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LIBERAL ONLINE  作者: Guri
29/64

はじめての市場

 

 翌朝ミナトが居間へ行くと、

 フィリックスはすでに外出の準備を整えていた。


 いつもの軽い鎧の上から外套を羽織り、大きな剣も背に負っている。


 けれど、今日は依頼へ向かう時とは少し違って見えた。


 腰には空の袋がいくつか下がっていて、

 机の上には買うものを書き留めた小さな紙が置かれている。


「どこかへ行くの?」


 ミナトが尋ねると、フィリックスは紙を手に取った。


「街へ行く」


「街?」


「薬草の種と、保存用の瓶が足りないと言ってただろ」


 ミナトは目を瞬かせた。


 確かに数日前、棚を整理している時にそんな話をした。


 けれど、それは今すぐ必要なものではなかったし

 フィリックスが覚えているとは思っていなかった。


「覚えててくれたんだ」


「ああ」


「でも、フィリ一人で行っても……」


「お前も来るか」


 フィリックスは、ミナトの言葉を遮るように言った。


 その声はいつも通り落ち着いていたけれど、少しだけ慎重に聞こえた。


「隣の街だ。馬車で半日も掛からない。危険な道じゃない」


 ミナトは、すぐに返事ができなかった。


 辺境の家から少し離れた森や丘、

 そして少し離れた小さな町なら、フィリックスと何度も歩いた。


 けれど、隣街へ行くとなると話は違う。


 ゲームを始めたばかりの頃には、拠点の街へ行ったこともあった。


 けれど、あの頃はまだ何も分からず、

 また、揉め事が起きてからは特に、最低限しか買い物に行かなかった。


 今なら、少しだけ違う見方ができるかもしれない。


 フィリックスと一緒なら、知らない場所も怖くない気がした。


「……行きたい」


 ミナトが言うと、フィリックスの表情がわずかに緩んだ。


「ああ」


「僕、街ってあまり知らないから、迷惑かけるかもしれないけど」


「迷惑じゃない」


「でも、見たいものがいっぱいあったら、たぶん立ち止まっちゃうよ」


「待つ」


 短い言葉だった。


 けれど、ミナトの胸にはそれだけで十分だった。


 朝食を済ませたあと、ミナトは少しだけ悩んでから

 普段よりも整った服へ着替えた。


 薬草畑で作業をする時に着る簡素な服ではなく、

 以前フィリックスが街で買ってきてくれた、

 淡い色の上着と柔らかな布のズボン。


 鏡の前で髪を整えていると、

 後ろからフィリックスが近付いてきた。


「髪、結ぶか」


 ミナトは振り返った。


「お願いしてもいい?」


「ああ」


 フィリックスは慣れた手つきで、ミナトの髪を一つにまとめていく。


 最初の頃よりも、指先の動きに迷いがなくなっていた。


 髪を結び終えると、

 フィリックスは少しだけ離れてミナトの姿を見た。


「似合ってる」


 ミナトは頬を赤くした。


「ありがとう」


「……街の奴らが見る」


「え?」


「いや」


 フィリックスは短く言って、視線を逸らした。


 ミナトは少しだけ首を傾げたが、

 その横顔がどこか落ち着かないことには気付いていた。


 家から少し離れた森の近くに小さな乗合馬車が停まっていた。


 辺境と街を結ぶ定期便で、荷物を運ぶ商人や、

 街へ買い物へ行く人たちが数人ほど乗っている。


 ミナトは馬車を見るなり、少しだけ足を止めた。


「これに乗るの?」


「ああ」


「揺れるかな」


「少しは」


「落ちない?」


「落とさない」


 フィリックスはそう言ってから、ミナトの手を取った。


 馬車の段差はそれほど高くない。


 それでもフィリックスはミナトが足を掛けるまで手を離さず、

 座席へ座ったあとも、揺れで身体がぶつからないように隣へ座った。


 馬車が動き始めると、ミナトは窓の外を見つめた。


 いつも歩いている草原が、ゆっくりと後ろへ流れていく。


 森を抜け、見たことのない道を進み、遠くには小さな村や畑が見えた。


「すごいね」


 ミナトが小さく言う。


「何が」


「僕たちの家の外にも、こんなにたくさん道があるんだね」


 フィリックスは窓の外へ目を向けた。


「当たり前だ」


「うん。でも、僕には新しいことばかりだよ」


 その言葉に、フィリックスは少しだけ黙った。


 それからミナトの膝の上に置かれた手へ、自分の手を重ねる。


「今日は、好きなだけ見ろ」


 ミナトは手元を見てから、フィリックスを見上げた。


「いいの?」


「ああ」


「フィリも、一緒に見てくれる?」


「もちろんだ」


 街へ着いたのは、昼が近くなった頃だった。


 馬車が大きな門をくぐると、ミナトは思わず息を止めた。


 石造りの建物が並び、道の両側には

 色とりどりの屋台が並んでいる。


 焼きたてのパンの匂い、

 果物の甘い香り、

 金属を打つ音、呼び込みをする人の声。


 辺境の静かな暮らしとはまるで違う賑やかさが、

 ミナトの周りへ一度に押し寄せてきた。


「人が、いっぱい」


 ミナトが呟く。


 フィリックスはミナトが人の流れに飲まれないよう、すぐに手を繋いだ。


「離れるな」


「うん」


 ミナトは頷き、指をしっかりと絡めた。


 最初は少しだけ緊張していた。


 けれど歩き始めると、目に入るものすべてが珍しかった。


 大きな籠へ積まれた果物。


 色鮮やかな布。


 小さな魔石を使った飾り。


 屋台の前で焼かれている串肉。


 ミナトは何度も足を止め、

 そのたびにフィリックスは急かさず隣に立っていた。


「これ、何かな」


 ミナトが小さな瓶に入った色付きの砂を見つけて尋ねる。


「飾り用の砂だ」


「きれい」


「欲しいか」


「ううん。見られただけで嬉しい」


 フィリックスは、その答えを聞いて少しだけ目を細めた。


 けれど、ミナトが次の店へ向かったあと、

 彼は一度だけ振り返り、店主へ何かを小声で尋ねていた。


 種と瓶を買い終えたあと、二人は市場の端にある小さな食堂へ入った。


 昼時だったため店内は少し混んでいたが、

 奥の方に二人で座れる席が空いていた。


 フィリックスはミナトを壁側の席へ座らせ、自分は通路側へ座る。


 人の多い場所に慣れていないミナトが落ち着けるように、

 自然とそうしたのだろう。


「何が食べたい?」


 フィリックスが尋ねる。


 ミナトは店の壁に掛けられたメニューを見上げた。


 知らない料理の名前が並んでいて、どれも気になった。


「フィリのおすすめは?」


「煮込み料理なら外れない」


「じゃあ、それにする」


「パンも付けるか」


「うん」


 食事が運ばれてくるまでのあいだ、

 ミナトは窓の外を行き交う人たちを眺めていた。


 冒険者らしい装備をした人。


 買い物袋を抱えた人。


 小さな子どもの手を引く親。


 皆がそれぞれの目的を持って歩いている。


 それが不思議で、少しだけ眩しかった。


「フィリは、よく街に来るの?」


「ああ。依頼や買い出しで」


「一人で?」


「ほとんどは」


 ミナトは少しだけ黙った。


「じゃあ、今日みたいに誰かと一緒に歩くのは珍しいね」


 フィリックスはミナトを見る。


「ああ」


「……僕と来て、楽しい?」


 ミナトが尋ねると、フィリックスは少しも迷わなかった。


「楽しい」


 その答えが早すぎて、ミナトは思わず笑ってしまった。


「本当に?」


「本当だ」


「僕、ずっときょろきょろしてるのに」


「それがいい」


 フィリックスは言った。


「お前が楽しそうにしてると、俺も嬉しい」


 ミナトは、言葉を失った。


 それから、少しだけ頬を赤くしながら、

 テーブルの上に置かれた自分の手へ視線を落とした。


「……フィリは、優しいね」


「お前にだけだ」


 低い声で言われた言葉に、ミナトは顔を上げた。


 フィリックスはすぐに水の入った杯へ手を伸ばしたが、

 耳の先がわずかに赤くなっている。


 ミナトはそれに気付き、胸の奥がくすぐったくなった。


 運ばれてきた煮込み料理は、

 柔らかく煮た肉と野菜がたっぷり入っていて、香草の香りが優しかった。


 ミナトは一口食べてから、目を丸くした。


「おいしい」


「よかった」


「フィリのおすすめ、すごいね」


「ただの煮込みだ」


「でも、僕が作るのとは違う味がする」


「家でも作れる」


「本当?」


「ああ。今度作る」


 ミナトは嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、一緒に作ろう」


 食事を終え、再び市場へ戻ろうとした時だった。


 通りの向こうから、鎧を着た数人の冒険者が歩いてきた。


 その中の一人が、フィリックスの姿に気付いて足を止める。


「……フィリックス?」


 呼ばれた声に、フィリックスの表情が少しだけ変わった。


 ミナトは隣に立ったまま、彼を見上げた。


 相手は背の高い人族の男で、

 肩には冒険者ギルドの紋章が付いた外套を掛けている。


 フィリックスと同じように強そうな雰囲気を持っていたが、

 その目には驚きが浮かんでいた。


「久しぶりだな。こんな所で何してる」


「買い物だ」


 フィリックスは短く答えた。


 男はその返事に少しだけ笑い、それからミナトへ視線を向けた。


「そっちの子は?」


 フィリックスの手が、ミナトの手を少しだけ強く握った。


「ミナトだ」


「へえ。お前が誰かと一緒にいるなんて珍しいな」


 男は悪意なく言ったのだろう。


 けれど、フィリックスの表情は少しだけ硬くなった。


 ミナトは、何か言った方がいいのか迷った。


 するとフィリックスが、いつもより低い声で続けた。


「大切な人だ」


 その言葉に、男は一瞬だけ目を見開いた。


 ミナトもまた、息を止めた。


 フィリックスはミナトを見なかった。


 けれど、繋いだ手は離さない。


「そうか」


 男は少しだけ驚いた顔をしたあと、すぐに笑った。


「なら、邪魔したな」


 それだけ言って、仲間たちと一緒に通りの向こうへ去っていった。


 人の流れが元に戻ったあとも、ミナトはすぐには歩き出せなかった。


 大切な人。


 その言葉が、胸の中で何度も繰り返される。


「フィリ」


 ミナトが小さく呼ぶ。


 フィリックスはようやくミナトを見る。


「さっきの……」


「嫌だったか」


 ミナトは首を振った。


「嫌じゃないよ」


 それから、少しだけ恥ずかしそうに笑った。


「嬉しかった」


 フィリックスの目が、わずかに揺れた。


「……そうか」


「うん」


 ミナトは繋いだ手を見つめたあと、今度は自分から少しだけ指を絡めた。


「僕も、フィリは大切な人だよ」


 フィリックスは、しばらく何も言わなかった。


 けれど、手を握る力はゆっくりと強くなった。


「分かってる」


 低い声だった。


 けれど、その声は少しだけ掠れていた。


 市場を歩き終え、帰りの馬車へ向かう頃には、

 ミナトの腕には小さな紙袋が抱えられていた。


 中には、さっき見つけた色付きの砂が入っている。


 フィリックスが、ミナトが見ていた店で買ってくれたものだった。


「これ、買ってくれたの?」


 馬車へ乗る前、ミナトが袋を見ながら尋ねる。


「ああ」


「でも、僕、見られただけで嬉しいって言ったのに」


「知ってる」


「じゃあ、どうして?」


 フィリックスは少しだけ目を伏せた。


「家に置いてあれば、今日のことを思い出せる」


 ミナトは紙袋を大切そうに抱え直した。


「フィリも、今日のこと覚えててくれる?」


「ああ」


「ずっと?」


「ずっとだ」


 馬車が動き出すとミナトは少し疲れたのか、

 フィリックスの肩へそっと寄りかかった。


 フィリックスは何も言わず、ミナトの頭が揺れないように支える。


 窓の外では、街の景色が少しずつ遠ざかっていく。


 けれどミナトの中には、今日見たものがたくさん残っていた。


 知らない店。


 知らない料理。


 人の多い通り。


 そして、そのすべてを隣で見ていてくれたフィリックス。


 家へ帰る頃には、空はもう夕方の色へ変わっていた。


 ミナトは馬車から降りる時、フィリックスの手を借りながら言った。


「今日は、楽しかったね」


「ああ」


「また一緒に行きたいな」


 フィリックスはミナトを見下ろした。


「いつでも連れていく」


 ミナトは嬉しそうに笑った。


 二人は手を繋いだまま、辺境の家へ続く道を歩き始めた。


 遠くに見える屋根と、窓から漏れる灯りが、

 今まで以上に温かく見えた。


 街で過ごした一日は、二人にとって新しい思い出になった。


 そしてミナトは、紙袋の中の色付きの砂を抱えながら、

 次はどんなものをフィリックスと見に行けるだろうと、

 静かに胸を弾ませていた。



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