ただいま、おかえり
次の日の朝、
湊はまだ外が明るくなりきらないうちに目を覚ました。
眠れなかった。
寝台に入ってからも、何度も目を閉じた。
けれど、瞼の裏に浮かぶのは、フィリックスの顔ばかりだった。
今、どこにいるのだろう。
この家を離れて、もう帰らない場所だと思っているのだろうか。
自分が戻ってきたことを知ったら、どんな顔をするのだろう。
驚くだろうか。
怒るだろうか。
それとも、
もう自分のことなど思い出せなくなっているのだろうか。
そんなことを考えるたびに、胸の奥が苦しくなった。
湊は、まだ薄暗い寝室の中で、そっと隣を見た。
そこには、やはり誰もいない。
フィリックスが眠っていた場所は、きれいに整えられたままだった。
けれど、昨日よりも少しだけ、そこが冷たく見えた。
「……今日は、どうしよう」
小さく呟いてから、湊はゆっくりと寝台を降りた。
何をすればいいのか分からなかった。
フィリックスが帰ってくるのかも分からない。
今日、帰ってくるのか。
明日なのか。
それとも、何年も先なのか。
考えれば考えるほど不安になった。
だから湊は、昨日と同じように、手を動かすことにした。
暖炉へ薪をくべ、火打ち石を使って小さな火を起こす。
最初は弱かった炎が、少しずつ薪を包み込み、
ぱちり、と乾いた音を立て始めた。
その音を聞いていると、
家の中に少しだけ温かさが戻ってくるような気がした。
湊は台所へ向かった。
残っていた食料を確かめ、使えそうなものを選ぶ。
干した野菜。
少しだけ残っていた豆。
保存用の肉。
それから、棚の奥にあった香草。
昔のように、
フィリックスが食べやすいようなものを作ろうと思った。
長い旅から帰ってきたなら、きっと疲れている。
温かいものを食べてほしい。
少しでも、ほっとしてほしい。
そんなことを考えながら、湊は鍋へ水を入れた。
「……帰ってくるかは、分からないけど」
湊は、湯気が上がり始めた鍋を見つめながら、小さく笑った。
「いつでも、迎えられるようにしておこう」
言葉にすると、少しだけ心が落ち着いた。
帰ってくると決まったわけではない。
けれど、帰ってきた時に何もできないよりはいい。
扉を開けたフィリックスが、
冷えた家の中に一人で立たなくていいように。
暖炉の火があって、温かい食事があって、寝台が整っていて。
そして自分が、ちゃんとここにいると伝えられるように。
湊は、鍋をゆっくりとかき混ぜた。
けれど、何度も手が止まった。
フィリックスは、どれほど自分を待ったのだろう。
自分がいなくなってから、どんなふうに過ごしてきたのだろう。
昨日見た家の様子から、
ずっとここにいたわけではないことだけは分かった。
きっと、どこかへ行っていた。
もしかすると、自分を探して。
その考えに辿り着くたび、湊の胸は苦しくなった。
自分は、何も伝えられないままいなくなった。
フィリックスを一人にしてしまった。
もし彼が、自分を探していたのなら。
その時間を思うだけで、申し訳なさと、
会いたい気持ちが一緒になって、胸の奥から溢れそうになった。
⸻
その頃、フィリックスは、辺境の家へ続く道を歩いていた。
朝の光が、森の隙間から細く差し込んでいる。
夜の冷えがまだ残る空気は、頬を刺すほど冷たく、
吐く息は白くほどけてすぐに消えた。
何度も通った道だった。
ミナトがいた頃は、帰るたびに、少しだけ歩く速度が速くなった。
家が近付くほど、早く扉を開けたくなった。
今日は何をしているだろう。
薬草畑にいるだろうか。
窓辺で鳥を眺めているだろうか。
それとも、台所で何か作っているだろうか。
そんなことを考えながら帰る時間が、
フィリックスは好きだった。
今は違う。
家が近付くほど、胸が重くなる。
扉を開けても、ミナトはいない。
暖炉の火は消えている。
棚に残されたものだけが、
自分が失った時間を静かに突き付けてくる。
それを知っているから、足は重かった。
それでも、帰らなければならない。
次の旅へ出る前に、必要なものを整えるために。
そして、
また何も見つからなかったことを受け入れるために。
フィリックスは、森を抜けた。
その時だった。
家の屋根が見えた。
見慣れた煙突が、朝の空へ細い煙を上げていた。
フィリックスは、足を止めた。
しばらく、何が起きているのか分からなかった。
煙。
暖炉の煙。
白く細いそれが、冷たい空気の中でゆらゆらと揺れ、
朝の光を受けて淡く滲んでいる。
誰かが、火を起こしている。
旅人が入り込んだのか。
盗賊か。
近くの誰かが、勝手に使っているのか。
そんな考えが、次々に浮かんだ。
けれど、煙の匂いが風に乗って届いた時、
そこに混じる香草の匂いに、フィリックスの身体が固まった。
鼻の奥をくすぐる、乾いた葉の青い香り。
煮立つ肉と野菜の、湯気を含んだ甘い匂い。
そして、その奥に、かすかに残る、
昔何度も嗅いだ、湊の手の匂い。
疲れて帰った時、
扉を開けた瞬間に胸へ流れ込んできた、あの温かい匂いだった。
身体の奥にまで染みるような、優しい匂い。
喉がひゅっと詰まり、背筋に冷たいものが走った。
指先が一気に冷え、荷物を握る手に力が入らなくなる。
心臓が、ひどく強く打った。
一度、二度ではない。
胸の内側を拳で叩かれているように、
激しく、痛いほどに鳴り続ける。
「……まさか」
声が震えた。
耳の奥で、自分の呼吸だけがやけに大きく響く。
そんなはずはない。
十年も探して、どこにもいなかった。
何度も、似たような期待をして、そのたびに何もなかった。
今さら、そんなことがあるはずがない。
そう思うのに、足は勝手に動き出していた。
歩くどころではなかった。
フィリックスは、荷物を背負ったまま、家へ向かって走った。
十年前なら、数十歩で辿り着けた道が、ひどく長く感じられた。
息が苦しい。
胸が痛い。
肺の奥が焼けるようで、喉が乾き、
吸い込む空気さえ震えているようだった。
けれど止まれなかった。
視界の端が揺れる。
木々も、地面も、家の輪郭さえも、
期待と恐怖で滲んで見える。
扉の前へ立った時、フィリックスの手は震えていた。
開けるのが怖かった。
中にいるのが、知らない誰かだったらどうする。
火を起こしているのが、ただの旅人だったらどうする。
自分が期待した分だけ、また何かが壊れてしまう気がした。
それでも、扉の向こうから、鍋が静かに煮える音が聞こえた。
ぐつ、ぐつ、と小さく揺れる音。
そして、微かな足音がした。
床板を踏む、軽い、慣れた歩幅。
フィリックスは、ゆっくりと扉を開けた。
「……フィリ?」
聞こえた声に、フィリックスは息を止めた。
忘れてしまったと思っていた声だった。
何年も思い出せず、夢の中で探しても届かなかった声。
柔らかくて、少しだけ驚いたような声。
その一言だけで、胸
の奥に積もっていた十年分の時間が、音を立てて崩れた。
居間の中央に、湊が立っていた。
明るい茶色の髪。
見慣れた細い身体。
不安そうに揺れる瞳。
けれど、間違いなくミナトだった。
フィリックスは、動けなかった。
目の前にいる。
ずっと探していた人が。
何年も、何度も名前を呼び続けた人が。
今、自分を見ている。
視界が熱く滲んだ。
喉の奥が焼けるように痛い。
膝の力が抜けそうになるのを、どうにか堪える。
「……ミナト」
やっとのことで、声が出た。
けれど、その声はひどく掠れていた。
湊は、フィリックスの名前を呼ぼうとした。
けれど、彼の姿を見た瞬間、言葉を失った。
外套は擦り切れ、肩には深い傷が残り、
頬は以前よりもずっと痩せていた。
髪は伸び、乱れたままで、目の下には濃い影がある。
何よりも、その目が痛々しかった。
以前のように強く、まっすぐな目なのに、
その奥には、長い間眠れなかった人の疲れと、
何かを失い続けた人の寂しさが沈んでいた。
「……フィリ」
湊の目に、涙が浮かんだ。
自分を探していたのだ。
きっと、ずっと。
どれほど長い間。
どれほど苦しい思いをしながら。
湊は、フィリックスへ一歩近付いた。
その一歩だけで、フィリックスの肩がびくりと震えた。
「……ごめんね」
声が震えた。
「僕、急にいなくなって……何も言えなくて……」
フィリックスは、まだ動かなかった。
湊がそこにいることを、信じられないように見つめていた。
目を逸らせば消えてしまうのではないか。
手を伸ばせば、夢のようにほどけてしまうのではないか。
そんな恐怖が、その顔に浮かんでいた。
湊は、もう一歩近付いた。
「フィリ……僕、戻ってきたよ」
その言葉を聞いた瞬間、フィリックスの唇がわずかに震えた。
「……どこに、いた」
低い声だった。
けれど、その中には怒りではなく、
押し殺しきれない痛みがあった。
「俺は……」
言葉が続かなかった。
十年。
十年も探した。
街を巡り、国を越え、傷付いても歩き続けた。
何度も、もう二度と会えないのかもしれないと思った。
声を忘れてしまうことが怖かった。
顔まで曖昧になっていくことが怖かった。
それでも、探すことをやめられなかった。
そのすべてが、今、
目の前にいる湊を見た瞬間に溢れ出しそうになっていた。
「……十年」
フィリックスは、かすかに呟いた。
湊の顔から、血の気が引いた。
「十年……?」
「十年、探した」
その言葉は、静かな居間へ落ちた。
湊は息を呑んだ。
十年。
自分が白い場所にいた時間は、
ほんの少しだったように思えた。
けれど、フィリックスは、その間ずっと一人で。
自分を探して。
「……十年も」
湊の涙が、頬を伝った。
フィリックスは、湊を見つめたまま、ゆっくりと一歩近付いた。
「生きてるのか」
その声は、ひどく小さかった。
「本当に……お前なのか」
湊は、何度も頷いた。
「うん」
涙を拭うこともできずに、湊は答えた。
「僕だよ。フィリ」
フィリックスの手が、ゆっくりと伸びた。
けれど、湊の頬へ触れる寸前で止まった。
触れてしまえば、消えるかもしれない。
また、手の中からいなくなるかもしれない。
そんな恐怖が、彼を止めているようだった。
湊は、自分からその手を取った。
大きくて、硬くて、傷だらけの手だった。
以前よりも、ずっと冷たかった。
湊は両手で包み込むように握った。
「……大丈夫だよ」
声は震えていた。
「僕、ここにいるよ」
フィリックスの指が、ようやく湊の手を握り返した。
最初は弱く。
確かめるように。
けれど次の瞬間、その手は強く、強く湊を引き寄せた。
湊の身体が、フィリックスの胸へぶつかる。
大きな腕が、背中へ回った。
逃がさないように。
もう二度と失くさないように。
フィリックスは、何も言わなかった。
言葉にすれば、今この瞬間まで壊れてしまいそうだった。
ただ、湊の肩へ顔を埋め、震える息を吐いた。
湊は、フィリックスの背中へ腕を回した。
外套越しでも分かるほど、彼の身体は硬くなっていた。
ずっと、一人で張り詰めていたのだろう。
ずっと、誰にも頼らず、眠れない夜を越えてきたのだろう。
「……生きていてくれて、よかった」
湊は、涙を流しながら言った。
「帰ってきてくれて、本当によかった」
フィリックスの腕に、さらに力が入った。
「……帰る場所が、ここしかなかった」
掠れた声が、湊の肩へ落ちた。
「お前がいないのに」
その言葉に、湊は胸が締め付けられた。
フィリックスは、しばらく湊を離さなかった。
湊も、離れなかった。
十年という時間は、抱きしめただけで埋まるものではない。
これから聞かなければならないことが、たくさんある。
自分がいなくなった後、フィリックスがどこへ行き、
何を見て、どれほど傷付いたのか。
そして、フィリックスにも、
自分がなぜ戻ってきたのかを話さなければならない。
けれど今は、まだ何も急がなくてよかった。
湊は、フィリックスの背中をゆっくりと撫でた。
「……ゆっくり、話そう」
フィリックスは、湊の肩に額を寄せたまま、わずかに頷いた。
「フィリの話も、聞かせて」
その言葉に、フィリックスの指が、湊の服を強く掴んだ。
長い間、誰にも話せなかったことがある。
言葉にすれば、自分がどれほど壊れていたのか、
認めてしまう気がしていたことがある。
けれど、湊がここにいる。
自分を見て、帰ってきたと言ってくれている。
フィリックスは、震える息を吐いた。
「……ああ」
その返事は、十年ぶりに、少しだけ温かかった。
暖炉の火は、静かに揺れていた。
鍋の中では、二人分の朝食が、ゆっくりと湯気を立てていた。
そして、長い間止まっていた家の時間が、
ようやくもう一度、動き始めていた。




