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LIBERAL ONLINE  作者: Guri
30/64

名前をつける夜

 

 街から帰った翌日、ミナトは市場で買った色付きの砂を、

朝からずっと居間の机へ広げていた。


 小さな瓶に入っていた砂は、光の加減によって淡い青や緑、

 金色のようにも見え、ひとつひとつの粒は本当に小さい。


 けれど窓から差し込む陽射しを受けるたびに、

 まるで夜空を細かく砕いて閉じ込めたような静かな輝きを見せていた。


「きれいだね」


 ミナトがそう呟くと、薪を割るために

 外へ出ようとしていたフィリックスが、扉の前で足を止めた。


「ああ」


「どの瓶に入れようかなって考えてたんだけど、

  せっかくだから何か作ってみようかな」


 フィリックスはミナトの隣へ近付き、机の上を見下ろした。


「何を作る」


「まだ決めてないよ」


 ミナトは少しだけ笑ってから、色付きの砂へ指先を近付けた。


「でも、昨日のことを思い出せるものがいいなって思って」


 その言葉に、フィリックスの視線が静かにミナトへ向く。


 昨日の街。


 人の多い市場。


 繋いだ手。


 そして、通りの真ん中で告げられた、大切な人という言葉。


 ミナトは砂を見つめたまま、少しだけ頬を赤くしていた。


「フィリが買ってくれたものだから、フィリにも見える場所に置きたいな」


「好きにしろ」


「フィリも、見てくれる?」


「ああ」


 短い返事だったけれど、フィリックスの声はいつもより少し低かった。


 ミナトはそれに気付かないまま、

 小さな空き瓶を棚からいくつか持ってきて、

 砂を入れる順番を考え始めた。


 青い砂を一番下にして、その上へ緑を重ね、

 最後に金色を少しだけ散らす。


 そうすれば、夜の森に星が浮かんでいるみたいになるかもしれない。


「フィリ、これ見て」


 ミナトが瓶を持ち上げる。


「まだ途中だけど、夜の森みたいじゃない?」


 フィリックスはミナトの手の中にある小瓶を見つめたあと、

 その横顔へ視線を移した。


「似てる」


「本当?」


「ああ。お前が好きそうな景色だ」


 ミナトは嬉しそうに笑った。


「僕、夜の森も好きだよ。でも、一人だったらちょっと寂しいかも」


「一人で行くな」


「うん。フィリと一緒なら行きたい」


 その言葉を聞いた瞬間、フィリックスの表情がわずかに揺れた。


 ミナトはいつも、特別な意味を持たせようとして言っているわけではない。


 ただ、自分が思ったことを、まっすぐに言葉へする。


 だからこそフィリックスにとっては、

 その一つひとつが簡単には受け流せないものになっていた。



「……ミナト」


「なに?」


 呼ばれて顔を上げたミナトは、

 フィリックスがいつものようにすぐ次の言葉を口にしないことに気付いた。


 彼は何かを決めるように、しばらく黙っていた。


 大きな手が、腰のあたりでゆっくりと握られている。


 依頼の前でも、強い魔物と向き合う時でも、

 ほとんど表情を変えないフィリックスが、

 今は少しだけ迷っているように見えた。


「昨日、街で言ったことだが」


 ミナトの指先が止まる。


「大切な人だって言ったこと?」


「ああ」


 フィリックスは頷いた。


 その一言を口にするまでに、どれだけ胸の奥で言葉を反芻したのか、

自分でも分かっていた。


 軽く言えるはずがなかった。


 あの場では誤魔化したくなかったし、今さら引き返すつもりもなかったが、それでも。


「嫌じゃないと言ってくれた」


「うん」


「嬉しかったとも」


「うん」


 ミナトは小さく頷きながら、

 胸の奥がゆっくりと熱くなっていくのを感じていた。


 昨日から何度も思い出していた。


 あの時、フィリックスが迷わず自分をそう呼んでくれたこと。


 人に聞かれていたから場を収めるために言っただけではないと、

 繋いだ手の力や、少し掠れた声が教えてくれていた。


 けれど、今こうして、

 改めて話そうとしているフィリックスの姿を見ていると、

 ミナトは息をすることさえ少しだけ難しくなる。


「俺は」


 フィリックスは一度言葉を切った。


 胸の奥に溜め込んできたものを、

ここで言わなければもう言えなくなる気がした。


 ずっと隠してきた気持ちを、今ようやく手放そうとしている。


 その事実だけで、指先がわずかに強張る。


 それでも、ミナトから目を逸らすつもりはなかった。


 逸らしたら、きっともう二度と、こんなふうに真っ直ぐ伝えられない。


「お前を、ただ大切な相手だと思ってるわけじゃない」


 ミナトの瞳が揺れる。


 その揺れを見て、フィリックスの胸は一瞬だけ冷たくなった。


 けれど、言葉を止めることはできなかった。


 怖さよりも先に、やっとここまで来られたという安堵があったからだ。


「お前が笑ってると、ずっと見ていたくなる」


 低い声が、静かな家の中へ落ちていく。


「疲れて帰った時に、お前がいると思うだけで、ここへ戻りたくなる」


 フィリックスはミナトから目を逸らさなかった。


「誰かがお前を見ると、気になる」


「お前が他の奴に優しくしてるのを見ると、俺だけを見ていてほしいと思う」


 ミナトは、胸の前でそっと手を握った。


 フィリックスの言葉は、強いものだった。


 けれど、怖くはない。


 自分を閉じ込めようとする言葉ではなく、

 フィリックスがずっと一人で抱えてきた気持ちを、

 初めて手のひらへ乗せて見せてくれているように感じた。


「ミナト」


 フィリックスが、もう一度名前を呼ぶ。


「俺は、お前が好きだ」


 その言葉を言い切った瞬間、

 フィリックスの胸の奥で張り詰めていたものが、ふっとほどけた。


 不安はある。


 けれど、それ以上に、ようやく届いたという実感があった。


 返事を待つ時間さえ、今はもう逃げたくなかった。



 その言葉を聞いた瞬間、ミナトの中で何かが静かにほどけた。


 ずっと前から、フィリックスが

 自分に向けてくれる優しさを知っていた。


 怪我をしないようにと手を取ってくれること。


 眠ってしまった自分へ毛布を掛けてくれること。


 知らない場所では必ず隣に立ち、

 急がなくていいと言ってくれること。


 帰ってくる場所でいてほしいと、まっすぐに願ってくれたこと。


 それらが自分にとって、どれほど大切だったのか。


 フィリックスが好きだと言葉にしてくれた今、

 ようやくミナトにもはっきり分かった。


「……僕も」


 声が少し震えた。


 フィリックスの目が、まっすぐにミナトへ向く。


 ミナトは一度だけ息を吸ってから、ゆっくりと言葉を続けた。


「僕も、フィリが好き」


 言ってしまえば、思っていたよりも自然だった。


 恥ずかしくて、胸は苦しいくらいに鳴っている。


 けれど、嘘ではない。


 フィリックスといると安心する。


 帰ってくるのを待つ時間が好きだ。


 手を繋ぐと嬉しい。


 名前を呼ばれるだけで、心の奥が温かくなる。


「フィリと一緒にいると、僕、できなかったこともたくさんできる気がするんだ」


 ミナトは少しだけ笑った。


「外へ行くことも、知らないものを見ることも、もっと楽しみになる」


 フィリックスは黙って聞いている。


「だから、フィリが帰ってくる場所でいたいって言った時、本当に嬉しかった」


 ミナトは小さく手を伸ばした。


 けれど、途中で少し迷う。


 フィリックスはその手を見つめ、それから自分の手で包み込んだ。


「僕も、フィリに帰ってきてほしい」


 ミナトは言った。


「できれば、ずっと僕のそばへ」


 フィリックスの指が、ミナトの手を少しだけ強く握る。


「いる」


 低い声だった。


「お前が望むなら、ずっといる」


 ミナトは、その言葉に目を細めた。


 嬉しい。


 けれど、嬉しいだけではなく、今まで二人の間にあったものへ、

 初めて名前がつくのだと思うと、少しだけ照れくさかった。


「フィリ」


「なんだ」


「好きって言ったら……僕たちは、どうなるの?」


 フィリックスは少しだけ目を瞬かせた。


 それから、真剣な顔で答える。


「恋人になりたい」


 ミナトの頬が、すぐに赤くなる。


「恋人」


「ああ」


「僕たちが?」


「ああ」


 フィリックスは迷わなかった。


「お前が嫌じゃなければ」


 ミナトはすぐに返事をしなかった。


 恋人という言葉は、知識としては知っていた。


 本の中にも、ゲームの中にも、たくさん出てきた言葉だった。


 けれど、自分が誰かの恋人になることは、

 ずっと遠い世界の話だと思っていた。


 病室の窓から外を眺めていた頃の自分なら、きっと考えもしなかった。


 誰かと手を繋いで、

 同じ家へ帰って、

 明日も一緒に過ごしたいと思うこと。


 そんな当たり前のようで、

 ミナトにとってはとても大きな願いを、

 今はフィリックスとなら叶えられる気がした。


「……嫌じゃないよ」


 ミナトはゆっくり言った。


「むしろ、すごく嬉しい」


 フィリックスの目が、わずかに見開かれる。


「じゃあ」


 ミナトは恥ずかしそうに笑った。


「僕も、フィリの恋人になりたい」


 しばらく、二人の間に静かな沈黙が落ちた。


 けれどそれは、言葉に詰まった沈黙ではなかった。


 長いあいだ胸の中にあった気持ちが、

 ようやく同じ場所へ辿り着いたことを確かめるための、穏やかな時間だった。


 フィリックスはミナトの手を離さないまま、ゆっくりと近付いた。


「触れてもいいか」


 その問いかけに、ミナトは少しだけ緊張した。


 けれどフィリックスがいつもそうしてくれるように、

 自分の気持ちを待ってくれていることが分かる。


 だからミナトは、小さく頷いた。


「うん」


 フィリックスの手が、ミナトの頬へ触れる。


 指先は大きく、少し硬い。


 それでも、触れ方は驚くほど優しかった。


 ミナトは目を閉じた。


 次の瞬間、額へ柔らかな口づけが落ちた。


 ほんの短い、確かめるようなキスだった。


 けれど、触れた場所から胸の奥まで熱が広がっていくようで、

 ミナトは思わずフィリックスの服を少しだけ掴んだ。


 フィリックスはすぐに離れた。


「大丈夫か」


「うん」


 ミナトは目を開け、頬を赤くしながらフィリックスを見上げた。


「びっくりしたけど……嬉しかった」


 フィリックスの表情が、ゆっくりとほどける。


「そうか」


「フィリ」


「なんだ」


「恋人になったら、今までと何か変わるのかな」


 フィリックスは少し考えた。


「変えたいことはある」


「なに?」


「もっと大切にする」


 ミナトは思わず笑ってしまった。


「フィリは、もう十分大切にしてくれてるよ」


「足りない」


「またそれ言う」


「足りない」


 真剣な顔で繰り返すフィリックスに、

 ミナトは胸の奥がくすぐったくなる。


 それから、少しだけ迷ってからフィリックスの肩へ額を寄せた。


「じゃあ、僕ももっと大切にするね」


 フィリックスの腕が、ゆっくりとミナトの背中へ回る。


 抱きしめる力は強すぎない。


 けれど、離したくないという気持ちだけは、はっきりと伝わってくる。


 ミナトもそっと腕を回した。


 フィリックスの背中は広く、体温は温かい。


 その中にいると、世界のどこへ行っても大丈夫なような気がした。


 しばらくして、ミナトはフィリックスの胸元から顔を上げた。


 机の上には、まだ途中までしか砂が入っていない小瓶がある。


 青と緑と金色の粒が、陽射しを受けて静かに光っていた。


「これ」


 ミナトは小瓶を手に取った。


「完成したら、リビングに置こう」


 フィリックスは頷いた。


「ああ」


「今日のことも、昨日のことも、忘れないように」


「忘れない」


「ずっと?」


「ああ。ずっとだ」


 ミナトは笑った。


 その笑顔を見て、フィリックスはもう一度、ミナトの手を取った。


 恋人になったからといって、急に何かが変わるわけではない。


 明日もきっと、ミナトは薬草畑へ行き、

 フィリックスは薪を割ったり、依頼を受けたりする。


 食卓では同じように食事をして、夜になれば同じ家で眠る。


 けれど、二人の間にある気持ちへ、ちゃんと名前がついた。


 待っていることも、帰ってくることも。


 手を繋ぐことも、隣にいたいと思うことも。


 それらすべてが、これからは恋人としての時間になっていく。


 ミナトは繋いだ手を見つめながら、静かに思った。


 フィリックスと出会えてよかった。


 この家へ来てくれてよかった。


 そして、今日、好きだと言ってくれてよかった。


 窓の外では、午後の光が少しずつ傾き始めていた。


 けれど二人にとっては、これから始まる時間の方が、ずっと明るく見えていた。




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