遠い場所へ
近くの街を探し尽くした。
村も、森も、街道も、ミナトが一人で行けそうな場所も、
誰かに連れ去られたのだとすれば通るかもしれない道も、
フィリックスは何度も歩いた。
最初は、見落としがあるのだと思っていた。
一度聞いただけでは思い出せない者もいるかもしれない。
昼間には見なかったものを、
夜になってから見た者がいるかもしれない。
森の奥に迷い込んで、
声が届かない場所で動けなくなっているのかもしれない。
だからフィリックスは、同じ村の同じ店へ何度も足を運んだ。
同じ見張りに、同じ質問を繰り返した。
柔らかな明るい髪をした、細いハイエルフの青年を見なかったか。
人に頼まれれば断れず、困っている相手がいれば放っておけない、
穏やかに笑う青年を見なかったか。
けれど、返ってくる答えはいつも同じだった。
知らない。
見ていない。
そんな人は、この辺りには来ていない。
その言葉を聞くたびに、フィリックスは頷いた。
礼を言い、次の場所へ向かった。
けれど背を向けた後、胸の奥では、何かが少しずつ崩れていった。
ミナトがいない。
探しても、探しても、いない。
その事実を受け入れることは、まだできなかった。
受け入れてしまえば、本当に終わってしまう気がした。
だからフィリックスは、近隣を探し尽くしたのだと知った時、
立ち止まる代わりに、もっと遠くへ行くことを決めた。
辺境から数日かかる街へ行く。
その先にある大きな町へ行く。
さらに遠い国へ続く街道へ出て、
行き交う商人にも、冒険者にも、旅人にも尋ねる。
ミナトがどこへ行ったのか分からないのなら、
見つかる可能性のある場所を、一つでも増やすしかない。
それだけが、今のフィリックスに残された道だった。
出発の朝、フィリックスは二人の家の中をゆっくり見回した。
暖炉の火は小さく燃えている。
窓辺には、鳥の置物と白い花がある。
棚には、二人で集めた小物が並んでいる。
ミナトが作ったポーションの瓶も、少し歪な形をした器も、
髪を切った日に残しておいた淡い青の髪紐も、すべてがそこにあった。
どれもが、ミナトがここにいたことを示している。
それなのに、本人だけがいない。
フィリックスは棚の前で足を止めた。
指先で、ミナトが気に入っていた小さな木彫りに触れる。
触れれば、あの日の声が思い出された。
これ、かわいいね、と笑った声。
棚に置く時、少しだけ場所を迷って、嬉しそうに決めた横顔。
思い出すたび、胸が痛んだ。
けれど、その痛みは、
フィリックスを家に留めるものではなかった。
むしろ、行かなければならないと思わせた。
ミナトがどこかで待っているなら。
怖がっているなら。
自分の名前を呼んでいるなら。
こんな場所で、ただ思い出に縋っているわけにはいかない。
「……行ってくる」
誰もいない家へ向かって、フィリックスは呟いた。
本当なら、ミナトに言うはずの言葉だった。
依頼で遠くへ出る時、
ミナトはいつも扉の前まで見送りに来てくれた。
気を付けてね、と言って、
帰ってきたら温かいものを作るねと笑ってくれた。
その声はもう聞こえない。
それでもフィリックスは、
ミナトがいるかもしれない世界へ向かうために、扉を開けた。
旅の途中で、フィリックスは以前よりもさらに口数が減った。
人に尋ねる時だけ、必要な言葉を使う。
それ以外は、ほとんど誰とも話さない。
宿を取っても、食事の席には長くいなかった。
依頼を受ける時も、
以前のように報酬や内容を確認することは少なくなった。
ただ、道中で得られる情報があるなら、
危険な場所であっても足を向けた。
ミナトを見かけた者がいるかもしれない。
誰かが、似たような青年を保護しているかもしれない。
その可能性だけを頼りに、フィリックスは進んだ。
けれど、どれほど遠くへ行っても、ミナトの姿はなかった。
時には、似た特徴を持つ者がいたという話を聞いた。
フィリックスはその度に、眠ることも惜しんで駆けた。
けれど辿り着けば、それは別人だった。
柔らかな茶色の髪ではなく、金の髪をしたエルフだった。
穏やかな声ではなく、まったく違う話し方をする人だった。
そのたびに、フィリックスは礼を言って背を向けた。
そして、誰もいない場所まで歩いてから、息を吐いた。
胸の奥に抱えていた期待が、音もなく潰れていく。
もう、何度目なのか分からなかった。
食事を取ることも、少しずつ難しくなっていった。
空腹を感じないわけではない。
身体が疲れていることも、傷が増えていることも分かっていた。
それでも、食べるために立ち止まる時間が惜しかった。
眠るために目を閉じれば、その間にミナトが遠くへ行ってしまう気がした。
何かを口に入れても、味がしなかった。
噛んで、飲み込む。
ただそれだけだった。
けれど、ふとした時に、ミナトの声が思い出される。
――フィリ、ちゃんと食べてね。無理しないでね。
優しく、少しだけ困ったように笑いながら、
自分の前へ温かい皿を置いてくれた声。
無理をしないでと言って、
疲れた自分の手を包んでくれた、小さく柔らかな手。
思い出すと、胸が苦しくなった。
それでもフィリックスは、無理やりにでも食べた。
食べたいからではない。
生きたいからでもない。
ミナトを探すために、生きなければならなかった。
もし自分が倒れてしまえば、
ミナトが戻ってきた時に迎えに行けない。
もしどこかでミナトが助けを求めているのなら、
見つけ出すための足も、剣を握る手も失うわけにはいかなかった。
だから、フィリックスは食べた。
水を飲んだ。
眠れない夜にも、ほんの少しだけ目を閉じた。
すべては、ミナトを探すためだった。
けれど、そうして日々を重ねるうちに、
フィリックスの中から、少しずつ何かが削れていった。
笑うことがなくなった。
誰かに話しかけられても、
以前なら返していた短い言葉すら返さなくなった。
冒険者ギルドでは、彼を知る者たちが、
遠巻きに様子を見るようになった。
かつてのフィリックスも、決して愛想の良い男ではなかった。
孤高で、近寄りがたい存在だった。
けれど、ミナトと出会ってからは違った。
帰る家があり、待っている人がいた。
依頼の後に少し急いで帰る理由があり、
街で見つけた小さなものを、ミナトに渡すために選ぶこともあった。
今のフィリックスには、それがなかった。
帰る場所はある。
けれど、そこにミナトはいない。
待っている人はいない。
だから、どこへ行っても同じだった。
傷付いても構わなかった。
危険な依頼を受けても、命を惜しいと思えなかった。
ただ、
ミナトに繋がる手掛かりがあるかもしれないなら、
どんな場所へでも行った。
竜人族の血を引く身体は強く、傷を負ってもすぐに立ち上がる。
けれど、その強さは、以前のように誰かを守るためのものではなくなっていた。
今のフィリックスは、手負いの狼のようだった。
近付く者を拒み、誰かの善意すら受け取れず、
ただ一つのものを失った痛みだけを抱えたまま、荒れた道を進み続ける。
その目には、いつも疲れがあった。
けれど、ミナトの名前を聞いた時だけ、ほんのわずかに光が戻る。
見かけなかったか、と尋ねる時だけ、声に必死さが混じる。
その姿を見た者は、誰もがすぐに気付いた。
この男は、誰かを探している。
そして、その誰かを見つけるまで、止まることができないのだと。
夜、旅の途中の宿で、フィリックスは窓の外を見ていた。
遠い場所にある星を眺めながら、ふと、辺境の家の窓辺を思い出す。
鳥の置物のそばに置かれた白い花。
棚に並ぶ小さなものたち。
ミナトが笑いながら、自分へ見せてくれた新しいポーション。
どれも、もう触れられないほど遠い場所にある気がした。
「……ミナト」
低く名前を呼ぶ。
返事はない。
それでも、フィリックスは目を閉じなかった。
探す。
もっと遠くへ行く。
どれだけ時間がかかっても、どれだけ自分が変わってしまっても。
ミナトを見つけるまでは。
自分の世界から消えてしまった、たった一人の恋人を。
必ず、見つけ出すために。




