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LIBERAL ONLINE  作者: Guri
56/64

十年ぶりの朝食

 

 フィリックスは、湊を抱きしめたまま、

 しばらく動かなかった。


 暖炉の火が薪を小さく弾く音と、

 鍋の中で煮込みがゆっくりと揺れる音だけが、

 静かな居間に続いている。


 湊の背中へ回された腕は、以前よりもずっと強張っていた。


 抱きしめる力も、どこか不器用だった。


 まるで、少しでも手を緩めれば、

 自分がまたいなくなってしまうと恐れているように。


 湊は、その腕の中で目を閉じた。


 フィリックスの胸から聞こえる心臓の音は、少し速かった。


 背中に触れた手のひらには、

 旅の間にできたのだろう硬い傷や、古い傷跡の感触が伝わってくる。


 十年。


 自分にとっては、あの夜のあと、


 白い場所で過ごしたほんの短い時間の後だった。


 けれどフィリックスにとっては、何度も季節が巡り、

 数え切れない道を歩き、誰もいない家へ戻り、

 また出発することを繰り返した十年だったのだ。


 その長さを、今すぐ、すべて理解することはできない。


 けれど、彼の身体に残った傷と、痩せた頬と、

 眠れていないような目を見れば、

 どれほど苦しい時間だったのかだけは分かってしまった。


「……フィリ」


 湊が小さく呼ぶと、フィリックスの肩がわずかに揺れた。


「ああ」


 返事は、掠れていた。


 けれど、ちゃんと返ってきた。


 それだけで、湊の胸がいっぱいになった。


「お腹、空いてない?」


 あまりにもいつものような言葉だったからか、

 フィリックスは少しだけ黙った。


 湊は、彼の背中をゆっくり撫でながら続けた。


「朝ごはん、作ってたんだ。

  フィリが帰ってくるかもしれないって思って」


「……俺が」


「うん」


 湊は頷いた。


「帰ってきた時に、温かいものがあった方がいいかなって」


 フィリックスは、すぐには答えなかった。


 腕の力が、ほんの少しだけ弱くなる。


 湊を離したくない気持ちと、

 目の前にある言葉を受け止めきれない気持ちが、

 彼の中で揺れているようだった。


 やがてフィリックスは、ゆっくりと顔を上げた。


 近い距離で見るその顔は、湊が覚えていたよりも少し大人びていた。


 十年という時間が、彼の輪郭を深くしている。


 けれど、湊を見つめる瞳の奥には、あの頃と変わらない優しさがあった。


 傷付いて、疲れ切って、それでもまだ消えていない優しさだった。


「……食べる」


 フィリックスは、低く言った。


「ミナトが作ったなら」


 湊は、少しだけ笑った。


「うん。たくさん食べてね」


 二人は、ようやくゆっくりと離れた。


 けれどフィリックスの手は、湊の手を離さなかった。


 指先だけではなく、

 しっかりと手のひらを重ねるように握っている。


 湊も、その手を握り返した。


 離れたくないと思う気持ちは、自分にもあった。


 台所へ向かう間も、フィリックスは湊のすぐそばにいた。


 湊が鍋の前へ立てば、彼は少し後ろに立ち、

 何も言わずにその背中を見ている。


 以前なら、湊が振り返るたびに少し困ったように笑いながら、

 そんなに見ないでよと言ったかもしれない。


 けれど今は、何も言えなかった。


 見ていてほしかった。


 そこにいることを、何度でも確かめてほしかった。


「少しだけ待ってね」


 湊は鍋をかき混ぜながら言った。


「すぐできるから」


「……ああ」


 フィリックスの返事は短かった。


 けれど、その声は、先ほどよりも少しだけ落ち着いていた。


 湊は器を二つ並べた。


 何度も使ってきた、少し深めの木の器。


 一つは湊のもの。


 もう一つはフィリックスのもの。


 十年前と同じように、二人分を並べるだけで、胸の奥が熱くなった。


 煮込みをよそい、硬くなっていたパンを温め、香草を少しだけ散らす。


 豪華な食事ではなかった。


 けれど、湊がフィリックスのために作ったものだった。


 そしてフィリックスにとっては、

 十年ぶりに、ミナトの手から受け取る食事だった。


「どうぞ」


 湊が器を差し出すと、フィリックスはすぐには受け取らなかった。


 湯気を見つめていた。


 香草の匂いを吸い込むように、ゆっくりと息をした。


 それから、震える手で器を受け取った。


「……これ」


「うん?」


「前にも、作ってくれた」


 湊は少し考えてから、柔らかく笑った。


「疲れてる時に食べやすいかなって。覚えてた?」


「忘れるわけがない」


 フィリックスの声が、少しだけ強くなった。


 その言葉の後で、自分でも驚いたように目を伏せる。


 忘れるわけがない。


 それはきっと、食事のことだけではなかった。


 湊は何も言わず、そっと自分の器を持った。


 二人でテーブルへ座る。


 フィリックスは、

 いつものように湊の向かいへ座ろうとして、途中で動きを止めた。


 ほんの少し迷った後、湊の隣の椅子へ腰を下ろした。


 肩が触れそうな距離だった。


 湊は、そのことが嬉しかった。


「いただきます」


 小さく言うと、フィリックスも、少し遅れて同じ言葉を口にした。


 一口目を食べた瞬間、フィリックスの表情がわずかに崩れた。


 湊は、心配になって横を見る。


「……おいしくなかった?」


「違う」


 フィリックスはすぐに首を振った。


 けれど、目元が少し赤くなっていた。


「……温かい」


 その一言だけで、湊には分かった。


 十年間、フィリックスはきっと何度も食事をしてきた。


 旅の途中で、宿の料理を食べたこともあるだろう。


 街で買ったものを口にしたこともあるだろう。


 それでも、今ここで食べているものは、ただの煮込みではない。


 自分がいなくなってから、

 ずっと戻らなかった時間の一部だった。


 湊は、そっとフィリックスの手へ触れた。


「ゆっくり食べてね」


 フィリックスは頷いた。


 そして、少しずつ食べ始めた。


 最初はゆっくりだった。


 けれど、身体が食事を求めていたのか、

 いつの間にか器の中身は減っていった。


 湊は何も言わず、パンを小さくちぎって彼の器のそばへ置いた。


 フィリックスは、それを見て、ほんの少しだけ笑った。


 以前のような、柔らかな笑みではなかった。


 まだ、痛みの残る笑い方だった。


 けれど、確かにフィリックスが笑った。


 湊は、その小さな変化を大切に胸へしまった。


 食事が終わる頃には、

 暖炉の火が部屋をしっかりと温めていた。


 フィリックスは、空になった器を見つめたまま、しばらく黙っていた。


 湊は急かさなかった。


 話すことは、たくさんある。


 自分がどこにいたのか。


 なぜ戻ってきたのか。


 フィリックスが十年間、何をしていたのか。


 けれど、今すぐ、すべてを言葉にしなくてもいい。


 十年分の時間は、朝食一回で埋まるものではない。


 だからこそ、少しずつでいいと思った。


 湊は、テーブルの下で、フィリックスの手を握った。


 フィリックスは、すぐに握り返した。


「……フィリ」


「うん」


「僕のこと、探してくれてたんだね」


 その言葉に、フィリックスの指が少しだけ強くなった。


「探すしか、できなかった」


 低い声だった。


「何も分からなかった。朝になったら、お前がいなかった」


 フィリックスは、ゆっくりと息を吐いた。


「家の中も、畑も、森も探した。近くの村も、街も」


 湊は、黙って聞いていた。


「どこにもいなかった」


 その言葉には、十年前の朝の絶望が、まだそのまま残っていた。


「何かに連れて行かれたのかと思った。

  怪我をして、助けを求められない場所にいるのかと思った」


 フィリックスは、湊の手を見つめた。


「だから、探した」


「……うん」


「近くにいないなら、遠くへ行けばいいと思った」


 フィリックスの声は静かだった。


 けれど、その静かさの奥に、壊れそうなほどの疲れがあった。


「遠くへ行ってもいなかった。もっと遠くへ行っても、何もなかった」


 湊の目から、また涙がこぼれた。


 フィリックスは、それを見て、少しだけ苦しそうに眉を寄せた。


「泣くな」


「ごめんね……」


「謝るな」


 フィリックスは、すぐに言った。


 その声には、以前のような強さが少し戻っていた。


「お前が悪いわけじゃない」


 湊は首を振った。


「でも、フィリを一人にしてしまった」


「……お前は、いなくなりたくていなくなったわけじゃない」


 フィリックスは、湊の手を両手で包んだ。


「そうだろう」


 湊は、しばらく答えられなかった。


 どう話せばいいのか分からなかった。


 けれど、フィリックスには、ちゃんと伝えたかった。


「……僕、フィリとは違う世界で生まれて育ったんだ」


 湊は、ゆっくりと言った。


 フィリックスの目が、わずかに揺れる。


「小さい頃に心臓の病気を発症して、それからずっと入院生活だった。

  外を走ることも、好きなものを好きなだけ食べることも、

  当たり前みたいに誰かと遊ぶことも、あまりできなかった」


 言葉にするたび、胸の奥が少し痛んだ。


 けれど、今はもう、隠したくなかった。


「向こうの世界のゲームを通じてこの世界に来ていたんだよ」


 フィリックスは、何も言わずに聞いていた。


 湊は、握られた手の温もりを確かめるように、指先を少し動かした。


「ここでは、歩けた。走れた。外に出られた。

  風が気持ちいいって思えた。

  食べたいものを食べて、笑って、眠って……

  今まで出来なかったことが、出来るのが嬉しかった」


 声が少し震えた。


「それだけでも、すごく幸せだったのに」


 湊は、フィリックスを見た。


「フィリに会えた。フィリに会えたことが、一番幸せだった」


 フィリックスの喉が、かすかに鳴った。


 湊は、続ける。


「十年前の夜、突然通知が出たんだ。

  向こうの、現実の身体がもう長くないって、

  そういう知らせだった」


 フィリックスの瞳が、はっきりと揺れた。


「その時、分かった。ああ、もう戻らなきゃいけないんだって」


 湊は、静かに息を吸った。


「現実世界に戻ったら、すぐだった。病院のベッドで、死んじゃった」


 フィリックスの顔から、少しずつ血の気が引いていく。


 湊は、その表情を見ながらも、言葉を止めなかった。


「でも、そのあと白い場所で神様に会ったんだ。」


「神……」


「うん」


 湊は頷いた。


「そこで、この世界は実在している世界だって言われた。ただの作り物じゃないって」


 フィリックスは、息を止めたまま湊を見つめていた。


「だから、戻りたいって言った。

もう一度、ここへ。もう一度、フィリに会いたいって」


 その言葉を口にした瞬間、湊の目から涙が落ちた。


「それだけだった。最後に願ったのは、それだけだったんだ」


 フィリックスは、長い間、何も言わなかった。


 やがて、ゆっくりと湊の手を持ち上げ、自分の額へそっと押し当てた。


「……戻ってきてくれてよかった」


 その声は、ひどく小さかった。


 けれど、十年間の痛みを抱えたまま、

 それでもやっと言えた言葉だった。


 湊は、もう一度、フィリックスの手を握り返した。


「ただいま、フィリ」


 フィリックスは、目を閉じた。


 そして、掠れた声で答えた。


「……おかえり、ミナト」


 その言葉を聞いた瞬間、

 湊の胸に残っていた冷たい不安が、ほんの少しだけ溶けていった。


 二人は、しばらくそのまま、手を繋いでいた。


 窓の外では、朝がゆっくりと昼へ近付いていく。


 十年ぶりに、二人の家には、二人分の温もりが戻っていた。



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