恋人のいる食卓
「おかえり」と言ったあとも、
ミナトはしばらくフィリックスの手を離せずにいた。
無事に帰ってきたことを確かめるように
指先から伝わる温度をそっと感じていると、
フィリックスは何も急かさず、
むしろ自分の方からミナトの手を包み込むように握り直し、
外気で少し冷えた大きな手のひらをゆっくりと重ねた。
「冷えてるね」
ミナトが言うと、フィリックスは自分の手を見下ろした。
「森の奥は少し寒かった」
「先に火のそばへ行こう。ごはんも、もうできてるよ」
「ああ」
二人は手を繋いだまま居間へ戻った。
以前ならフィリックスが帰ってきた時には、
ミナトがすぐに怪我をしていないか確かめ、
フィリックスは大丈夫だと短く答えて、
それからいつものように夕食の支度へ移っていた。
けれど今は、帰ってきたことそのものが嬉しくて、
食卓へ向かうほんの短い距離さえ、
二人にとっては少し特別な時間になっている。
暖炉の火は昼のうちから絶やさないようにしていたため、
赤い炭の上で穏やかに揺れていた。
鍋の中では、根菜と肉の煮込みがまだ温かい湯気を立てていて、
香草と柔らかく煮込まれた野菜の匂いが、
冷えた身体へ静かに染み込んでいくようだった。
「座ってて」
ミナトが言うと、フィリックスは椅子へ腰を下ろした。
「ごはん、持ってくる」
「俺が運ぶ」
「でも、フィリは帰ってきたばかりだよ」
「お前は昼から作ってただろ」
「それは、フィリが帰ってくると思ったから楽しかったの」
ミナトがそう言うと、フィリックスは一瞬だけ動きを止めた。
それから、何かを堪えるように視線を逸らしながら、低い声で言う。
「そういうことを、何でもないみたいに言うな」
「え?」
「……いや。言っていい」
ミナトは少しだけ首を傾げたが、
フィリックスの耳の先がわずかに赤くなっていることに気付き、
思わず小さく笑った。
「フィリ、照れてる?」
「照れてない」
「本当かな」
「本当だ」
「じゃあ、僕もこれからいっぱい言うね」
フィリックスはミナトを見た。
「何を」
「フィリが帰ってくるの、嬉しいって」
その言葉に、フィリックスはしばらく何も言わなかった。
けれど、やがて立ち上がると、ミナトのそばへ近付き、
髪を撫でるように一度だけ頭へ手を置いた。
「言え」
「うん」
「何度でも」
ミナトは目を細めた。
「うん。何度でも言うよ」
食卓には、二人分の深い皿と、少し厚めに切ったパンが並んだ。
ミナトは煮込みをよそいながら、
フィリックスの皿には肉を少し多めに入れ、
自分の皿には柔らかく煮えた根菜を多く入れた。
その小さな違いを、フィリックスは何も言わずに見ていた。
「お肉、多くない?」
ミナトが気付いて尋ねると、フィリックスは匙を手に取ったまま答えた。
「お前が入れた」
「フィリはたくさん動くから」
「お前も食べろ」
「僕はこれくらいで大丈夫」
「駄目だ」
フィリックスは自分の皿から、
柔らかそうな肉を一つミナトの皿へ移した。
「恋人なら、ちゃんと食べさせる」
ミナトは目を丸くした。
「恋人って、そういうものなの?」
「知らない」
「知らないのに言ったの?」
「俺はそうしたい」
あまりにも真剣な顔で言われて、
ミナトは少しだけ笑ってしまった。
「じゃあ、食べる」
「全部だ」
「全部は無理かも」
「無理なら残せ」
「それなら最初から全部って言わなくてもいいのに」
「食べられるだけ食べろ」
ミナトは頷き、匙で煮込みをすくった。
温かいスープと一緒に口へ入れる。
昼のあいだ何度も味見をしていたはずなのに、
フィリックスと向かい合って食べる今は、
いつもより少しだけ美味しく感じた。
「どうだ」
フィリックスが尋ねる。
「おいしいよ」
「俺も」
「フィリも?」
「ああ」
ミナトは少しだけ期待するように彼を見た。
フィリックスは煮込みを一口食べ、しばらく黙ってから頷いた。
「美味い」
その短い言葉に、ミナトの顔がぱっと明るくなる。
「本当?」
「ああ。街のより美味い」
「街より?」
「お前が作ったものは、いつも美味い」
ミナトは嬉しそうに笑った。
それから、少しだけ照れたように視線を落とす。
「フィリが食べてくれるから、作るのが楽しいんだよ」
フィリックスは、匙を持つ手を止めた。
「……また言った」
「何が?」
「何でもない」
けれど今度は耳だけではなく、頬まで少し赤くなっていた。
夕食のあと、ミナトは食器を片付けようとしたが
フィリックスに止められた。
「座ってろ」
「でも、フィリが疲れてるよ」
「お前も昼から動いてた」
「僕は畑のお手入れと、ごはんを作っただけだよ」
「それで十分だ」
フィリックスはそう言って、ミナトの肩へそっと手を置いた。
「今日は俺がやる」
ミナトは少しだけ迷ったあと、素直に頷いた。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「ああ」
フィリックスが台所で皿を洗っているあいだ、
ミナトは暖炉のそばへ座り、膝の上に小さな布を広げた。
昼間、薬草畑で摘んだ葉を乾かすために、丁寧に並べていく。
フィリックスの帰りを待つ時間にしていた作業を、
今は彼がすぐ近くにいる音を聞きながら続けられることが、
ミナトには不思議なくらい嬉しかった。
水の流れる音。
皿が触れ合う小さな音。
時々、フィリックスが棚を開け閉めする音。
どれも特別なものではない。
けれど、病院の個室で長い夜を過ごしていた頃のミナトにとっては、
誰かが同じ家の中にいて、自分のために何かをしてくれている音は、
きっと夢のようなものだった。
「ミナト」
不意に呼ばれて、ミナトは顔を上げた。
フィリックスは洗い終えた皿を棚へ戻し、
布で手を拭きながらこちらを見ている。
「何?」
「眠いか」
「少しだけ」
「今日は早く寝ろ」
「フィリも?」
「ああ」
ミナトは少しだけ迷ってから、膝の上の薬草をまとめた。
「じゃあ、一緒に寝る前に、少しだけ外へ出てもいい?」
フィリックスは窓の外へ目を向けた。
すでに空は深い夜の色へ変わり、
庭の向こうには星がいくつも浮かんでいる。
「寒い」
「上着を着るよ」
「何を見に行く」
「星」
ミナトは小さく笑った。
「昨日、作った瓶の色が、夜の森みたいだって言ってくれたから。
本物の夜も、フィリと見たいなって思って」
フィリックスはしばらくミナトを見つめた。
それから壁に掛けていた厚手の外套を取り、
ミナトの肩へそっと掛ける。
「少しだけだ」
「うん」
二人は家の外へ出た。
夜の空気は確かに冷たかったが、
昼間の熱を少しだけ残した土の匂いと、
庭の薬草が放つ柔らかな香りが混じり合い、
辺境の夜らしい静けさが二人を包んでいた。
空には、数え切れないほどの星が浮かんでいる。
街の灯りが遠いこの場所では、星の光は驚くほど近く見え、
まるで手を伸ばせば指先へ零れ落ちてくるのではないかと思えるほど、
深い夜空の中で静かに瞬いていた。
「きれい」
ミナトが呟く。
「ああ」
フィリックスは星よりも、ミナトの横顔を見ていた。
ミナトは空を見上げたまま、少しだけ息を吐く。
「僕、こうして外で夜の空を見るの、まだ時々不思議な気持ちになる」
フィリックスは黙って聞いている。
「昔は、窓から少し見えるだけだったから。
外へ出たら寒いとか、土の匂いがするとか、風が髪に当たるとか、
そういうことも知らなかった」
ミナトは自分の手を見下ろした。
「でも今は、フィリと一緒にここにいる」
その声は穏やかだった。
悲しい過去を話しているというよりも、
今ここにある幸せを、静かに確かめているような声だった。
フィリックスはミナトの手を取った。
「これからも見る」
ミナトが顔を上げる。
「星?」
「ああ。星も、朝も、雪も」
フィリックスはゆっくりと言った。
「お前が見たいものは、全部一緒に」
ミナトはしばらくフィリックスを見つめていた。
それから少しだけ涙が浮かびそうになった目を細め、優しく笑う。
「うん」
フィリックスはミナトの手を繋いだまま、少しだけ近付いた。
「ミナト」
「なに?」
「今日は、無事に帰ってこられてよかった」
「うん」
「お前が待ってると思ったから、帰りたかった」
ミナトの胸が、静かに鳴る。
「僕も、フィリが帰ってきてよかった」
「明日も帰る」
「明日は依頼じゃないよ」
「それでも帰る」
フィリックスの言葉に、ミナトは小さく笑った。
「じゃあ、僕も待ってる」
「ずっとか」
「うん。ずっと」
その返事を聞いたフィリックスは、ミナトの頬へそっと触れた。
冷えた夜の中で、彼の手のひらだけが温かい。
「キスしてもいいか」
ミナトは少しだけ息を止めた。
昨日は額だった。
今日は、きっと違う。
そう思うと恥ずかしくて、心臓が早くなる。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ、
フィリックスが自分の気持ちを待ってくれることが嬉しくて、
ミナトはゆっくりと頷いた。
「うん」
フィリックスは、すぐには触れなかった。
ミナトが本当に大丈夫かを確かめるように、
少しだけ目を見つめてから、ゆっくりと顔を近付ける。
唇が触れたのは、一瞬だった。
けれど、額への口づけとは違う柔らかさに、
ミナトの指先が小さく震えた。
フィリックスはすぐに離れた。
「大丈夫か」
「うん」
ミナトは頬を赤くしながら答えた。
「びっくりしたけど……嬉しい」
フィリックスの表情が、ゆっくりと柔らかくなる。
「俺も嬉しい」
ミナトは少しだけ迷ってから、
今度は自分からフィリックスの外套を掴んだ。
「フィリ」
「なんだ」
「もう一回、してもいい?」
フィリックスの目が、わずかに見開かれる。
それから、低い声で答えた。
「ああ」
二度目の口づけは、最初よりも少しだけ長かった。
フィリックスはミナトを急かさず、
ただ大切なものへ触れるように、ゆっくりと唇を重ねた。
ミナトは目を閉じ、冷たい夜の空気の中で、
フィリックスの体温だけを近くに感じていた。
離れたあと、二人はしばらく言葉を交わせなかった。
けれど、繋いだ手は離れない。
星の下で、ミナトはフィリックスの肩へそっと寄りかかった。
フィリックスはすぐに腕を回し、
冷えないようにと外套の端をミナトの身体へ寄せる。
「寒くないか」
「大丈夫」
「嘘をつくな」
「少しだけ寒い」
「中に入るぞ」
「うん」
家へ戻る途中も、二人は手を繋いでいた。
扉を閉めると、暖炉の火が二人を迎えるように揺れた。
ミナトは外套を脱ぎながら、少しだけ照れたように笑う。
「フィリ」
「なんだ」
「恋人って、すごいね」
フィリックスは首を傾げた。
「何が」
「同じ家で、同じごはんを食べて、星を見ただけなのに、前よりずっと嬉しい」
フィリックスはしばらく黙ってから、ミナトの髪をそっと撫でた。
「俺もだ」
「本当?」
「ああ」
「じゃあ、明日も一緒にごはん食べようね」
「ああ」
「明後日も」
「ああ」
「その次の日も」
フィリックスは、ミナトの言葉を遮らずに聞いていた。
そして、最後に低い声で答えた。
「毎日だ」
ミナトは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見つめながら、フィリックスは静かに思った。
この家で迎える朝も、食卓に並ぶ温かい料理も、夜に見上げる星も。
ミナトがいるからこそ、すべてが帰りたいものになっている。
だから、自分は何度でも帰る。
ミナトが待つこの場所へ。
そしてミナトもまた、フィリックスの隣で眠る前、
今日交わした言葉を胸の中で繰り返していた。
毎日。
その言葉が、これから先もずっと続くもののように思えて、
ミナトは穏やかな気持ちのまま目を閉じた。




