも――
目の前で誰かが傷つくのを、黙って見ていることはできなかった。
「……私が、なんとかする」
恵那は小さく呟いた。
そして物陰から、ゆっくりと移動を始める。
正面には出ない。
少女から悪霊の注意を逸らさない。
死角へ回り込み、隙を見て祓う。
――一撃で終わらせる。
それが恵那の判断だった。
だが、その瞬間――
「……え?」
少女が突然、顔を上げた。
何かを感じ取ったように、目を見開く。
その視線の先には――
恵那の周囲に漂う淡い光。
そして、その向こう側に存在する――
今まで少女には見えていなかったもの。
「……何、あれ……?」
少女の目に、初めて霊的な世界が映り始めていた。
恵那はまだ、それに気付いていない。
ただ目の前の悪霊だけを見据えている。
そして――
少女の腕の中で、小動物が怯えたように身を縮めた。
黒い靄が、再び蠢く。
恵那の瞳が鋭くなる。
「……今」
足に力を込める。
次の瞬間。
物陰から少女の死角を縫うように、恵那が飛び出した。
――二人の少女の運命が交差する。
この出会いが、恵那にとって中学校生活で初めてできる――
本当の友人との物語の始まりだった。




