帰るための約束
恋人になった翌朝、ミナトはしばらく毛布の中で天井を見つめていた。
窓の外では朝の光が少しずつ広がっていた。
いつもと同じ朝のはずだった。
同じ家で目を覚まし、同じ窓から光が差し込み、
居間へ行けばきっとフィリックスが薪をくべる音か、
湯を沸かす音を立てている。
けれど、昨日までとは違う。
フィリックスは、自分の恋人になった。
その事実を思い出しただけで、
ミナトの胸の奥はじんわりと温かくなり、
同時にどうしようもなく恥ずかしくなって、
毛布の端を少しだけ握りしめた。
好きだと言われたこと。
自分も好きだと返したこと。
額へ落ちた、あの優しい口づけ。
思い出すたびに頬が熱くなり、
ミナトは顔を半分だけ毛布へ埋めた。
「……おはようって、普通に言えるかな」
小さく呟いてから、ミナトは自分で少し笑った。
昨日までだって、フィリックスとは毎朝顔を合わせていた。
なのに、
恋人になったというだけで、何もかもが少し違って見える。
それが不思議で、嬉しかった。
ゆっくり身支度を整え、居間へ向かうと、
予想していた通りフィリックスは暖炉の前に立っていた。
火の様子を見ながら、鍋に入れた湯を木の匙で静かに混ぜている。
ミナトが扉の前で少しだけ足を止めると、
フィリックスはすぐに振り返った。
「起きたか」
いつもの声だった。
けれど、ミナトにはその短い言葉が、
昨日までよりも少しだけ柔らかく聞こえた。
「うん。おはよう、フィリ」
「ああ。おはよう」
二人はそこで、ほんの少しだけ黙った。
ミナトは何か言いたいのに、言葉が見つからない。
フィリックスもまた、
いつもならすぐに朝食の話をするはずなのに、
ミナトを見つめたまま動かない。
けれど、気まずい沈黙ではなかった。
互いに相手がそこにいることを、
昨日までとは少し違う気持ちで確かめているような、
静かで甘い沈黙だった。
「……眠れたか」
先に尋ねたのはフィリックスだった。
「うん。フィリは?」
「ああ」
「本当に?」
ミナトが少しだけ首を傾げると、フィリックスは視線を逸らした。
「少し遅くまで起きてた」
「どうして?」
「……昨日のことを考えてた」
その答えに、ミナトの頬が一気に赤くなる。
フィリックスは自分でも言ってから
少し困ったように眉を寄せたが、誤魔化すことはしなかった。
「嫌だったか」
「嫌じゃないよ」
ミナトは慌てて首を振った。
「僕も、考えてたから」
今度はフィリックスの方が黙った。
それから、ほんの少しだけ口元を緩める。
「そうか」
その表情を見て、ミナトもつられるように笑った。
朝食は昨日のうちに焼いておいた柔らかなパンと、
野菜を細かく刻んだ温かいスープだった。
ミナトが食卓へ皿を並べようとすると、
フィリックスはいつものように鍋を受け取り、
ミナトの手から木の皿を一枚ずつ取って置いていく。
これまでも何度も繰り返してきた、二人の朝の小さなやり取りだった。
けれどミナトが席へ着こうとした時、
フィリックスは自然な動きで椅子を少し引いた。
「座れ」
「ありがとう」
ミナトが座ると、フィリックスはそのまま少しだけミナトの髪を見た。
「結び直すか」
「まだ寝癖ついてる?」
「少し」
「恥ずかしいな」
「可愛い」
あまりにも迷いなく言われて、
ミナトは手にしていた匙を危うく落としそうになった。
「フィリ」
「なんだ」
「そういうこと、急に言わないで」
「思ったから言った」
「それが困るの」
ミナトは頬を赤くしながら言ったが、
怒っているわけではなかった。
むしろ、胸の奥が嬉しさでいっぱいになっていることを、
フィリックスにはきっと気付かれている。
フィリックスは小さく息を吐くように笑った。
「慣れろ」
「そんなにすぐには慣れないよ」
「なら、ゆっくりでいい」
その言葉に、ミナトは少しだけ目を細めた。
フィリックスは、いつも急がせない。
知らないことがあっても、
できないことがあっても、
無理をしなくていいと言ってくれる。
恋人になったからといって、
その優しさが変わるわけではないのだと分かって、
ミナトは安心した。
朝食を終えたあと、
フィリックスは壁際に立て掛けていた大剣を手に取った。
刃を布で拭き、腰の袋へ回復薬や簡単な保存食を詰めていく。
その様子を見て、ミナトは少しだけ首を傾げた。
「今日は依頼?」
「ああ。森の北側で、魔物が増えてるらしい」
「遠い?」
「日が落ちる前には戻る」
フィリックスはそう答えた。
けれど、ミナトはすぐに頷くことができなかった。
森の北側は、二人が薬草を採りに行く場所よりもさらに奥だ。
強い魔物が出ることもあると、
以前フィリックスから聞いたことがあった。
フィリックスは強い。
冒険者ギルドのSランクで、
どんな依頼でも一人でこなしてしまうほど強い人だ。
それでも、怪我をして帰ってくることがある。
そのたびにミナトは、
無事に帰ってきてくれたことへ安心するのと同時に、
もっと何かできないだろうかと考えてしまう。
「……気を付けてね」
ミナトが言うと、フィリックスは準備の手を止めた。
「ああ」
「無茶しないで」
「ああ」
「危なかったら、ちゃんと逃げてね」
フィリックスは少しだけ目を伏せた。
「分かった」
いつもなら、危なくなれば対処するとだけ答える人だった。
けれど今日は、ミナトの言葉を一つずつ受け取るように頷いてくれる。
ミナトはそれが嬉しかった。
それでも、胸の奥に残る小さな不安は消えなかった。
「フィリ」
「なんだ」
ミナトは少し迷ってから、作業台の引き出しを開けた。
中には、昨日の夜にこっそり用意していた小さな革袋が入っている。
フィリックスが持っている腕輪の魔石と同じように、
淡い青色の光を宿した小さな回復薬が二本。
傷を治すためのものではなく、強い痛みを和らげ、
体力を少しだけ戻すための薬だった。
「これ、持っていって」
ミナトは革袋を両手で差し出した。
「昨日、少し作っておいたの」
フィリックスは受け取らず、まずミナトの顔を見た。
「夜に作ったのか」
「うん。でも、無理はしてないよ」
「寝る前まで作業してたんだな」
「フィリが今日、依頼に行くかもしれないって思って」
ミナトは少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「恋人になったから、っていうのもあるけど……
前から、フィリにはなるべく怪我をしてほしくなかったから」
フィリックスはしばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくりと革袋を受け取る。
大きな手の中で、ミナトが作った小さな袋はひどく小さく見えた。
「使う」
「うん」
「必ず持つ」
「うん」
「それで、帰る」
フィリックスはミナトを見つめた。
「必ず帰る」
その言葉は、強く、静かだった。
ただ依頼へ行って帰ってくるという
当たり前のことを言っているだけなのに、
ミナトの胸には深く残った。
フィリックスは、帰ることを約束してくれている。
自分のいるこの家へ。
自分が待っている場所へ。
「……約束?」
ミナトが小さく尋ねる。
フィリックスは頷いた。
「ああ。約束だ」
ミナトは少しだけ笑った。
「じゃあ、僕も待ってる」
「無理に起きてなくていい」
「でも、夕食は一緒に食べたい」
「遅くなるなら先に食べろ」
「フィリが帰ってきたら、もう一回少し食べるよ」
「それは夕食じゃない」
「じゃあ、夜食」
ミナトがそう言うと、
フィリックスは少しだけ困ったように眉を寄せたあと、
静かに笑った。
「分かった。なるべく早く戻る」
出発の準備が整っても、
フィリックスはすぐには扉へ向かわなかった。
ミナトの前に立ち、何かを言いたそうにしている。
ミナトもまた、何となくその場を離れられずにいた。
恋人になったばかりの二人には、
まだ自然にできないことがたくさんある。
手を繋ぐこと。
抱きしめること。
触れたいと思った時に、素直にそう言うこと。
けれど、昨日よりも少しだけ近付きたいと思う気持ちは、
二人の間に同じようにあった。
「ミナト」
「うん」
「行ってくる」
「うん。いってらっしゃい」
ミナトがそう答えたあと、フィリックスは一歩だけ近付いた。
それから、ミナトの頬へそっと手を添える。
大きな手のひらは、いつも通り温かかった。
「……触れてもいいか」
昨日も同じように尋ねてくれたことを思い出して、
ミナトの胸が少しだけ鳴る。
「うん」
小さく頷くと、フィリックスはミナトの額へゆっくり口づけた。
昨日よりも少し長い、けれど変わらず優しい口づけだった。
ミナトは目を閉じ、フィリックスの外套の端をそっと掴む。
離れたあと、フィリックスはミナトの髪を一度だけ撫でた。
「待ってろ」
「うん」
「帰る」
「待ってる」
二人はそれだけ言葉を交わした。
けれど、その短い約束は、
ミナトにとって何よりも大切なものになった。
フィリックスが家を出たあと、ミナトはしばらく扉の前に立っていた。
窓から見える小道を、フィリックスの背中が遠ざかっていく。
腕輪の淡い青い魔石が、歩くたびに小さく揺れていた。
やがて姿が木々の向こうへ消えてから、
ミナトはようやく居間へ戻った。
今日は、フィリックスが帰ってくるまでに夕食を作ろうと思った。
彼が好きだと言ってくれた、根菜と肉を柔らかく煮込んだ温かい料理。
街で食べた煮込みとは少し違うけれど、
家の味としてフィリックスに覚えてもらえたら嬉しい。
ミナトは野菜を切り、鍋へ水を張り、
庭から摘んできた香草を少しだけ加えた。
火に掛けた鍋から、ゆっくりと湯気が立ち始める。
家の中へ優しい匂いが広がっていく。
昼を過ぎる頃にはミナトは薬草畑の手入れをしながら、
何度も森の方角を見ていた。
夕方が近付くと、窓辺へ置いた小瓶の中で、
青と緑と金色の砂が柔らかく光った。
恋人になった日の思い出。
市場へ行った日の思い出。
そして今日、フィリックスが必ず帰ると約束してくれた朝。
ミナトは小瓶を見つめながら、静かに微笑んだ。
日が傾き始めた頃、遠くから草を踏む足音が聞こえた。
ミナトはすぐに顔を上げ、椅子から立ち上がる。
扉が開く前から分かっていた。
この足音を、もう何度も聞いてきたから。
「ただいま」
扉の向こうから聞こえた声に、ミナトの胸がぱっと明るくなる。
「おかえり、フィリ」
フィリックスは少しだけ土埃をまとっていたが、
大きな怪我はなかった。
ミナトが近付くと、フィリックスはまず自分の腕輪へ触れた。
「使わなかった」
「うん」
「でも、何度も見た」
ミナトは少しだけ目を丸くした。
「どうして?」
「お前が待ってると思い出せた」
その言葉に、ミナトは笑った。
「じゃあ、ちゃんと役に立ったね」
「ああ」
フィリックスはそう言ってから、ミナトの手を取った。
「帰ってきた」
「うん。おかえり」
ミナトは繋がれた手を見つめ、それからフィリックスを見上げた。
「約束、守ってくれてありがとう」
フィリックスは、ミナトの言葉に少しだけ目を細めた。
「これからも守る」
夕食の鍋からは、温かい湯気が立っていた。
窓の外では、空がゆっくりと夜の色へ変わっていく。
フィリックスが帰る家。
ミナトが待っている家。
二人にとって、その小さな辺境の家は、
ただ暮らすための場所ではなくなっていた。
そこには、帰るという約束があり。
待つという願いがあり。
そして、これから少しずつ重ねていく、
たくさんの幸せな時間があった。




