薄れていく声
ミナトを探し始めてから、何年もの時間が過ぎていた。
季節は何度も巡った。
春になれば、街道の脇に小さな花が咲き、
夏になれば、乾いた風が長い旅路の頬を撫で、
秋には森の色が変わり、
冬になれば、雪に閉ざされた村で足止めされることもあった。
フィリックスは、そのすべてを通り過ぎた。
どこかにミナトがいるかもしれないと思いながら。
大きな街にも行った。
海の近くにある港町にも行った。
山を越えた先の、言葉も習慣も違う国にも足を踏み入れた。
冒険者ギルドへ行けば、必ずミナトのことを尋ねた。
薬師の店を見つければ、
彼の作るポーションを知っている者がいないかと聞いた。
人の集まる酒場や市場へ行けば、
柔らかな茶色の髪をしたハイエルフの青年を見なかったかと、
何度も同じ問いを繰り返した。
けれど、答えはいつも同じだった。
知らない。
見ていない。
心当たりはない。
それでもフィリックスは、次の街へ向かった。
次の国へ向かった。
見つからないことに慣れることだけは、
どうしてもできなかった。
慣れてしまえば、探す理由まで失ってしまう気がした。
ミナトがいなくなった朝から、
自分の中で止まったままの時間を、
フィリックスはただ引きずるように歩いていた。
何年経っても、あの朝の寝台を思い出す。
隣にあるはずだった温もりがなく、
冷えた布だけが手のひらに触れた時の感覚を、
今でもはっきり覚えている。
扉を開ければ、ミナトが台所にいるかもしれないと思った。
薬草畑へ行けば、しゃがみ込んで葉を見ているかもしれないと思った。
森へ入れば、どこかで自分の名前を呼んでいるかもしれないと思った。
何度も期待して、そのたびに何もない場所へ戻ってきた。
それでも、探すことをやめられなかった。
けれどある夜、旅の途中で泊まった小さな宿の部屋で、
フィリックスはふと、自分がミナトの声を思い出せないことに気付いた。
眠る前、いつものように目を閉じた。
そうすれば、少しくらいは、ミナトが笑っている姿を思い出せる気がした。
自分の名前を呼ぶ声。
少しだけ柔らかくて、優しくて、いつも相手を気遣うような声。
――フィリ。
そう呼ばれるだけで、どれほど疲れていても、帰る場所があると思えた。
けれど、その夜は、声が聞こえなかった。
記憶の中に、ミナトがいる。
明るい茶色の髪も、少し幼く見える横顔も、
困ったように笑う表情も、まだ思い出せる。
けれど、声だけが、どうしてもはっきりしなかった。
柔らかかった。
穏やかだった。
きっと、そんな声だった。
それなのに、どんな響きだったのか、
どんなふうに自分の名前を呼んだのか、
思い出そうとすればするほど、輪郭が遠ざかっていく。
フィリックスは目を開けた。
暗い天井を見つめながら、息が詰まった。
「……ミナト」
自分で名前を呼ぶ。
けれど、返ってくるはずの声はない。
あの人なら、どう返しただろう。
フィリ、と笑ってくれただろうか。
おかえり、と言ってくれただろうか。
それとも、疲れていることを見抜いて、
無理しないでねと眉を下げただろうか。
思い出したい。
忘れたくない。
けれど、記憶は自分の意思とは関係なく、少しずつ薄れていく。
それが、何よりも怖かった。
ミナトがいないことだけでも耐えられないのに。
自分の中に残っていたミナトまで、
少しずつ消えてしまうような気がした。
フィリックスは、眠ることができなかった。
夜が明けるまで、何度もミナトの名前を呼んだ。
声を思い出すために。
忘れてしまわないために。
けれど、呼べば呼ぶほど、
胸の奥に残るのは、会えないことへの悲しみだけだった。
翌日、フィリックスはいつものように街へ出た。
疲れた身体を引きずりながら、冒険者ギルドへ向かう。
受付の者に、探している人がいると伝える。
柔らかな明るい茶色の髪をした、ハイエルフの青年。
薬草やポーションを扱うのが得意で、誰かを放っておけない人。
何年も前にいなくなった恋人。
言葉にするたび、胸が痛んだ。
けれど、言わなければ、誰も探してはくれない。
ギルドを出た時、後ろから声を掛けられた。
「フィリックス」
振り返ると、
そこには旅の途中で何度か依頼を共にした冒険者が立っていた。
名はローディスといった。
人の良い笑顔をする男で、
以前はフィリックスが必要な時だけ短く話しかけても、
気にせず隣に座ってくれた。
今は、その顔に、ひどく困ったような表情を浮かべていた。
「また、聞いて回っていたのか」
フィリックスは答えなかった。
答える必要があるとも思えなかった。
ローディスは、少しだけ視線を落とした。
「もう何年だ」
「……関係ない」
「関係ある」
その声は、責めるものではなかった。
だからこそ、フィリックスには苦しかった。
「お前が探している人を大切に思っていたことは分かる。
何度も話を聞いたし、見つけた時にどんな顔をするのかも、
少しは想像できる」
ローディスは一度、言葉を切った。
「でも、お前はもう、まともに眠っていない。
食事もろくに取らない。傷が増えても、手当てを後回しにする。
前よりずっと、危ない依頼ばかり受けている」
フィリックスは黙ったまま、ローディスを見た。
言われていることは、すべて分かっていた。
自分が変わってしまったことも。
以前よりも、人を遠ざけるようになったことも。
誰かの心配を受け取る余裕すらなくなっていることも。
「……だから何だ」
低い声だった。
ローディスは、少しだけ苦しそうに眉を寄せた。
「もう、諦めたらどうだ」
その言葉を聞いた瞬間、フィリックスの身体が固まった。
周囲の音が遠くなった気がした。
市場のざわめきも、馬車の車輪の音も、誰かの笑い声も。
何も聞こえなくなった。
「……何だと」
「見つからない人を、何年も探し続けている。
お前はもう、あの人を探すためだけに生きているように見える」
ローディスは、目を逸らさずに続けた。
「だんだん荒んでいくお前を、俺は見ていられない」
フィリックスの指が、ゆっくりと握られた。
胸の奥に、怒りが湧いた。
諦めろと言われたことが許せなかった。
ミナトを、いないもののように扱われたことが許せなかった。
何も知らないくせに。
ミナトがどれほど優しかったか。
どれほど小さなことで笑って、
誰かのために手を伸ばして、
フィリックスの帰りを待っていてくれたか。
あの人がいなくなった朝、自分がどれほど怖かったか。
何年探しても、どこにもいないことが、どれほど苦しいか。
何も知らない者に、終わらせろと言われる筋合いはなかった。
「諦めるわけがない」
フィリックスの声は、低く、鋭かった。
「ミナトは、俺を置いて消えるような奴じゃない」
ローディスは、しばらく何も言わなかった。
フィリックスの目を見ていた。
その目には怒りだけではなく、
どうしようもない恐怖があることに、きっと気付いていたのだろう。
「……そうだな」
やがてローディスは、静かに言った。
「お前にとっては、まだ終わっていないんだな」
フィリックスは答えなかった。
終わっていない。
終わらせることができない。
ミナトがどこかで生きているなら、探さなければならない。
もしもう会えないのだとしても、
その理由すら知らないまま、諦めることなどできなかった。
ローディスは小さく息を吐いた。
「せめて、生きてくれ。
お前が壊れてしまったら、探すことさえできなくなる」
その言葉に、フィリックスは一瞬だけ目を伏せた。
ミナトがいたなら、きっと同じことを言った。
無理しないで。
ちゃんと食べて。
自分を大切にして。
その声はもう思い出せないのに、
言葉だけが、胸の奥に残っている。
フィリックスは、ゆっくりと息を吐いた。
「……分かっている」
本当は、何も分かっていなかった。
どうすれば生きていけるのか。
どうすれば、ミナトを失ったまま、次の日を迎えられるのか。
どうすれば、声を忘れずにいられるのか。
何一つ分からなかった。
それでも、フィリックスは歩き出した。
また次の街へ向かうために。
また、ミナトの名前を聞くために。
薄れていく記憶を抱えながら。
それでも、忘れないために。
探し続けるために。




