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LIBERAL ONLINE  作者: Guri
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湯気の向こうの約束

 

 フィリックスが水を汲みに出ている間、

 湊は台所の小さな窓を少しだけ開けた。


 外から入ってくる風はまだ冷たさを残していたけれど、

 畑で土を触った後の手には心地よく、湊は袖をまくりながら、

 籠の中に集めた薬草をひとつずつ木の板の上へ並べていった。


 鎮静草は、乾いた葉を少しだけ。


 香りの強い青葉は、苦味が出すぎないように細かく刻む。


 星葉草はまだ小さすぎるから、

 今日は使わずに根を傷つけないよう土へ戻すつもりだった。


 以前なら、こうした作業は当たり前のように毎日していた。


 薬草の状態を見て、何を煎じるかを考え、

 必要ならポーションの材料も少しずつ揃えていく。


 けれど今は、一枚の葉を手に取るたびに、

 湊の胸の中へ小さな感慨が広がった。


 自分はもう一度、この家の台所に立っている。


 もう一度、フィリのために何かを作ろうとしている。


 それが嬉しくて、少しだけ怖かった。


 幸せな時間は、いつも静かに過ぎていく。


 だからこそ、

 目の前にあるものをちゃんと大切にしなければならないと、

 湊は以前よりも強く思うようになっていた。


 鍋に水を入れ、火にかける。


 湯が温まるまでの間に、

 湊は棚の奥から干してあった豆を取り出し、小さな器へ移した。


 長い間使われていなかった食材は多くなかったけれど、

 昨日、家の中を探して見つけたものと、

 朝に畑の端で摘んだものを合わせれば、

 二人分の簡単な食事にはなる。


 そこへ、玄関の扉が開く音がした。


「ただいま」


 低い声が、居間の方から聞こえた。


 湊は、手を止めた。


 胸の奥が、ふわりと温かくなる。


 何度も聞いた言葉だった。


 けれど、その声は、

 あまりにも大切で、湊はすぐには返事ができなかった。


「……おかえり」


 ようやく出た声は、少しだけ小さかった。


 それでもフィリックスには届いたらしい。


 台所の入口に姿を見せた彼は、

 桶を片手に持ったまま、湊を見つめていた。


「何を作ってる」


「スープ。畑に残ってた薬草を少しだけ使ってみようと思って」


「苦くないか」


「たぶん大丈夫」


 湊が笑うと、フィリックスは少しだけ眉を寄せた。


「たぶん、なのか」


「味見してみてから決めよう」


「お前が先に飲め」


 以前なら、少し困ったように笑いながら言っていた言葉だった。


 けれど今のフィリックスは、本当に心配している。


 湊が何かを口にすることさえ、まだ不安なのだろう。


 湊は、そんな彼の気持ちを分かっていた。


「うん。ちゃんと僕が先に飲むね」


 フィリックスは、少しだけ安心したように頷いた。


 それから桶を置き、自然な動きで湊の隣へ立った。


「何をすればいい」


「えっと……豆を洗ってもらってもいい?」


「ああ」


 フィリックスは、湊から器を受け取った。


 大きな手で豆を洗う姿は、少しだけ不思議だった。


 剣を握り、魔物と戦い、

 遠い国まで一人で歩いてきた人が、

 今は小さな豆をこぼさないように、

 真剣な顔で水の中をかき混ぜている。


 湊は、思わず笑ってしまった。


 フィリックスが顔を上げる。


「どうした」


「ううん。フィリ、すごく真剣だなって」


「こぼしたら困るだろ」


「そうだけど」


 湊は、肩を揺らしながら笑った。


「なんだか、嬉しいなって思っただけ」


 フィリックスは、少しだけ目を伏せた。


 その横顔には、以前のような穏やかさが、

 ほんの少しだけ戻り始めていた。


「……俺も」


「え?」


「こういうのは、悪くない」


 短い言葉だった。


 けれど、

 湊はそれを聞いて、胸の奥がいっぱいになった。


 フィリックスは、ずっと遠くを歩いてきた。


 何かを探すためだけに。


 失ったものを取り戻すためだけに。


 その彼が今、豆を洗いながら、

 こういう時間は悪くないと言ってくれる。


 それはきっと、ただの食事の準備ではなかった。


 ここに帰ってきたことを、

 少しずつ受け入れ始めている証のように思えた。


 鍋の中で湯が沸き始める。


 湊は刻んだ薬草と豆を入れ、木の匙でゆっくりと混ぜた。


 香りが、台所の中へ広がっていく。


 苦味のある薬草の香りに、豆の柔らかな匂いが混じる。


 フィリックスは、

 その香りを吸い込むように、少しだけ目を閉じた。


「……懐かしい」


「うん」


「お前が、よく作ってた」


「フィリが怪我した時とか、疲れてる時とかね」


「いつも、俺の分を多く入れてた」


 湊は、少しだけ照れたように笑った。


「フィリはたくさん動くから」


「お前も食べろ」


「食べるよ」


「ちゃんと」


「うん。ちゃんと」


 フィリックスは、湊の返事を聞いても、

 しばらくこちらを見ていた。


 けれどやがて、少しだけ安心したように視線を鍋へ戻した。


 スープができあがる頃には、

 居間のテーブルにも柔らかな光が差し込んでいた。


 二人分の器を並べ、

 湊はいつものように、フィリックスの前へ少し多めに注いだ。


 フィリックスはそれを見て、何も言わなかった。


 ただ、湊の器へも

 同じくらい入っていることを確かめてから、

 ようやく椅子に座った。


「いただきます」


 湊が言うと、フィリックスも少し遅れて口を開いた。


「……いただく」


 一口飲んだフィリックスは、すぐには何も言わなかった。


 湊は少しだけ不安になって、彼の顔を見る。


「どう?」


 フィリックスは、もう一口飲んだ。


 それから、ゆっくりと頷いた。


「苦くない」


「よかった」


「……うまい」


 その言葉に、湊の顔がぱっと明るくなった。


「本当?」


「ああ」


「前より上手くできたかも」


 湊が嬉しそうに言うと、フィリックスは少しだけ目を細めた。


「前も、うまかった」


「そうかな」


「そうだ」


 以前なら、フィリックスは

 もっとぶっきらぼうに言っていたかもしれない。


 けれど今は、確かめるように、

 言葉を選ぶようにして伝えてくれる。


 湊は、その変化が少しだけ切なくて、

 同時にとても嬉しかった。


 食事の途中、フィリックスは何度か湊を見た。


 湊がスープを飲むこと。


 パンをちぎること。


 何気なく髪を耳へかけること。


 そんな小さな仕草を、目に焼き付けるように見ていた。


 湊は気付いていた。


 けれど、何も言わなかった。


 ただ、時々目が合うと、安心させるように微笑んだ。


 食事を終えた後、湊は器を片付けようとした。


 すると、フィリックスがすぐに立ち上がった。


「俺が洗う」


「でも、フィリは畑も手伝ってくれたし」


「いい」


「……一緒にやる?」


 湊がそう言うと、フィリックスは少しだけ迷ってから頷いた。


 二人は並んで、水桶のそばに立った。


 湊が器を洗い、フィリックスがそれを布で拭く。


 ただそれだけのことなのに、不思議なくらい心が落ち着いた。


 湊が器を渡すと、

 フィリックスは必ず指先が触れないように受け取ろうとしていた。


 けれど、何度か繰り返すうちに、湊の指が彼の手の甲に触れた。


 フィリックスの動きが止まる。


 湊も、少しだけ息を止めた。


 けれど、フィリックスは手を引かなかった。


 むしろ、湊の指先をそっと包み込むように握った。


 水の音だけが、しばらく二人の間に流れていた。


「フィリ?」


 湊が呼ぶと、フィリックスは湊の手を見つめたまま言った。


「……こういうことも」


「うん」


「また、できるんだな」


 湊は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 何気ない食事。


 一緒に器を洗うこと。


 触れた手を握ること。


 十年前には、当たり前のようにそこにあったものが、

 フィリックスにとっては、もう二度と戻らないと思っていたものだった。


 湊は、そっと指を絡めた。


「できるよ」


 フィリックスは、ゆっくりと顔を上げた。


 湊は、まっすぐに彼を見つめていた。


「これから、何回でも」


 フィリックスの目が、少しだけ揺れた。


 それから彼は、

 湊の手を強く握りすぎないように気を付けながら、

 ゆっくりと握り返した。


「……ああ」


 午後になれば、畑の続きを少しだけやる。


 夕方になれば、暖炉に火を入れて、温かい食事を作る。


 夜になれば、同じ寝台で眠る。


 そんな予定を、湊は心の中で静かに並べた。


 どれも特別なことではない。


 けれど、フィリックスと一緒なら、

 どれもが大切な約束のように思えた。


 湊は、繋いだ手を見つめながら、少しだけ笑った。


「午後は、畑の端に新しい種を蒔こうか」


 フィリックスは、湊の言葉を聞いて、ゆっくりと頷いた。


「何の種だ」


「前に、フィリが好きだって言ってくれた、白い花の薬草」


「……月白草か」


「覚えてたんだ」


「忘れるわけない」


 フィリックスの声は静かだった。


 けれど、その言葉には、

 長い時間を越えてきた人の重さがあった。


 湊は、少しだけ目を伏せた。


 それから、フィリックスの手を握ったまま、そっと言った。


「じゃあ、また一緒に育てよう」


 フィリックスは、しばらく答えなかった。


 やがて、ほんの少しだけ笑った。


「……ああ」


 その笑顔はまだ小さかった。


 けれど、湊には、それだけで十分だった。


 二人のこれからは、まだ始まったばかりなのだから。





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