残されたもの
ローディスと別れた後も、
フィリックスはすぐには次の街へ向かえなかった。
「諦めたらどうだ」と言われた言葉が、
耳の奥に残り続けていた。
腹が立った。
何年も探してきた自分のことを、
何も知らないくせにと思った。
ミナトがどれほど優しく、どれほど大切な存在だったのか。
自分が帰れば、いつも静かに笑って迎えてくれたこと。
傷を負えば、心配そうに手を伸ばし、
ポーションを飲ませながら、
少しでも早く良くなりますようにと願うような目をしていたこと。
そんな人を、いないものとして扱うような言葉を、
簡単に受け入れられるはずがなかった。
けれど、怒りが薄れていくと、
その下から、もっと苦しい感情が浮かび上がってきた。
もし、ローディスの言葉が正しかったらどうする。
もし、ミナトはもう、自分がどれほど探しても
届かない場所へ行ってしまっているのだとしたら。
そのことを認められないから、
自分は探すという形に縋っているだけなのではないか。
フィリックスは、人の少ない街外れの道を歩いた。
夕暮れが近付き、長く伸びた影が足元に落ちている。
以前なら、こんな時間に歩いていれば、
ミナトはきっと「もうすぐ暗くなるよ」と心配しただろう。
宿を探そうと提案して、
温かい食事がある場所がいいねと、
少しだけ楽しそうに言ったかもしれない。
けれど今は、どこへ行っても、一人だった。
隣にいるはずの人がいないだけで、
世界はひどく広く、冷たく感じられた。
その夜、フィリックスは街道沿いの小さな宿へ入った。
食堂には旅人たちがいて、
温かい煮込み料理の匂いが漂っていた。
誰かが笑い、誰かが今日あった出来事を話している。
フィリックスはその声を聞きながら、空いている席へ座った。
注文を取りに来た宿の主人が、何を食べるかと尋ねる。
少し前なら、何もいらないと答えていたかもしれない。
けれど、ローディスの言葉と、
思い出せないはずのミナトの気遣うような表情が、
胸の奥に残っていた。
「……温かいものを」
そう答えると、自分の声がひどく遠く聞こえた。
運ばれてきた料理は、野菜と肉を煮込んだ簡素なものだった。
湯気が立ち、香草の匂いがした。
フィリックスは匙を持ったまま、しばらく動けなかった。
ミナトが作る食事は、もっと優しい味がした。
強い香辛料は使わず、
疲れている時でも食べやすいようにと、
いつも少しだけ工夫してくれていた。
自分が肉ばかり食べようとすれば、
野菜も食べてねと困ったように笑った。
その笑顔を思い出そうとして、フィリックスは目を伏せた。
顔は覚えている。
柔らかく笑う口元も、茶色の瞳も、まだ思い出せる。
けれど、声はやはり遠かった。
自分の名前を呼ぶ声が、どんな響きだったのか。
耳元で「おかえり」と囁かれた時、どれほど嬉しかったのか。
思い出そうとするほど、
何か大切なものが指の間から零れていくようで、怖かった。
フィリックスは匙を置いた。
食べなければならない。
ミナトを探すなら、生きていなければならない。
何度もそう言い聞かせて、ようやく一口を飲み込んだ。
温かさが喉を通っても、胸の奥の冷たさは消えなかった。
それでも、少しずつ食べた。
食べ終える頃には、身体の重さがわずかに変わった気がした。
そのことに、フィリックスは小さく息を吐いた。
こんな当たり前のことさえ、
ミナトがいなければできなくなっている。
自分は、どれほど壊れてしまったのだろうと思った。
翌朝、フィリックスは街を出る前に、市場へ寄った。
次の国へ向かうためには、
数日分の保存食と水が必要だった。
必要なものだけを買い、早く出発するつもりだった。
けれど、露店の一つで、ふと足が止まった。
小さな木箱の中に、淡い青色の細い紐が並んでいた。
髪を結うためのものだろう。
少しだけ光を含んだような色で、陽の下では柔らかく揺れていた。
フィリックスは、しばらくそれを見つめた。
辺境の家には、ミナトが髪を切った日に残しておいた髪紐がある。
また髪が伸びたら使うから、と言っていた。
フィリックスは、その言葉を思い出した。
その時のミナトの声は、やはりはっきりとは思い出せなかった。
けれど、言葉の意味だけは、今でも胸に残っている。
また伸びたら。
また使うから。
その「また」が、今の自分には、あまりにも遠かった。
「……これを」
気付けば、フィリックスは露店の主人へ言っていた。
手に取った紐は、以前のものより少し濃い青だった。
ミナトに似合うかどうかは分からない。
けれど、いつか会えたなら。
髪が伸びていたなら。
これを渡して、笑ってほしかった。
フィリックスは紐を買い、丁寧に小さな袋へ入れた。
そして、旅の荷物の奥へしまった。
失くさないように。
いつか、渡せる時が来るかもしれないから。
市場を出た時、遠くから子どもの笑い声が聞こえた。
その声に、フィリックスは一瞬だけ立ち止まった。
ミナトも、よく笑っていた。
大きな声ではなく、少しだけ息を漏らすように、
嬉しそうに笑うことが多かった。
けれど、その笑い声も、今はもう曖昧だった。
覚えていたいのに。
忘れたくないのに。
時間は、容赦なく思い出の輪郭を削っていく。
フィリックスは、唇を噛んだ。
探しているのに、遠ざかっていく。
会いたいと思っているのに、
記憶の中のミナトまで、
少しずつ手の届かない場所へ行ってしまう。
そのことが、たまらなく悲しかった。
それでも、歩くしかなかった。
立ち止まれば、忘れてしまいそうだった。
次の街へ行けば、何かが見つかるかもしれない。
遠い国へ行けば、誰かがミナトを知っているかもしれない。
その可能性が、どれほど小さくても。
フィリックスは、旅装を整えた。
街道の先には、まだ知らない国がある。
その先にも、さらに遠い場所がある。
そして、どこかにミナトがいるかもしれない。
フィリックスは一度だけ、
荷物の奥にしまった青い髪紐へ触れた。
「……待ってろ」
誰にも聞こえない声で、そう呟く。
その言葉は、祈りにも似ていた。
待っているのが自分なのか。
待っていてほしいのがミナトなのか。
もう、分からなかった。
ただ、フィリックスは歩き出した。
薄れていく記憶と、
渡せないままの小さな贈り物を抱えながら。
それでも、ミナトを探すために。




