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LIBERAL ONLINE  作者: Guri
33/64

同じ部屋の灯り

 

 翌朝、ミナトはいつもより少し遅く目を覚ました。


 夜のあいだに降ったらしい細かな雨が窓硝子に淡く張り付き、

 庭の薬草畑は朝の光を受ける前の灰色に包まれている。


 家の中にはまだ誰も大きな音を立てていない静かな時間が残っていた。


 寝返りを打ったミナトは、枕元に置いていた小さな魔石時計へ目を向け、

 それから昨夜のことを思い出して、掛け布団の端を少しだけ握りしめた。


 星を見たこと。


 フィリックスと手を繋いだこと。


 自分からもう一度キスをしてほしいと言ったこと。


 そして、毎日一緒にごはんを食べようと約束したこと。


 思い出すだけで、胸の奥が温かくなるのに、

 同時にどうしようもなく恥ずかしくなって、ミナトは枕へ顔を埋めた。


「……おはようって言えるかな」


 小さく呟いてから、ミナトは自分で少し笑った。


 恋人になってからも、朝は毎日来る。


 フィリックスはいつものように暖炉へ火を入れ、

 朝食を作るために湯を沸かし、

 ミナトはいつものように眠気を抱えながら居間へ向かう。


 変わらないことがたくさんあるからこそ、

 その中に少しずつ増えていく特別なことが、余計に嬉しく感じられるのだった。


 身支度を整えて居間へ入ると、フィリックスは窓際に立ち、外の雨を見ていた。


 黒に近い髪の先が、朝の薄い光を受けてわずかに青く見える。


 ミナトが扉を開けた音に気付き、フィリックスはすぐに振り返った。


「起きたか」


「うん。おはよう、フィリ」


「ああ。おはよう」


 いつもの挨拶。


 けれど、視線が重なったあとに訪れる短い沈黙は、

 昨日までよりもずっと柔らかく、二人とも少しだけ笑ってしまった。


「雨だね」


 ミナトが窓の外を見ながら言うと、フィリックスは頷いた。


「今日は畑に出るな」


「うん。薬草も、昨日のうちに見ておいたから大丈夫だと思う」


「なら、家の中で作業しろ」


「フィリは?」


「武器の手入れをする」


「じゃあ、一緒にいられるね」


 ミナトが何気なくそう言うと、フィリックスは少しだけ目を細めた。


「いる」


 その返事は短かったが、ミナトには十分だった。


 朝食を終えたあと、二人は居間の机を挟んで、それぞれの作業を始めた。


 ミナトは乾かしておいた薬草を小さな乳鉢へ入れ、

 木の杵でゆっくりとすり潰していく。


 淡い緑色の粉末が少しずつ細かくなり、

 薬草特有の優しい香りが室内へ広がっていった。


 フィリックスはその向かいで、大剣の刃を磨いていた。


 硬い布が金属の表面を撫でる音と、

 ミナトが薬草をすり潰す音が、雨音へ混じるようにして静かに続く。


 会話がなくても、二人の間には不思議と穏やかな空気があった。


 時々、ミナトが顔を上げれば、フィリックスがこちらを見ている。


 目が合うと、フィリックスは何事もなかったように大剣へ視線を戻すのに、

 その耳の先だけが少し赤くなっていることを、

ミナトはもう何度も見つけていた。


「フィリ」


「なんだ」


「さっきから、何回もこっち見てる」


 フィリックスの手が止まる。


「見てない」


「見てたよ」


「……見てた」


 すぐに認めるところが、ミナトには可笑しくて、思わず笑ってしまった。


「どうして?」


 フィリックスは少し黙った。


 それから、大剣を机の端へ置き、低い声で言った。


「お前がいるから」


「それだけ?」


「ああ」


「僕、毎日いるよ」


「分かってる」


「じゃあ、毎日見るの?」


「見る」


 迷いのない答えに、ミナトの頬が少しだけ熱くなる。


「フィリは、恋人になってから、前よりたくさん言うようになったね」


「言わないと伝わらない」


「うん」


「伝えたい」


 ミナトは、杵を持つ手を止めた。


 フィリックスが、

 自分の気持ちを言葉にしようとしてくれることが、嬉しかった。


 強くて、あまり多くを話さない人だと思っていた彼が、

 恋人になった今は、自分へ向ける想いを隠さずに伝えようとしている。


 そのことが、ミナトの胸を静かに満たしていく。


「僕も、伝えるね」


 ミナトは微笑んだ。


「フィリがいると、嬉しいって」


 フィリックスは、少しだけ息を止めたように見えた。


 それから、目を逸らしながら小さく頷く。


「ああ」


 昼を過ぎる頃、雨は少し弱くなった。


 ミナトは作業台の上に並べた小瓶を眺めながら、

 出来上がったばかりの回復薬を一本手に取る。


 淡い水色の液体が、瓶の中でゆっくり揺れた。


「これ、前より少し良くできたかも」


 フィリックスが近付いてくる。


「どこが違う」


「前は傷を治すのが中心だったけど、今回は痛みも和らげるようにしてみたの」


「使えるか」


「たぶん。でも、試すなら軽い擦り傷くらいがいいな」


「俺が試す」


「駄目だよ」


 ミナトは慌てて瓶を胸元へ抱えた。


「わざと怪我しないで」


「しない」


「本当?」


「ああ」


「フィリ、前に『試す』って言って、

  重い荷物を一人で持ち上げて腕を痛めたことがあったよ」


「それは怪我じゃない」


「痛かったなら怪我だよ」


 フィリックスは少しだけ眉を寄せた。


「お前は、俺のことをよく見てる」


「恋人だから」


 ミナトが言うと、フィリックスは黙った。


 それから、ゆっくりとミナトの頭を撫でる。


「そうだな」



 午後の作業が一段落した頃、フィリックスはふと、

 廊下の奥にある二つの寝室へ目を向けた。


 ミナトの部屋と、自分の部屋。


 この家へ来たばかりの頃、フィリックスはまだ傷だらけで、

 いつでも出て行けるようにと、自分から一番端の小さな部屋を選んだ。


 ミナトは何も言わず、

 その部屋を温め、食事を運び、

 夜になるたびに痛みがないか確かめてくれた。


 それから少しずつ、フィリックスはこの家へ帰るようになった。


 けれど寝る時だけは、ずっと別々の部屋だった。


 今も、それが嫌だったわけではない。


 ミナトが安心して眠れることが、何よりも大切だった。


 ただ、恋人になってから、夜になると時々思う。


 眠る前に、もう少しだけミナトの声を聞いていたい。


 朝、最初に見るのがミナトであればいい。


 そんな願いを抱くようになった。


「ミナト」


「なに?」


 フィリックスの声が少し低くなったことに気付き、

 ミナトは作業台から顔を上げた。


 フィリックスはすぐには言葉を続けなかった。


 大きな手が、少しだけ握られている。


 依頼の前でも、強い魔物と向き合う時でも迷わない人が、

 今は自分の言葉を慎重に選んでいることが分かって、ミナトは静かに待った。


「寝室のことだが」


 ミナトの目が少し丸くなる。


「うん」


「今まで通り、別でもいい」


 フィリックスはまずそう言った。


「お前が一人の方が眠れるなら、何も変えない」


 ミナトはフィリックスを見つめた。


「でも」


 フィリックスは少しだけ視線を落とした。


「俺は……同じ部屋で寝たいと思ってる」


 その言葉が、静かな居間へ落ちた。


 ミナトの頬が、ゆっくりと赤くなる。


 恋人になったからといって、何もかも急に変えなくていい。


 そう思っていた。


 けれど、

 フィリックスが自分と同じ部屋で眠りたいと思ってくれていることは、

 驚きよりも先に、胸の奥を温かくした。


「一緒に寝るって」


 ミナトは少しだけ言葉を探した。


「……同じベッドで?」


「ああ」


 フィリックスはすぐに頷いた。


「嫌なら、しない」


「嫌じゃないよ」


 ミナトは慌てて答えた。


「嫌じゃないけど、ちょっとびっくりしただけ」


 フィリックスの表情が、少しだけ緩む。


「無理をするな」


「無理じゃないよ」


 ミナトは両手を胸の前で重ねた。


「僕も、フィリと一緒に眠れたら嬉しいと思う」


 その言葉を聞いたフィリックスは、しばらく動かなかった。


 それから、確かめるように尋ねる。


「本当にか」


「うん」


 ミナトは小さく笑った。


「だって、フィリが別の部屋にいるって分かってても、

  眠る前に少しだけ寂しいなって思うことがあったから」


 フィリックスの目が、わずかに揺れる。


「俺もだ」


「本当?」


「ああ」


「じゃあ、一緒にしよう」


 ミナトがそう言うと、フィリックスはゆっくりと近付いた。


「今日からか」


「今日から」


「急じゃないか」


「フィリが言ったのに?」


「お前が大丈夫かを聞いてる」


 ミナトは少しだけ考えた。


 そして、照れくさそうに笑った。


「大丈夫。フィリが一緒なら」


 その答えに、フィリックスはミナトの頬へそっと手を添えた。


「何もしない」


「うん」


「ただ一緒に寝る」


「うん」


「嫌になったらすぐ言え」


「うん」


「眠れなかったら、別の部屋へ戻ってもいい」


「うん」


 フィリックスが一つずつ確認する様子が、ミナトにはとても優しく感じられた。


 だからミナトは、自分からフィリックスの手へ頬を少し寄せた。


「フィリ」


「なんだ」


「僕、たぶん大丈夫だよ」


「たぶん?」


「ちょっと緊張するから」


 フィリックスは一瞬だけ黙ったあと、低く笑った。


「俺もだ」


「フィリも?」


「ああ」


「フィリって、緊張するんだね」


「お前のことならする」


 ミナトはまた頬を赤くした。


 夕方になると、二人はミナトの寝室へ寝具を運び始めた。


 フィリックスの部屋にあった厚手の毛布と、予備の枕、

 それからミナトが以前から使っていた柔らかな敷布。


 どちらの部屋を使うか少し迷ったが、ミナトの部屋の方が窓が大きく、

 朝の光が入りやすいことと、薬草の香りがほのかに残ることから、

 フィリックスが「ここがいい」と言った。


「でも、ベッドは一人用だよ」


 ミナトが寝台を見ながら言うと、フィリックスは少し考えた。


「広げる」


「広げられるの?」


「木材はある」


「今から作るの?」


「ああ」


「フィリ、今日は雨で外に出ないって言ってたのに」


「庭の端にある木材を使うだけだ」


「濡れるよ」


「すぐ終わる」


 ミナトは少し困ったように笑った。


「じゃあ、僕も手伝う」


「駄目だ」


「でも」


「お前は布を選べ」


「それも大事なお手伝い?」


「ああ。かなり大事だ」


 ミナトは少しだけ嬉しくなって頷いた。


「じゃあ、いちばん柔らかいのを選ぶね」


 フィリックスは雨の弱まった庭へ出て、

 屋根の下に積んであった木材を運び込んだ。


 大きな音を立てないように気を付けながら、

 既存の寝台の横へ木枠を足し、しっかりと固定していく。


 ミナトはそのそばで、

 洗って乾かしておいた白いシーツと、淡い緑色の毛布を広げた。


 寝台が少しずつ広くなっていくのを見ていると、

 本当に二人で眠るのだという実感がゆっくり湧いてきて、

 ミナトは何度も頬へ手を当てた。


 夜になる頃には、寝台は二人が横になっても十分な広さになっていた。


 白いシーツの上には、柔らかな毛布が二枚重ねられ、枕も二つ並んでいる。


 並んだ枕を見つめているだけで、ミナトの胸は少しだけ早く鳴った。


「できたな」


 フィリックスが言う。


「うん」


「狭くないか」


「大丈夫だと思う」


「嫌なら、俺は床でもいい」


「駄目だよ」


 ミナトはすぐに首を振った。


「一緒に寝るために広げたのに、フィリが床で寝たら意味がないよ」


 フィリックスは少しだけ目を細めた。


「そうだな」


 夕食を終え、いつもより少し早く寝室へ向かう時、

 ミナトは自分の足音まで気になってしまった。


 何度も入ったことのある部屋なのに、今夜はまるで初めて来る場所のように感じる。


 フィリックスもまた、いつもより少しだけゆっくり歩いていた。


 寝台の前に立ち、二人はしばらく何も言えなかった。


「……先に入る?」


 ミナトが小さく尋ねる。


「お前が先でいい」


「フィリは?」


「あとで入る」


「でも、フィリの方が大きいから、先に入った方が場所が決めやすいんじゃない?」


 フィリックスは少しだけ考えた。


「じゃあ、一緒に入るか」


 ミナトの頬がまた赤くなる。


「うん」


 二人はゆっくりと寝台へ入った。


 広げたばかりの寝台は、二人で横になっても窮屈ではない。


 けれど、隣にフィリックスがいるというだけで、

 ミナトはどこへ手を置けばいいのか分からなくなってしまう。


 仰向けになって天井を見つめていると、すぐ隣からフィリックスの呼吸が聞こえた。


「眠れそうか」


「まだ分からない」


「俺もだ」


「フィリも眠れない?」


「ああ」


 ミナトは少しだけ笑った。


「じゃあ、少しお話しする?」


「何を」


「今日作ったポーションのこととか」


「聞く」


「それから、明日は晴れたら畑を見に行きたいな」


「ああ」


「フィリも一緒に来てくれる?」


「行く」


「それから」


 ミナトが話し始めると、フィリックスは静かに聞いていた。


 いつもなら別々の部屋で、それぞれ眠る前に考えていたことを、

 今はすぐそばにいる相手へ言葉にできる。


 それが嬉しくて、ミナトは小さなことをいくつも話した。


 庭に新しく植えたい薬草のこと。


 街で見つけた小さな鳥の置物のこと。


 いつかフィリックスと一緒に、もっと遠くの湖を見に行きたいこと。


 フィリックスはその一つひとつに短く答え、

 時々「行く」「買う」「一緒に見る」と言ってくれた。


 やがてミナトの声が少しずつ小さくなっていく。


「フィリ」


「なんだ」


「隣にいるね」


「ああ」


「なんだか、安心する」


 フィリックスは少しだけ身体を横へ向けた。


「手を繋ぐか」


 ミナトは目を閉じたまま、小さく頷いた。


「うん」


 布団の中で、フィリックスの手がミナトの手を探す。


 指先が触れ、ゆっくりと重なる。


 大きな手のひらに包まれると、

 ミナトはようやく肩の力を抜くことができた。


「フィリ」


「なんだ」


「おやすみ」


「ああ。おやすみ、ミナト」


 フィリックスの声は、すぐ隣で聞こえた。


 それだけで、ミナトの胸は満たされる。


 少しして、ミナトの呼吸がゆっくりと深くなっていく。


 眠りに落ちたことを確かめたフィリックスは、

 繋いだ手を離さないまま、暗い天井を見つめていた。


 すぐそばにいる。


 手を伸ばせば触れられる。


 朝になれば、同じ部屋でミナトが目を覚ます。


 それは、

 これまでフィリックスが望んでいたものよりもずっと静かで、

 ずっと大きな幸福だった。


 フィリックスは眠るミナトの横顔を見つめ、声に出さないまま思う。


 必ず守る。


 この穏やかな寝息も、温かな手も、ミナトが安心して眠れる夜も。


 何があっても、自分が守る。


 その夜、二人は初めて同じ部屋で眠った。


 まだ少しだけ照れくさくて、けれど確かに幸せな、

 恋人としての新しい夜だった。





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