小さな遠出
翌朝、ミナトはいつもより少し早く目を覚ました。
まだフィリックスは眠っていたが、
ミナトは起こさないようにそっと寝台を抜け出し、
短くなった髪を耳へかけながら、静かに台所へ向かった。
昨日、森へ薬草を探しに行く約束をしたからだ。
ほんの少し外へ出て、必要な薬草を摘み、
二人で持っていく昼食を食べて帰るだけの予定だった。
けれどミナトにとっては、フィリックスと一緒に歩き、
知らない場所を見つけ、同じものを見て、
同じ時間を過ごすことができるだけで、十分に特別な一日になる。
パンを切り、昨日の残りの煮込みを
小さな容器へ詰め、果物を二つ包む。
フィリックスは食べる量が多いから、
いつもより少し多めに用意した。
ミナトが準備を終える頃、寝室の方から足音が聞こえた。
「早いな」
眠たそうな低い声に、ミナトは振り返る。
「起こしちゃった?」
「いや」
フィリックスは髪を少し乱したまま、台所の入口に立っていた。
「何をしてる」
「お弁当を作ってたの。今日、森へ行くでしょ?」
「ああ」
「フィリが昨日、楽しみにしてるって言ってくれたから」
フィリックスは、机の上に並んだ包みを見た。
それから、ミナトのそばへ近付き、
短くなった髪を指先で軽く整える。
「俺は、ミナトと行くなら何でもいい」
「でも、お弁当もあった方が楽しいよ」
「それはそうだ」
ミナトは嬉しそうに笑った。
二人は朝食を済ませ、必要な道具を持って家を出た。
森へ続く道は、ミナトにとって
何度か歩いたことのある場所だったが、
フィリックスと並んで歩くと、同じ道でも少し違って見えた。
フィリックスはミナトの歩く速さに合わせ、
少しでも足元が不安定な場所があれば、
言葉にしなくても先に手を差し出してくれる。
ミナトはその手を取るたびに、守られているのだと感じた。
けれど同時に、ただ守られているだけではなく、
フィリックスが自分と一緒に歩いてくれているのだと思うと、
胸の奥が温かくなる。
「この辺りに、青い葉の薬草がある」
フィリックスが足を止めた。
「前に言ってたやつ?」
「ああ。傷を治す薬に混ぜると、少し効きがよくなる」
ミナトは嬉しそうにしゃがみ込み、草の間を丁寧に探した。
青い葉の薬草は、普通の草とよく似ている。
けれど葉の裏側には、細い銀色の筋があり、触れるとわずかに冷たい。
「これかな」
「それだ」
ミナトは一枚ずつ傷付けないように摘み取り、小さな袋へ入れた。
「これで、今作ってる薬も少し良くなるかもしれない」
「また街へ持っていくのか」
「うん。必要な人がいるなら、届けたいな」
フィリックスはミナトを見下ろした。
「お前は、いつも誰かのことを考えてる」
「そうかな」
「ああ」
「でも、フィリが怪我した時に
使える薬を作りたいって思ったのが最初だよ」
ミナトは少し照れながら言った。
「フィリが無事なら、僕も安心できるから」
フィリックスは何も言わなかった。
けれどミナトの袋を持つ手へ自分の手を重ね、そっと受け取った。
「重いものは持つな」
「まだ全然重くないよ」
「持つ」
「ありがとう」
ミナトは素直に笑った。
薬草を摘み終えたあと、二人は少し開けた場所で昼食を取った。
ミナトが用意したパンと煮込みは、少し冷めていたけれど、
フィリックスは一口食べるたびに、何度も美味いと言った。
「そんなに言わなくてもいいよ」
ミナトが笑うと、フィリックスは真面目な顔で答える。
「美味いから言ってる」
「でも、恥ずかしい」
「慣れろ」
「無理かも」
「そのうち慣れる」
ミナトは少しだけ頬を赤くしながら、果物を半分に切った。
「じゃあ、フィリも慣れてね」
「何に」
「僕が、フィリのこと好きだって言うのに」
フィリックスは動きを止めた。
ミナトは果物を差し出したまま、少しだけ不安そうに彼を見ている。
「急に言ったから、びっくりした?」
「……びっくりした」
「ごめん」
「謝るな」
フィリックスはすぐに言った。
それから、ミナトの手から果物を受け取り、一口食べる。
「俺も好きだ」
ミナトは目を丸くした。
「今、言った」
「ああ」
「急に」
「お前が言ったからだ」
「それでも、嬉しい」
ミナトは小さく笑った。
「何度でも聞きたいな」
「言う」
「本当に?」
「ああ。何度でも言う」
フィリックスの言葉は、飾りのないものだった。
だからこそ、ミナトの胸へまっすぐに届いた。
二人は食事のあと、少しだけ森の奥へ進んだ。
そこには小さな水場があり、浅い水の中には、
陽の光を受けて淡く光る石がいくつも沈んでいた。
ミナトはその中から、丸くて薄い緑色の石を一つ見つけた。
「これ、棚に置いてもいいかな」
「いい」
「フィリも何か探す?」
「俺はいい」
「どうして?」
「ミナトが見つけたなら、それでいい」
「でも、二人で見つけたことにしたい」
フィリックスは少しだけ目を細めた。
「なら、二人で見つけた」
ミナトは嬉しそうに石を握った。
帰り道、フィリックスは何度もミナトの様子を確かめた。
歩き疲れていないか、寒くないか、足を痛めていないか。
ミナトはそのたびに大丈夫だと答えたが、
フィリックスが心配してくれることを嫌だとは思わなかった。
むしろ、自分が大切にされていることを、
何度も確かめさせてもらっているようで、
少しだけくすぐったく、けれど嬉しかった。
家へ戻ると、ミナトは緑色の石を棚の二段目へ置いた。
青い葉の薬草は、明日ポーションにするため乾かす場所へ並べる。
「また増えたね」
ミナトが言うと、フィリックスは棚を見つめた。
「増えた」
「今日のこと、忘れないでね」
「忘れない」
「お弁当も、果物も、森の水場も」
「ああ」
「僕が急に好きって言ったことも」
フィリックスは少しだけ黙った。
「忘れるわけがない」
ミナトは満足そうに笑った。
その夜、ミナトはいつもより少し早く眠くなった。
森を歩いたからだろうとフィリックスは言ったが、
ミナトは寝台へ入ってからも、
今日のことを思い出しては小さく笑っていた。
「楽しかった?」
フィリックスが尋ねる。
「うん。すごく」
「また行くか」
「行きたい」
「次は、もう少し遠くまで行ける」
「本当?」
「ああ。川の向こうに、花がたくさん咲く場所がある」
ミナトは目を輝かせた。
「見てみたい」
「暖かくなったら連れていく」
「約束?」
「ああ」
ミナトは安心したように、フィリックスの胸元へそっと額を寄せた。
「楽しみ」
「寝ろ」
「うん」
フィリックスはミナトの背中をゆっくり撫でた。
ミナトはその手の温かさを感じながら、目を閉じる。
棚に増えた緑の石も、明日作る新しい薬も、いつか見に行く花畑も。
二人の未来には、
まだたくさんの小さな約束があるのだと信じながら、
ミナトは静かな寝息を立て始めた。
フィリックスはしばらくその寝顔を見つめていた。
短くなった髪が頬へ少しかかっていたので、
起こさないようにそっと耳へかける。
「……絶対に連れていく」
眠っているミナトには届かない声で、フィリックスは小さく呟いた。
その言葉は、まだ何も知らない彼が、
未来へ向けて結んだ、ひとつの約束だった。




