伝えられない言葉(死ネタ)
どれくらい眠っていたのか、ミナトには分からなかった。
深い眠りの底から、誰かにそっと呼ばれたような気がして、
ゆっくりと意識が浮かび上がってくる。
けれど、目を開けた時に部屋の中にあったのは、
聞き慣れた声でも、朝の光でもなかった。
窓の外にはまだ夜が残っていて、
淡い月明かりだけが、寝室の床や壁へ薄く落ちている。
隣には、フィリックスが眠っていた。
いつもより少しだけ強く抱き寄せられていた腕は、
眠っている間にもミナトを離さないように、背中へ静かに回されている。
ミナトは息を潜めるようにして、隣の顔を見つめた。
眠っているフィリックスは、起きている時よりも少しだけ表情がやわらかい。
いつもは鋭く見える眉も、今は力が抜けていて、
長い睫毛が頬へ静かな影を落としていた。
強くて、誰よりも頼りになる人なのに、
眠っている時だけは、どこか無防備に見える。
ミナトはそのことが好きだった。
自分の前でだけ、フィリックスが少しだけ
肩の力を抜いてくれることが、たまらなく嬉しかった。
「フィリ」
声には出さず、唇だけで名前を呼ぶ。
返事はない。
当然だと思いながらも、ミナトは少しだけ笑った。
明日になれば、またフィリックスは目を覚まして、
眠そうな顔のまま台所へ来るだろう。
ミナトが朝食を作っていれば、何か手伝うと言うかもしれない。
昨日作った青緑色のポーションを街へ届ける話も、
白い花へ水をやることも、
次に森へ行くなら何を持っていくかという話も、きっと続いていく。
暖かくなったら、花畑へ行く。
短くなった髪がまた伸びたら、
棚の引き出しにしまった淡い青の髪紐を出して、フィリックスに結んでもらう。
棚には、まだ置ける場所がたくさんある。
これから先に見つける石や、街で買う小さなものや、
二人で食べたお菓子の包み紙を、そこへ少しずつ増やしていける。
そんな未来を考えると、胸の奥がゆっくりと満たされた。
ミナトはフィリックスの頬へかかっていた髪を、指先でそっと払った。
起こさないように、触れたことすら気付かれないくらい静かに。
「明日も、楽しみだな」
小さな声で呟く。
本当に、そう思っていた。
明日も、その先も、
ずっとこうしていられるのだと、疑いもせずに。
その瞬間だった。
視界の端に、見慣れない光が浮かんだ。
淡い白い文字が、
夜の暗さを切り裂くように、何の前触れもなく現れる。
――接続異常を検知しました。
――安全のため、強制ログアウトを開始します。
「……え?」
声にならないほど小さな呟きが、暗い部屋へ落ちた。
ミナトは瞬きをした。
けれど文字は消えず、
むしろ視界の中でゆっくりと明るさを増していく。
強制ログアウト。
これまでにも、体調が悪い時には
接続時間を短くするようにと、医療スタッフから言われたことはあった。
けれど、こんな表示を見たことは一度もなかった。
「フィリ……」
隣で眠る恋人の名前を呼ぼうとした瞬間、
胸の奥を、鋭い痛みが貫いた。
息が、吸えない。
ゲームの中で感じる疲労や痛みとは違う、
もっと深く、もっと逃げ場のない苦しさが、
身体の奥から一気に押し寄せてくる。
指先が冷たくなり、視界が揺れた。
ミナトは繋いでいたフィリックスの手を、反射的に強く握った。
「……っ」
けれど、その手は、少しずつ遠くなっていく。
ログアウトが始まっている。
世界の輪郭が白く滲み、寝室の天井も、暖炉の残り火も、
フィリックスの横顔も、まるで薄い霧の向こうへ沈んでいくように見えた。
「やだ……」
ミナトは、かすかな声で呟いた。
戻らなければならない現実の身体が、
今までにないほど苦しいことを、すぐに理解してしまった。
心臓が、うまく動いていない。
何度も繰り返してきた発作とは違う。
胸の奥が締め付けられ、
息をするたびに痛みが増していき、
身体のどこにも力が入らない。
それなのに、意識だけは不思議なほどはっきりしていた。
最期なのだと、ミナトは悟った。
怖かった。
怖くて、怖くて、どうしようもなかった。
現実の病室で苦しくなった時には、いつも誰かが来てくれた。
看護師を呼ぶためのボタンがあり、
両親の声があり、薬を持って駆けつけてくれる人がいた。
けれど今は、そのどれもが遠い。
この世界には、フィリックスがいる。
自分のすぐ隣で眠っている。
大きな腕で自分を抱き寄せ、何も知らずに、穏やかな寝息を立てている。
なのに、彼は助けられない。
どれほど強くても、どれほど多くの魔物を倒してきても、
どれほど自分を大切にしてくれても、
現実の自分の胸の痛みには、手を伸ばすことすらできない。
それが、ひどく悲しかった。
白く遠ざかっていく世界を見ながら、
ミナトの胸に浮かんだのは、たくさんの思い出だった。
初めて草原を走った日のこと。
自分の足で地面を蹴り、風が頬を撫で、
息が苦しくならないことに驚いて、
ただ走るだけで泣きそうになったこと。
高い崖の上から見た朝焼け。
誰もいない森で見つけた小さな湖。
薬草を摘み、失敗しながらポーションを作り、
初めて自分の作ったものが役に立ったと知った時の嬉しさ。
この世界では、走れた。
跳べた。
遠くへ行けた。
知らなかった景色を見て、
知らなかった人たちと話して、
自分にもできることがあるのだと、何度も教えてもらった。
そして何よりも、フィリックスと出会えた。
倒れていた彼を助けた日。
不器用なのに、いつも自分を気遣ってくれたこと。
大きな手で自分の手を包み、危ないからと前へ立ち、
けれどミナトが守りたいと言えば、真剣な顔で受け止めてくれたこと。
恋人になってから、同じ部屋で眠り、
朝になれば隣にいることを確かめ、何気ない食事を分け合い、
二人で集めた小物を棚へ並べてきたこと。
その全部が、ひとつひとつ、胸の奥を熱くした。
ああ、こんなにもたくさん、もらっていたのだ。
自分は、こんなにも愛されていたのだ。
ミナトは、眠っているフィリックスの頬へ、
震える手を伸ばそうとした。
けれど、指先はもう届かない。
白い光が、二人の間へ静かに広がっていく。
強くて、
何でもできて、
けれど本当は誰よりも繊細で、優しいフィリ。
自分がいなくなったら、彼はきっと悲しむ。
きっと、何度も探す。
いつものように扉を開けて、
自分が「おかえり」と言うのを待ってしまうかもしれない。
そんな姿を想像するだけで、胸が張り裂けそうだった。
早く忘れてほしい。
自分がいなくても、ちゃんと笑ってほしい。
温かい食事を食べて、眠って、誰かを好きになって、生きてほしい。
けれど、
同じくらい強く、忘れないでほしいと思ってしまう。
二人で歩いた道も、
半分こにした焼き菓子も、
窓辺の鳥も、棚に並べた小さなものたちも。
自分が確かにフィリックスのそばにいて、
愛されて、幸せだった日々を。
忘れないでほしい。
忘れないで。
そう願うほどに、ミナトは自分のわがままを知ってしまう。
フィリックスには前を向いてほしいのに、
心のどこかでは、ずっと覚えていてほしいと願ってしまう。
その矛盾が、苦しくてたまらなかった。
「……ごめんね」
ミナトの声は、白い光の中へ溶けていく。
「……フィリ」
言いたかった。
大好きだと。
幸せだったと。
どうか悲しまないでと。
それでも、
忘れないでいてほしいと。
けれど言葉は、最後まで届かなかった。
視界が完全に白く染まり、フィリックスの姿が消える直前、
ミナトは繋いでいた手の温もりだけを、必死に覚えようとした。
その温もりを忘れなければ、
たとえ自分がどこへ行ってしまっても、
フィリックスと過ごした日々まで消えてしまうことはないのだと、
そう信じたかった。
ありがとう
大好き
届かなかったはずの言葉が、胸の奥で何度も何度も繰り返される。
そして次の瞬間、彼は冷たく眩しい現実の光の中へ引き戻された。
ミナトの世界から、フィリックスの寝顔が消えた。




