帰る場所の朝
湊が目を開けた時、
最初に視界へ入ったのは、見慣れた天井だった。
木の梁が静かに走り、少しだけ色の褪せた布が窓辺で揺れている。
寝台の上には、何度も洗われた柔らかな掛け布がかかっていて、
朝の光が薄い金色になって、その上へ静かに落ちていた。
なぜか、懐かしい景色だった。
湊は、しばらく瞬きもできなかった。
白い場所で見た、何もない光景がまだ瞼の裏に残っている。
神を名乗った存在の、どこか遠い声。
フィリに会いたい、と答えた自分の声。
そして、急に身体を包み込んだ眩しい光。
それらが、夢だったのか現実だったのか、
まだうまく分からなかった。
けれど、寝台の下から伝わる木の床の硬さも、
掛け布の少しだけ乾いた匂いも、
窓から差し込む朝の温かさも、確かに覚えているものだった。
「……帰って、きたの」
声にすると、喉がわずかに震えた。
胸に手を当てる。
痛みはない。
息を吸っても苦しくない。
身体は不思議なほど軽く、
けれど夢の中のように曖昧ではなく、
指先まできちんと自分のものとして感じられた。
湊は、ゆっくりと身を起こした。
そして、すぐ隣へ目を向けた。
いつもなら、そこにフィリックスがいるはずだった。
大きな身体を少しだけこちらへ向け、
眠っている間も無意識に手を伸ばしてくることがあった。
湊が起きれば、少し遅れて目を開けて、眠たそうな声で名前を呼ぶ。
それから、まだ早いと言うように、
もう一度だけ腕の中へ引き寄せてくれる。
そんな朝が、何度もあった。
「……フィリ?」
湊は小さく呼んだ。
返事はなかった。
隣の寝台は、冷えていた。
誰かが少し前まで
眠っていたような温もりもなく、乱れた跡もない。
湊は、胸の奥がざわつくのを感じた。
フィリが、早く起きて出かけたのだろうか。
薬草畑へ行ったのかもしれない。
森の方で何かを探しているのかもしれない。
それなら、すぐに帰ってくる。
そう思おうとした。
けれど、寝台の周りを見れば見るほど、
何かが違っていることに気付いた。
以前より、部屋の中が静かだった。
いつもなら、二人で使っていた衣類が
もう少し近くにあったはずなのに、
フィリックスの外套も、
使い込まれた剣帯も、見当たらない。
寝台の端に置いていたはずの小さな籠も、
少しだけ埃をかぶっていた。
湊は、急いで寝台を降りた。
足の裏に触れた床は冷たかった。
けれど、歩ける。
走れそうなほど、身体は軽かった。
そのことに驚く暇もなく、湊は寝室の扉を開けた。
「フィリ?」
居間へ向かいながら、もう一度呼ぶ。
けれど、返事はない。
居間には、誰もいなかった。
暖炉の中には、冷え切った灰が残っている。
かなり時間が経っているようだった。
台所の作業台には、何も置かれていない。
湊がいつも使っていた小さな鍋も、
乾いた布をかけられたまま、動かされた気配がなかった。
棚の上には、二人で集めた小物が並んでいた。
窓辺の鳥の置物もある。
その隣に置いた小さな花瓶も、少しだけ曇っている。
そして棚の端には、
見覚えのない青い髪紐が置かれていた。
以前のものより少し濃い、深い青。
湊は、それをそっと手に取った。
何のためにあるのかは分からない。
けれど、丁寧に置かれていた。
まるで、誰かが大切にしていたもののように。
「……フィリ」
湊は、もう一度名前を呼んだ。
今度は、少しだけ声が震えた。
家の中には、
人が暮らしていた温かさがほとんど残っていなかった。
誰も住まなくなってから、数年は経っているように見えた。
埃は薄く積もり、窓辺の布は少しだけ色褪せ、
床にも、以前ならすぐに気付いて
拭き取っていたはずの汚れが残っている。
誰かが、時々戻ってきているような気配はある。
けれど、ここで毎日暮らしている人はいない。
フィリックスは、出て行ってしまったのだろうか。
湊を待つことをやめて。
新しい場所で、新しい生活を始めたのだろうか。
そう考えた瞬間、胸の奥が痛んだ。
自分が戻りたいと願ったのは、フィリに会うためだった。
もう一度だけでも、フィリの顔を見て、
何も言えなかったことを伝えるためだった。
それなのに、もしフィリがここへ戻らないのなら。
もし、もう自分を待っていないのなら。
湊は、青い髪紐を胸元で握った。
悲しかった。
寂しかった。
けれど同時に、
フィリックスが幸せでいてくれるのなら、
それでいいとも思った。
自分がいなくなった後も、ちゃんと食べて、
眠って、誰かと話して、笑えるようになっているのなら。
それは、湊がずっと願っていたことだった。
だから、会えないことが苦しくても、
フィリの幸せを願う気持ちまでなくなったわけではない。
「……幸せなら、いいんだよ」
誰もいない居間へ向かって、湊は小さく呟いた。
けれど、言葉にした途端、目の奥が熱くなった。
本当は、会いたい。
帰ってきてほしい。
もう一度、名前を呼んでほしい。
そんな願いが、胸の奥から溢れて止まらなかった。
湊は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
けれど、何もしないで待っているだけでは、
余計に不安になってしまう気がした。
フィリが戻ってくるかもしれない。
今日ではないかもしれない。
明日でも、もっと先でも、
いつかこの家へ帰ってくるかもしれない。
もしそうなら。
帰ってきた時に、
少しでも安心できるようにしておきたかった。
「……まず、お掃除しよう」
湊は、自分に言い聞かせるように呟いた。
不安も、寂しさも、今すぐには消えない。
けれど、手を動かしていれば、
少しだけ考えすぎずに済むかもしれない。
窓を開ける。
朝の空気が、ゆっくりと家の中へ流れ込んできた。
湊は布を取り出し、棚に積もった薄い埃を丁寧に拭った。
鳥の置物も、花瓶も、二人で拾った石も、
一つずつ手に取って、元の場所へ戻していく。
青い髪紐は、しばらく迷った末に、
自分が以前使っていた淡い青の髪紐の隣へ置いた。
二つの青が並ぶと、胸が少しだけ苦しくなった。
それでも、そこに置いておきたかった。
フィリックスが、いつか帰ってきた時に。
これを見て、何かを思い出してくれるかもしれない。
湊は暖炉の灰を片付け、乾いた薪を集め、火を起こした。
小さな炎が、ゆっくりと暖炉の中で揺れ始める。
その光を見ていると、少しだけ家が息を吹き返したように思えた。
台所へ立ち、残っていた器を洗う。
水を汲み、乾いた布を替え、寝台の布も整える。
やることは、いくらでもあった。
そして、やることがある間だけは、
フィリックスがいないことを考えずにいられた。
けれど、ふとした瞬間に、心はすぐに彼のもとへ戻ってしまう。
この椅子に座っていた。
このカップを使っていた。
眠る前には、ここで自分の手を握ってくれた。
思い出すたびに、会いたい気持ちは強くなった。
それでも湊は、手を止めなかった。
フィリが帰ってくるかもしれない。
その時に、ただいまと言えるように。
おかえり、と言えるように。
家を、二人が暮らしていた頃のように、少しずつ整えていった。




