隣にいる午後
湊が自分の話を終えた後も、
二人はすぐには席を立たなかった。
窓から差し込む光は、いつの間にか朝の柔らかさを越え、
居間の床へゆっくりと長い形を落としていた。
空になった器はまだテーブルの上にあり、
暖炉の火は静かに燃え続けている。
けれど、二人の間には、
言葉にしなければならないことがまだたくさん残っていた。
十年分の時間は、思い出話のように一度に並べられるものではない。
フィリックスがどんな場所を歩き、
どんな夜を越え、どれほどの回数、誰もいない家へ帰ってきたのか。
湊がいなくなったあの日の朝、彼がどれほどの恐怖を抱いたのか。
聞きたい。
聞かなければならない。
けれど湊は、フィリックスの顔を見ていると、
今、すべてを尋ねることが正しいとは思えなかった。
彼は帰ってきたばかりだった。
長い旅の埃をまとい、
外套には擦れた跡が残り、目の下には深い影がある。
食事を終えた今も、少し気を抜けば、
そのまま椅子の上で眠ってしまいそうなほど疲れているように見えた。
「フィリ」
湊が呼ぶと、フィリックスはすぐに顔を上げた。
「ああ」
その返事の早さに、湊は少しだけ胸が痛んだ。
以前のフィリックスも、
湊に呼ばれればすぐに振り向いてくれた。
けれど今の彼は、名前を呼ばれること自体を、
確かめるように受け取っている気がした。
湊は、そっと微笑んだ。
「今日は、少し休もう」
フィリックスは、すぐには答えなかった。
「……休む」
「うん。旅から帰ったばかりだし」
「まだ、行く場所を決めないと」
低い声で言った後、フィリックスは少しだけ目を伏せた。
それは、十年間繰り返してきた言葉だったのだろう。
家へ戻る。
必要なものを整える。
次に探す場所を決める。
そしてまた、ミナトを探すために出て行く。
湊が目の前にいる今も、
その習慣だけが、身体の中に残っている。
湊は、テーブルの下で繋いでいた手を、少しだけ強く握った。
「もう、探しに行かなくていいよ」
フィリックスの指が、ぴくりと動いた。
「……でも」
「僕は、ここにいるから」
湊は、ゆっくりと言った。
言葉にすると、少しだけ不思議な気持ちになった。
ここにいる。
それは当たり前のことのようでいて、
自分にはとても遠かった言葉だった。
以前は、ゲームの中にいる間だけ、ここにいられた。
現実の身体が苦しくなれば、いつか戻らなければならなかった。
そして、戻った先で自分は終わりを迎えた。
けれど今は、こうしてフィリックスの隣にいる。
手を繋ぎ、同じ暖炉の火を見て、同じ家の中で息をしている。
「だから今日は、どこにも行かないで」
湊の声は、少しだけ震えた。
「僕のそばにいてほしい」
フィリックスは、長い間、湊を見つめていた。
その目の奥には、喜びと、戸惑いと、
まだ消えない恐怖が混ざっていた。
十年も探し続けていたものを、
もう探さなくていいと言われても、すぐには信じられないのだろう。
けれど、やがて彼は小さく頷いた。
「……ああ」
その返事を聞いて、湊はほっと息を吐いた。
フィリックスは、しばらく繋いだ手を見つめていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「寝てもいいか」
湊は一瞬だけ目を瞬いた。
けれど、すぐに笑った。
「もちろん」
フィリックスは、どこか困ったように眉を寄せた。
「眠ったら、お前がいなくなる気がする」
その言葉は、あまりにも静かで、あまりにも痛かった。
湊は、椅子から立ち上がると、フィリックスの前へ回った。
そして、彼の頬へそっと手を伸ばす。
旅の風にさらされた肌は少し荒れていて、以前よりも冷たかった。
湊は、両手でその頬を包んだ。
「いなくならないよ」
フィリックスは、何も言わなかった。
「眠って、目が覚めても、僕はここにいる」
湊は、彼の目をまっすぐに見つめた。
「もし不安になったら、手を伸ばして。ちゃんと握るから」
フィリックスの喉が、わずかに動いた。
それから、彼は湊の手へ自分の手を重ねた。
「……約束か」
「うん。約束」
湊が頷くと、フィリックスは目を閉じた。
ほんの少しだけ、肩から力が抜けたように見えた。
二人は寝室へ向かった。
以前は、二人で眠るために整えた部屋だった。
窓辺には、湊が大切にしていた小さな鳥の置物があり、
棚の上には二人で集めた小物が並んでいる。
十年前と同じものもあれば、長い時間の中で少し色褪せたものもあった。
けれど、湊が昨日から少しずつ整えたことで、
部屋にはもう一度、人の暮らす温かさが戻り始めていた。
フィリックスは寝台の前で立ち止まった。
自分の家なのに、どこか入ってはいけない場所のように見ている。
湊は先に寝台へ腰を下ろし、掛け布を少し持ち上げた。
「こっち、おいで」
その言葉に、フィリックスはしばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと寝台へ腰を下ろした。
横になる時も、湊から少しだけ距離を取ろうとした。
無意識なのだろう。
長い間、誰かの隣で眠ることを忘れていたのかもしれない。
湊は、そっとその距離を埋めた。
フィリックスの手を取り、自分の胸元へ引き寄せる。
「ここにいるよ」
フィリックスは、湊の胸元へ置かれた自分の手を見つめた。
その下で、湊の心臓が規則正しく動いている。
確かな鼓動。
温かい体温。
夢ではないと伝えるための、何よりも確かなもの。
フィリックスは、震える指先で、湊の服を少しだけ掴んだ。
「……聞こえる」
「うん」
「生きてる」
湊は、胸がいっぱいになった。
「生きてるよ」
フィリックスは、ゆっくりと湊へ近付いた。
額が触れそうな距離まで近付いて、
それでも最後の一歩だけを迷うように止まる。
湊は目を閉じた。
フィリックスの額が、そっと自分の額へ触れた。
「……ミナト」
「なに?」
「目を開けた時も、いてくれ」
「いるよ」
「何度でも、言ってくれ」
湊は、目を開けた。
すぐ目の前にあるフィリックスの瞳は、
まだ不安を抱えながらも、少しずつ湊を映している。
「何度でも言うよ」
湊は、静かに答えた。
「フィリが安心できるまで、ずっと」
フィリックスは、しばらく湊を見つめていた。
それから、ようやく目を閉じた。
最初は、眠れなかった。
呼吸は浅く、身体もどこか強張ったままだった。
けれど湊が、彼の背中をゆっくりと撫で続けていると、
少しずつその呼吸が深くなっていった。
湊は何も言わなかった。
ただ、ここにいることを伝えるように、背中へ手を添えていた。
やがてフィリックスの指から力が抜け、
掴んでいた湊の服が少しだけ緩んだ。
眠ったのだ。
湊は、隣で眠るフィリックスの顔を見つめた。
十年前よりも少しだけ大人になった横顔。
けれど、眠っている時だけは、
長い旅の間に身につけた鋭さが薄れている。
本当はずっと、疲れていたのだろう。
ずっと、誰かに大丈夫だと言ってほしかったのだろう。
湊は、そっとフィリックスの髪を撫でた。
「おやすみ、フィリ」
小さく囁く。
「もう大丈夫だよ」
その言葉が本当に届いたのかは分からない。
けれどフィリックスの眉間にあった深い皺が、
ほんの少しだけほどけたように見えた。
湊は、彼の手を握ったまま、しばらく眠らなかった。
眠っているフィリックスを見ながら、十年という時間を思った。
自分がいなかった間に、彼はどれほど傷付いたのだろう。
どれほど孤独だったのだろう。
それをすべて取り戻すことはできない。
けれど、これから先の時間を、一緒に過ごすことはできる。
少しずつ、温かい食事を作る。
一緒に眠る。
家を整える。
窓辺の鳥を眺める。
そんな小さなことを、また一つずつ重ねていく。
そうしていつか、
フィリックスが眠ることを怖がらなくなる日が来ればいい。
湊は、眠る恋人の手を、もう一度そっと握り直した。
暖炉の火は、居間の向こうで静かに燃えていた。
そして、長い間止まっていた二人の時間は、
ゆっくりと、けれど確かに、もう一度動き始めていた。




