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LIBERAL ONLINE  作者: Guri
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戻ってきた手触り

 

 フィリックスが目を覚ました時、

 最初に感じたのは、柔らかな温かさだった。


 長い間、眠りから目を覚ますたびに、

 彼はすぐに身体を起こしていた。


 野営地なら、火が消えていないかを確かめるために。


 宿なら、荷物が残っているかを確認するために。


 そして、辺境の家なら。


 目を開けた瞬間に、

 またミナトがいないことを思い知らされる前に、

 できるだけ早く寝台を離れるために。


 けれどその朝は、違った。


 頬の近くに、懐かしい匂いがあった。


 乾いた薬草と、石鹸と、

 暖炉の煙がほんの少し混じった、ミナトの匂い。


 フィリックスは、すぐには目を開けられなかった。


 開けたら消えているかもしれない。


 夢の中でだけ、何度も会えた。


 声を聞いて、手を握って、

 もう大丈夫だと思った瞬間に、目が覚めればいつも一人だった。


 だから、怖かった。


 けれど、握っていた手の中に、確かな温もりがあった。


 指先に触れる細い指が、眠っている間もずっとそこにあった。


 フィリックスは、ゆっくりと目を開けた。


 すぐ隣で、湊が眠っていた。


 少しだけ乱れた髪が頬にかかり、穏やかな寝息が聞こえる。


 その姿は、あまりにも静かで、あまりにも変わらなかった。


 十年という時間が、

 自分だけを遠くへ連れて行ってしまったのではないかと思うほどに。


 フィリックスは、しばらく湊の顔を見つめた。


 触れたいと思った。


 けれど、起こしてしまうのが怖かった。


 眠っている湊を見ていると、

 また急にいなくなってしまうのではないかという恐怖が、

 胸の奥からゆっくりと顔を出す。


 それでも、何もしないでいることもできなかった。


 フィリックスは、そっと空いている手を伸ばした。


 湊の頬にかかった髪を、指先で静かに払う。


 触れた肌は温かかった。


 確かに、生きている人の温度だった。


 その瞬間、フィリックスの喉の奥が詰まった。


 十年間。


 何度も、触れたかった。


 何度も、名前を呼びたかった。


 けれど、どこにもいなかった。


 探しても、探しても。


 目の前にいるはずのない人が、今は自分の隣で眠っている。


 フィリックスは、唇を噛んだ。


 声を出せば、何かが壊れてしまいそうだった。


「……フィリ?」


 小さな声がして、フィリックスははっとした。


 湊がゆっくりと目を開けていた。


 まだ眠たそうな瞳が、すぐにフィリックスを見つける。


 そして、柔らかく笑った。


「おはよう」


 その一言に、フィリックスはしばらく答えられなかった。


 ただ、湊の手を少しだけ強く握る。


 湊は、その力に気付いたのか、同じように握り返した。


「……おはよう」


 ようやく返した声は、低く、少し掠れていた。


 湊は、フィリックスを見つめたまま、そっと言った。


「ちゃんと眠れた?」


 フィリックスは、少しだけ迷ってから頷いた。


「……途中で、何度か起きた」


「怖かった?」


 その問いに、フィリックスはすぐには答えなかった。


 けれど、湊の前ではもう、

 何でもないふりをすることができなかった。


「……お前がいないと思った」


 湊の表情が、少しだけ曇る。


 フィリックスは、その顔を見て、慌てるように続けた。


「違う。今はいないと思ってない」


「うん」


「ただ、身体がまだ……そう思う」


 湊は、ゆっくりと頷いた。


「そうだよね」


 責めることも、困ったように笑うこともせず、

 ただ受け止めてくれる声だった。


「急に、平気にはならないよね」


 フィリックスは、湊を見つめた。


「……お前は」


「うん?」


「俺が、何度も確かめても」


 言葉を探すように、少しだけ黙る。


「嫌にならないのか」


 湊は、少し驚いたように瞬きをした。


 それから、すぐに首を横に振った。


「ならないよ」


 その答えは、とても自然だった。


「フィリが安心できるなら、何度でも確かめて」


 湊は、繋いだ手を持ち上げて、

 フィリックスの手の甲へ頬を寄せた。


「僕も、フィリが隣にいること、何度でも確かめたいから」


 フィリックスは、目を伏せた。


 湊の頬に触れている自分の手が、少し震えている。


 けれど、その震えを隠そうとはしなかった。


「……分かった」


 短い返事だった。


 けれど、その声には、

 昨日よりも少しだけ柔らかさがあった。


 二人が寝台を出た頃には、窓の外はすっかり明るくなっていた。


 湊は居間へ向かい、暖炉の火がまだ残っていることを確かめる。


 フィリックスも、そのすぐ後ろをついてきた。


 湊が薪を足そうとすると、フィリックスが先に手を伸ばした。


「俺がやる」


「ありがとう」


「……危ないから」


 昔と変わらない言い方に、湊は少しだけ笑った。


「大丈夫だよ」


「分かってる」


 フィリックスは、薪を暖炉へ入れながら答えた。


「でも、俺がやりたい」


 湊は、その言葉を聞いて、何も言わずに頷いた。


 フィリックスが何かをしてくれることは、

 ただの手伝いではないのだろう。


 自分がここにいることを、暮らしの中で確かめたいのだ。


 以前のように、湊のそばで役に立ちたいのだ。


 湊は、そんな彼の気持ちが嬉しかった。


 朝食の後、二人は家の中を少しずつ片付け始めた。


 昨日、湊が急いで整えた場所もあったけれど、

 十年近く人が住んでいなかった家には、

 まだ手を入れるべきところがたくさん残っていた。


 棚の上には薄い埃が積もり、窓辺の布は少し色褪せている。


 使われなくなっていた器の中には、細かな砂埃が入り込んでいた。


 けれど、フィリックスは一つひとつを丁寧に扱った。


 棚に並んだ小物を手に取るたび、彼の指は少しだけ止まる。


 窓辺の鳥の置物。


 湊が見つけた、青い石の欠片。


 フィリックスが遠い街で買ってきた、小さな木彫りの獣。


 二人で集めたものが、十年前のまま残っている。


「これ」


 湊が、棚の奥から小さな瓶を取り出した。


 中には、色の薄くなった花びらが入っていた。


「覚えてる?」


 フィリックスは、瓶を見つめた。


「……春の谷で拾った」


「うん。フィリが、

  捨てるのはもったいないって言ったんだよ」


「お前が気に入ってたからだ」


「そうだった?」


 湊が笑うと、フィリックスは少しだけ目を細めた。


 その表情は、ほんの一瞬だった。


 けれど、湊は見逃さなかった。


 十年前のフィリックスが、少しだけ戻ってきたような気がした。


 二人は、棚を拭いた。


 小物を一つずつ戻した。


 湊が置き場所に迷えば、フィリックスが「そこがいい」と言った。


 フィリックスが何も言わずに手を止めれば、

 湊は急かさずに隣にいた。


 話さなくてもいい時間が、少しずつ増えていった。


 昼が近付く頃、湊は窓辺の鳥の置物を手に取った。


 小さな木彫りの鳥は、十年前と変わらず、窓の外を向いていた。


「この子も、ずっとここにいたんだね」


 フィリックスは、その隣へ立った。


「……置いていけなかった」


「うん」


「家に戻るたびに、ここを見た」


 フィリックスの声は、静かだった。


「お前が、窓の外を見ながら触ってたから」


 湊は、鳥の置物をそっと元の場所へ戻した。


 胸の奥が、きゅっと痛くなった。


 フィリックスは、自分がいない家の中で、

 どれほどのものを見つめてきたのだろう。


 自分の代わりに、どれほどの思い出を抱えてきたのだろう。


 湊は、そっとフィリックスの袖を掴んだ。


「これからは、一緒に見よう」


 フィリックスは、すぐには答えなかった。


 窓の外を見たまま、しばらく黙っている。


 それから、ゆっくりと湊の手を取った。


「……ああ」


 その返事には、まだ少しだけ震えがあった。


 けれど、そこには確かな願いがあった。


 二人は窓辺に並んで立った。


 外には、風に揺れる草と、

 少しずつ手入れを戻していかなければならない、

 薬草畑が広がっている。


 十年前と同じ景色ではない。


 けれど、

 二人がまた歩いていくための場所としては、十分だった。


 湊は、フィリックスの手を握った。


 フィリックスは、今度は迷わずに握り返した。


 その手の温もりを感じながら、湊は思った。


 失った時間は、戻らない。


 けれど、これから重ねる時間は、

 自分たちの手で作っていける。


 朝食を作ること。


 同じ寝台で眠ること。


 棚の小物を並べ直すこと。


 窓辺の鳥を一緒に眺めること。


 そんな小さな日々を、また少しずつ増やしていけばいい。


 フィリックスの心に残った深い傷が、

 すぐに消えることはないだろう。


 けれど、湊はその傷のそばにいたいと思った。


 何度でも、ここにいると伝えながら。


 二人は、しばらく窓辺に立っていた。


 そしてフィリックスは、

 湊の手を離さないまま、初めて自分から言った。


「……畑も、見に行くか」


 湊は、嬉しそうに頷いた。


「うん。一緒に行こう」


 その言葉に、フィリックスはほんの少しだけ笑った。


 十年ぶりに、二人は同じ扉を開けて、外へ出た。



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