隣で迎える朝
翌朝、ミナトはいつもよりもゆっくりと目を覚ました。
昨日の雨はすっかり止んでいたらしく、
濡れた庭の土から立ちのぼる淡い匂いがする。
朝の光は雲の切れ間を通って柔らかく差し込み、
白いシーツの上へ淡い金色の四角を作っていた。
けれどミナトが最初に気付いたのは、いつもの寝室の景色ではなかった。
自分の手が、誰かの大きな手に包まれたままになっていることだった。
眠る前に繋いだはずの手は、
夜のあいだに離れてしまうかもしれないと思っていたのに、
フィリックスは眠っている今も、
まるでミナトがそこにいることを確かめるように、
指先まで優しく絡めたまま離していなかった。
ミナトは少しだけ身じろぎをした。
するとすぐ隣で、低く穏やかな寝息が聞こえる。
フィリックスは横向きになって眠っていた。
いつもなら朝早く起きて先に暖炉へ火を入れているはずの彼が、
今朝はまだ目を閉じたままで、長い睫毛の影を頬へ落としながら、
少しだけ無防備な表情をしていた。
強くて、どんな時でも周囲を警戒しているように見えるフィリックスが、
自分の隣でこんなふうに眠っている。
そのことが嬉しくて、ミナトはしばらく
起こさないように息を潜めながら彼を見つめていた。
「……フィリ」
呼ぶつもりはなかった。
ただ、声に出してみたくなっただけだった。
けれど、フィリックスはすぐに薄く目を開けた。
眠りの浅い人なのだろうと、ミナトは以前から思っていた。
「起きたか」
少しだけ掠れた朝の声が、すぐそばで聞こえる。
「うん。ごめん、起こしちゃった?」
「起きてた」
「本当に?」
「ああ」
フィリックスはそう答えたが、目元にはまだ眠気が残っていた。
ミナトが少し笑うと、フィリックスは繋いだままの手を見下ろし、
それからミナトの顔へ視線を戻す。
「眠れたか」
「うん。すごくよく眠れたよ」
「狭くなかったか」
「全然」
「俺が動いたりは」
「してないよ。たぶん」
「たぶん?」
「僕も寝ちゃったから、分からないけど」
ミナトは少しだけ笑った。
「でも、朝起きたらフィリが隣にいて、
手も繋いだままで……なんだかすごく安心した」
フィリックスの目が、わずかに細められる。
「なら、よかった」
「フィリは眠れた?」
「ああ」
「本当に?」
「……少し遅くまで起きてた」
「どうして?」
フィリックスは少しだけ黙った。
「お前が隣にいるのが、嬉しかった」
ミナトの頬がゆっくりと赤くなる。
恋人になってからフィリックスは以前よりも
自分の気持ちを言葉にしてくれるようになった。
そのたびにミナトは照れてしまうのに、
聞けることが嬉しくて、もっと聞きたいと思ってしまう。
「僕も」
ミナトは小さな声で言った。
「フィリが隣にいるの、嬉しかった」
フィリックスは何も言わず、ミナトの手を少しだけ強く握った。
それから、布団の中で身体を起こし、
空いた方の手でミナトの髪をゆっくりと撫でる。
「今日も一緒に起きる」
「うん」
「明日も」
「うん」
「その次も」
ミナトは目を細めた。
「毎日?」
「ああ」
「じゃあ、僕も毎日、フィリにおはようって言う」
「言え」
「うん」
二人が寝台から出たのは、それからしばらく経ってからだった。
すぐに朝食の支度を始めてもよかったのに、
フィリックスはミナトが冷えないようにと毛布を肩へ掛け直し、
ミナトはフィリックスの髪が少し乱れていることに気付いて、
笑いながら手櫛で整えてあげた。
「寝癖ついてる」
「どこだ」
「ここ」
ミナトはフィリックスの前髪をそっと押さえる。
けれど竜人族の血を引く硬めの髪は、すぐに元の形へ戻ってしまう。
「戻っちゃうね」
「放っておけ」
「でも、少しだけ跳ねてる」
「お前にしか見えない」
「僕には見えるよ」
「ならいい」
ミナトは少しだけ首を傾げた。
「いいの?」
「ああ」
「どうして?」
フィリックスは、ミナトの指先が
自分の髪へ触れていることを気にするように、ほんの少し目を伏せた。
「お前が触るなら」
その言葉に、ミナトはまた頬を赤くした。
「フィリは、朝からずるい」
「何が」
「そういうことを言うところ」
「思ったから言った」
「うん、知ってる」
ミナトは笑いながら手を離した。
居間へ向かうと、昨夜のうちに残しておいた薪が
まだ少し暖炉の中で赤く残っていた。
フィリックスが火を起こし直しているあいだ、
ミナトは棚から小麦粉と卵を取り出し、朝食用の薄い焼き菓子を作ることにした。
雨上がりの朝には、少し甘いものが食べたくなる。
それはミナトがこの世界で覚えた、小さな贅沢のひとつだった。
「今日は、甘いのにするね」
「朝からか」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ、蜂蜜を少しだけ使う」
「多くてもいい」
ミナトは振り返った。
「フィリ、甘いもの好き?」
「お前が作るなら食べる」
「それは好きってこと?」
「……たぶん」
その答えが可笑しくて、ミナトは声を立てずに笑った。
生地を混ぜていると、フィリックスが後ろから近付いてきた。
何か手伝うのかと思ったが、彼はミナトの隣に立ったまま、
しばらく黙って作業を見ている。
「フィリ?」
「手伝うことはあるか」
「うーん……お皿を出してくれる?」
「ああ」
フィリックスは棚から二人分の皿を取り出した。
以前なら、ミナトがどの皿を使うか迷っているうちに、
フィリックスは適当に近いものを取っていた。
けれど今日は、白い縁取りの皿と、
淡い緑色の小花が描かれた皿を並べてから、ミナトの方を見た。
「どっちがいい」
「緑の方」
「なら俺は白を使う」
「フィリ、僕の好きな方を覚えてたの?」
「ああ」
「いつから?」
「前から」
ミナトは、少しだけ言葉に詰まった。
フィリックスは、口数が少ないぶん、いつもよく見ている。
ミナトが寒いのが苦手なことも、
苦い薬草茶よりも花の香りがする茶葉を好むことも、
疲れている時には窓際で静かに本を読むことも。
それらを特別なことのように言わず、当たり前のように覚えていてくれる。
「ありがとう」
ミナトが言うと、フィリックスは少しだけ首を傾げた。
「何が」
「覚えててくれて」
「ああ」
「嬉しいんだよ」
フィリックスはしばらくミナトを見ていた。
それから、低い声で言う。
「これからも覚える」
焼き上がった薄い焼き菓子へ、ミナトは蜂蜜を少しだけ垂らした。
朝の光を受けて、黄金色の蜜がゆっくりと広がっていく。
二人で食卓へ座り、一口食べると、
外はまだ少し肌寒いのに、家の中だけは不思議なくらい温かかった。
「おいしい?」
ミナトが尋ねる。
「ああ」
「甘すぎない?」
「ちょうどいい」
「よかった」
フィリックスは自分の皿から一枚取り、ミナトの皿へそっと置いた。
「もう一枚食べろ」
「フィリの分じゃないの?」
「作ったのはお前だ」
「でも、フィリにも食べてほしいよ」
「食べてる」
「じゃあ、半分こにしよう」
ミナトは一枚を半分に割り、片方をフィリックスの皿へ置いた。
「これなら、二人とも食べられる」
フィリックスはその小さな半分を見つめてから、ミナトを見る。
「半分こが好きか」
「うん。フィリとなら」
「そうか」
その一言だけで、フィリックスの表情が少しだけ柔らかくなる。
朝食のあと、二人は庭へ出た。
昨日の雨で濡れた土は柔らかく、薬草畑の葉にはまだ透明な雫が残っている。
ミナトはしゃがみ込み、
葉の裏に虫がついていないかを一枚ずつ確かめていく。
フィリックスはその少し後ろに立ち、ミナトが足を滑らせないようにと、
何も言わずにいつでも手を伸ばせる距離を保っていた。
「この薬草、もう少ししたら摘めそう」
ミナトが言う。
「何に使う」
「回復薬。前より少しだけ香りも良くできるかもしれない」
「香りも必要か」
「飲む時に、少しでも嫌じゃない方がいいでしょ?」
フィリックスは少し考えた。
「お前らしい」
「そうかな」
「ああ。痛みを治すだけじゃなくて、飲む人が少しでも楽になるように考える」
ミナトは薬草の葉へ触れながら、ゆっくりと笑った。
「痛い時って、体だけじゃなくて、気持ちも少し苦しいから」
フィリックスは何も言わなかった。
けれど、その言葉を聞いた時、
かつてこの家へ運び込まれた自分の姿を思い出していた。
血の匂いが染み付いた外套。
熱に浮かされ、誰の手も借りたくないと突き放していた自分。
そんな自分へ、ミナトはただ傷を治すだけではなく、
温かい湯を用意し、苦くない薬を作り、眠れるまでそばにいてくれた。
痛みを治すためだけではなく、苦しくないようにと。
その優しさに、自分は救われたのだと思う。
「ミナト」
「なに?」
フィリックスが呼ぶと、ミナトはすぐに振り返った。
「お前の薬は、よく効く」
「うん。そう言ってもらえると嬉しい」
「傷だけじゃない」
ミナトは少しだけ目を丸くした。
フィリックスはそれ以上を言わず、
しゃがみ込んでいるミナトの前へ手を差し出した。
「立てるか」
「うん」
ミナトがその手を取ると、フィリックスはゆっくりと引き上げた。
立ち上がったあとも、二人の手は自然に繋がったままだった。
「今日は、街へ行くか」
フィリックスが尋ねる。
「急に?」
「薬草の瓶が減ってる。砂糖も少ない」
「じゃあ、行きたい」
ミナトの目が少し明るくなる。
街へ行くことは、ミナトにとって今でも小さな冒険だった。
家から少し離れた森まで歩き、馬車に乗り、
たくさんの人が行き交う石畳の通りへ出る。
市場には見たことのない食材や、珍しい布、
遠い国から運ばれてきた雑貨が並び、ただ歩くだけでも、
世界が自分の知らないもので満ちていることを感じられる。
「今から準備して、昼前には着く」
「うん。お弁当も持っていこうか?」
「街で食べてもいい」
「でも、フィリと一緒に外で食べるのも好き」
フィリックスは少しだけ考えてから頷いた。
「なら、持っていく」
ミナトは嬉しそうに笑った。
同じ部屋で目を覚まし、同じ食卓で朝食を食べ、
手を繋いで庭へ出て、これからは一緒に街へ向かう。
一つひとつは、どれも大きな出来事ではない。
けれど、ミナトにとっては、これまで手に入らなかった当たり前が、
フィリックスといることで少しずつ増えていくようだった。
そしてフィリックスにとっても、
ミナトが楽しそうに明日の話をすることは、何よりも守りたいものだった。
「準備しよう」
ミナトが言う。
「ああ」
二人は繋いだ手を離さないまま、家の中へ戻った。
今日もまた、新しい一日が始まる。
二人で迎える朝が、これから先も何度も続くのだと信じながら。




