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LIBERAL ONLINE  作者: Guri
36/64

窓辺の小さな鳥

 

 フィリックスの背中から降ろしてもらったあとも、

 ミナトの足にはまだ少しだけ疲れが残っていた。


 家の中へ入った途端に帰ってきた安心感と、

 今日一日を一緒に過ごせた嬉しさの方がずっと大きくて

 ミナトは靴を脱ぐより先に、

 胸元で大切に抱えていた小さな木彫りの鳥へ視線を落とした。


「フィリ、これ、どこに置こうか」


 ミナトがそう尋ねると、

 フィリックスは荷物を机の上へ置きながら、すぐに窓辺へ目を向けた。


 夕方の光がまだ少し残る窓際には、

 以前ミナトが摘んだ白い花を挿した小さな瓶が置かれている。


 花びらは少しだけしおれ始めていたものの、

 柔らかな香りはまだ部屋の中に残っていた。


「そこがいい」


「花の隣?」


「ああ」


 ミナトは窓辺へ近付き、そっと鳥の置物を置いた。


 翼を広げた小さな鳥は、白い花の隣に並ぶと、

 まるで窓の外へ飛び立つ前に羽を休めているように見えた。


「かわいい」


 ミナトは満足そうに笑った。


「家に、新しいものが増えたね」


「ああ」


「フィリが買ってくれたもの」


「お前が選んだものだ」


「でも、フィリと一緒に見つけたものだよ」


 その言葉に、フィリックスは少しだけ黙った。


 ミナトが言っていた、

 二人で出かけた時に見つけたものを増やしていく、

 という約束を思い出したのだろう。


 大きな宝石でも、名のある武器でもない。


 けれど、窓辺に置かれた小さな鳥には、

 今日歩いた街道の匂いも、半分こにした焼き菓子の甘さも、

 ミナトが楽しそうに店を覗き込んでいた横顔も、

 すべてが静かに閉じ込められているようだった。


「これから増える」


 フィリックスが低く言うと、ミナトは嬉しそうに振り返った。


「うん」


「棚も買う」


「まだ決めたばかりなのに?」


「決めたなら買う」


「フィリは行動が早いね」


「お前が忘れる前に」


「忘れないよ」


「俺は忘れない」


 ミナトは少しだけ目を丸くしたあと、ゆっくりと微笑んだ。


「じゃあ、僕も忘れない」


 外套を脱ぎ、手を洗ってから、二人は夕食の支度を始めた。


 街で買ったばかりの乾燥肉と根菜を使って、

 ミナトは少し濃いめのスープを作ることにした。


 外を歩いた日の夜には、体の中から温まるものがいいと、

 いつだったか本で読んだことがある。


 フィリックスは薪を足し、火加減を整えたあと、

 ミナトが切り分けた野菜を鍋へ入れる手元を、

少し離れたところから見守っていた。


「フィリ、座ってていいよ」


「手伝う」


「じゃあ、これを混ぜてくれる?」


 ミナトが木の匙を渡すと、フィリックスはそれを受け取り、

 鍋の中をゆっくりとかき混ぜ始めた。


 大剣を扱う手とは思えないほど慎重な動きで、

 野菜が崩れないように、鍋底に焦げ付かないように、

 丁寧に匙を動かしている。


「上手だね」


「混ぜるだけだ」


「でも、焦がさないようにするのって難しいよ」


「お前が言った通りにしてる」


「うん。だから上手なんだよ」


 フィリックスは少しだけ視線を逸らした。


 褒められることに慣れていないのか、

 ミナトが何気なく口にする優しい言葉のたびに、

 彼は少しだけ困ったような顔をする。


 けれど、ミナトがその表情を見て笑うと、

 フィリックスは決して嫌そうにはしなかった。


 夕食の間、ミナトは街で見たものを何度も話した。


 色のついた硝子瓶のこと。


 季節市にはもっとたくさんの店が並ぶらしいこと。


 雑貨屋にあった、羽根の形をした髪飾りのこと。


 フィリックスは短く相槌を打ちながら聞いていたが、

 ミナトが「次はあのお店も見たい」と言うたびに、

 まるで大事な依頼を受けるように真剣な顔で頷いていた。


「季節市って、きっと人がたくさん来るよね」


「来る」


「少し緊張するかも」


「俺のそばにいろ」


「うん」


「手も繋ぐ」


「うん」


「離れたら、すぐ探す」


 ミナトは匙を持ったまま、少しだけ笑った。


「フィリは、僕がいなくなると思ってる?」


「思ってない」


「じゃあ、どうしてそんなに言うの?」


 フィリックスは少し黙った。


「お前が見えないと、落ち着かない」


 その言葉には、冗談のような軽さはなかった。


 ミナトはすぐに笑うことができず、

 代わりに、食卓の上へ置いていた自分の手を少しだけ動かした。


 フィリックスも気付き、手のひらを重ねる。


「大丈夫だよ」


 ミナトは柔らかく言った。


「僕、フィリのそばにいる」


 フィリックスは、繋いだ手を見つめた。


「……ああ」



 食後、ミナトは今日買った空き瓶を棚へ並べ始めた。


 透明な瓶と、水色の瓶。


 形は同じでも、光を受けるとそれぞれ違う色を返して、

 並べるだけで作業台の周りが少し華やかになった。


 フィリックスはそのそばで、

 街から持ち帰った荷物を片付けていたが、

 ミナトが水色の瓶を一つ手に取って、

 窓の光へ透かしているのを見て、ふと尋ねた。


「それに何を入れる」


「まだ決めてない」


「回復薬じゃないのか」


「回復薬でもいいけど、

  せっかくきれいだから、特別なものを入れたいなって」


「特別なもの」


「うん。たとえば、すごく大変な依頼を終えた時に作る薬とか」


 フィリックスは少しだけ眉を寄せた。


「大変な依頼は受けなくていい」


「フィリ」


「危ないものは、俺が行く」


「でも、僕もできることがあるよ」


「知ってる」


「じゃあ」


「お前ができることと、お前が危ない目に遭うことは別だ」


 ミナトは少しだけ困ったように笑った。


 フィリックスが自分を心配してくれることは嬉しい。


 けれど、ただ守られているだけではなく、

 自分もフィリックスの力になりたいという気持ちも、

 ミナトの中にはいつもあった。


「じゃあ、危ない場所には一緒に行こう」


 ミナトは言った。


「フィリが前にいて、僕は少し後ろにいるの」


「後ろでも危ない」


「でも、フィリが怪我したら、すぐに薬を作れるよ」


「怪我しない」


「怪我しないようにしても、する時はあるでしょ?」


 フィリックスは答えなかった。


 ミナトは水色の瓶をそっと棚へ戻し、少しだけ近付いた。


「僕、フィリを守りたいんだよ」


 フィリックスの目が、わずかに揺れた。


「守られるのは、俺の方だと?」


「違うよ」


「なら」


「フィリは、僕を守ってくれるでしょ?」


「ああ」


「僕も、フィリを守りたい」


 ミナトはそう言って、フィリックスの手を取った。


「強い魔物を倒すことはできないけど、

  フィリが痛くないように薬を作ったり、

  疲れた時にごはんを作ったり、

  帰ってきた時におかえりって言ったり……

  そういうことなら、僕にもできるから」


 フィリックスは、しばらく何も言わなかった。


 彼にとって守るということは、

 剣を振るい、敵を退け、危険から遠ざけることだった。


 けれどミナトは、もっと静かで、

 もっと柔らかな形で、自分を守ろうとしている。


 傷ついた身体だけではなく、疲れた心まで包むように。


「ミナト」


「なに?」


「お前は、もう守ってる」


 ミナトは少しだけ目を丸くした。


「僕が?」


「ああ」


 フィリックスは、繋いだ手を自分の胸元へ引き寄せた。


「俺がここにいるのは、お前が助けたからだ」


「それは、フィリが生きようとしてくれたからだよ」


「違う」


「違わないよ」


「お前が手を離さなかった」


 低い声には、あの日の記憶が滲んでいた。


 血に濡れた外套。


 熱に浮かされ、誰にも近付くなと言っていた自分。


 それでもミナトは、怖がることも、見捨てることもせず、

 ただ何度も名前を呼び、温かい薬を飲ませ、

 眠れるまでそばにいてくれた。


「だから、俺はお前を守る」


 フィリックスは言った。


「でも、お前が俺を守りたいと言うなら、拒まない」


 ミナトは、ほっとしたように笑った。


「うん」


「ただし、一人で無茶はするな」


「フィリもね」


「俺は」


「フィリも」


 ミナトが少しだけ頬を膨らませると、

 フィリックスは短く息を吐いた。


「……分かった」


「本当?」


「ああ」


「約束?」


「ああ」


 ミナトは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、約束」


 その夜、二人は寝室へ入る前に窓辺の小さな鳥をもう一度見た。


 外はすっかり暗くなり、窓硝子には暖炉の火がぼんやりと映っている。


 白い花は少しずつ枯れていく。


 けれど、その隣に置かれた鳥は変わらず翼を広げ、

 静かに二人の家を見守っていた。


「明日、花を替えよう」


 ミナトが言う。


「ああ」


「今度は、フィリと一緒に摘みに行きたい」


「行く」


「それから、棚も見に行こうね」


「ああ」


「鳥の隣に置くもの、もっと増やしたいから」


 フィリックスは、ミナトの横顔を見つめた。


「増やす」


「うん」


 寝室へ入るとミナトはいつものように寝台の片側へ入り、

 フィリックスもその隣へ横になった。


 昨夜よりも少しだけ自然に、二人の手は布団の中で触れ合う。


 ミナトが指先を重ねると、フィリックスは迷わずその手を包んだ。


「フィリ」


「なんだ」


「今日は、たくさん歩いたね」


「ああ」


「でも、疲れたより楽しかった方が大きい」


「ならよかった」


「フィリは?」


「楽しかった」


「街に行ったから?」


 フィリックスは少しだけ考えた。


「お前が楽しそうだったから」


 ミナトは目を閉じたまま、ゆっくりと笑った。


「僕も、フィリが一緒だったから楽しかった」


 フィリックスは、ミナトの額へそっと唇を落とした。


 それは短く、優しく、眠る前の挨拶のような口づけだった。


 ミナトは少しだけ驚いて目を開けたが、

 すぐに安心したように目を細める。


「おやすみのキス?」


「ああ」


「毎日してくれる?」


「お前が嫌じゃなければ」


「嫌じゃないよ」


 ミナトは少しだけ照れながら、フィリックスの方へ顔を向けた。


「僕もしていい?」


 フィリックスは黙って頷いた。


 ミナトは少しだけ身体を寄せ、

 フィリックスの頬へそっと唇を触れさせた。


 触れるだけの、小さな口づけだった。


「おやすみ、フィリ」


「ああ。おやすみ、ミナト」


 二人は繋いだ手を離さないまま、ゆっくりと眠りへ落ちていった。


 窓辺の小さな鳥は、暗い部屋の中で静かに翼を広げていた。


 今日という一日を覚えているように。


 これから増えていく、二人の幸せな日々を待っているように。



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