いつもの朝、少し違う距離
翌朝ミナトが目を覚ました時には、
もう家の中から朝食の匂いがしていた。
いつもより少しだけ早く目が覚めたのに、
居間へ行くとフィリックスはすでに鍋の前に立っていて、
昨日の夜に残った野菜と干し肉を温めながら、
静かな手つきで朝食の準備をしていた。
ミナトは寝室の扉の前で、少しだけ立ち止まった。
昨夜、星の下で肩を抱き寄せられたこと。
帰る場所だと思っていると、フィリックスが言ってくれたこと。
頬へ触れた大きな手の温度。
思い出すと、今さらのように胸が落ち着かなくなる。
けれど、フィリックスの背中を見ていると、
昨日までと同じように声を掛けたくなった。
「おはよう、フィリ」
フィリックスが振り返る。
「おはよう」
いつもと同じ短い返事だった。
ただミナトを見た時だけ、目元が少しだけ柔らかくなる。
「よく眠れたか」
「うん。フィリは?」
「ああ」
ミナトは食卓へ近付きながら、フィリックスの顔を見上げた。
「昨日、帰ってから寒くなかった?」
「外套を着てた」
「でも、僕にいっぱい掛けてくれたから」
フィリックスは少しだけ黙った。
それから、鍋の火を弱めながら言う。
「お前が風邪を引く方が困る」
「フィリが風邪を引くのも困るよ」
ミナトがそう返すと、
フィリックスは一度だけミナトを見た。
その視線には、何かを言いたそうな気配があった。
けれど結局、彼は小さく息を吐いて、朝食の器を二人分並べた。
「次は、もう一枚持っていく」
「うん。それがいいね」
ミナトは笑った。
二人で食卓につくと、
会話はいつもより少しだけ途切れがちだった。
気まずいわけではない。
むしろ、言葉にしなくても分かることが増えたようで、
以前なら何か話さなければと思っていた沈黙が、
今は不思議と落ち着く時間になっていた。
ミナトがパンをちぎってスープへ浸していると、
フィリックスがふと口を開いた。
「今日、何をする」
「薬草畑を見て、それから銀露茸で新しい薬を作ってみたいな」
「一人で森へ行くのか」
「近くまでなら」
「俺も行く」
ミナトは顔を上げた。
「フィリ、今日は依頼はないの?」
「ない」
「じゃあ、お休みの日だね」
「ああ」
「せっかくなら、ゆっくりしててもいいのに」
フィリックスは少しだけ考えるように目を伏せた。
「お前といる方が、休める」
その言葉は、あまりにも自然に言われた。
だからこそミナトは、一瞬だけ動きを止めた。
フィリックスも、言ってから気付いたのか、
少しだけ視線を逸らした。
けれど、言葉を取り消すことはしなかった。
ミナトは頬が少し熱くなるのを感じながら、
スープの器へ目を落とした。
「……僕も、フィリといると落ち着くよ」
小さな声だった。
それでも、フィリックスには届いたようだった。
彼は何も言わなかったが、食卓の下でミナトの手へそっと触れた。
指先が重なる。
握るほど強くはない。
ただ、そこにいることを確かめるような触れ方だった。
ミナトは驚かなかった。
少しだけ迷ってから、自分の指をフィリックスの指へ重ねる。
そのまま二人は、しばらく手を触れ合わせたまま朝食を続けた。
食事のあと、ミナトは薬草畑へ向かった。
フィリックスも一緒だった。
薬草畑は家のすぐ裏にあるため、危険な場所ではない。
それでもフィリックスは、
ミナトが土へ膝をつくと自然に近くへしゃがみ込み、
重い水桶を持ち上げようとすれば先に手を伸ばし、
背の高い棚へ乾燥させた薬草を置こうとすれば、
何も言わずに受け取ってくれた。
「フィリ、手伝いすぎだよ」
ミナトが笑いながら言う。
「お前がやろうとしてる」
「自分でできることもあるよ」
「知ってる」
フィリックスは答えた。
「でも、俺がやりたい」
その言い方は、押しつけるようなものではなかった。
ミナトが自分でできることを、ちゃんと分かっている。
その上で、隣にいたいのだと伝えているようだった。
ミナトは少しだけ考えたあと、
持っていた小さな籠をフィリックスへ差し出した。
「じゃあ、これ持ってくれる?」
「ああ」
「僕が摘むから、フィリは入れてね」
「分かった」
二人は並んで薬草を摘んだ。
ミナトが葉の状態を確かめながら、使えそうなものを選んでいく。
フィリックスは受け取った薬草を、傷つけないように籠へ入れる。
その作業は単純だった。
けれど、ミナトにとっては楽しかった。
一人でやれば、もっと早く終わるかもしれない。
それでもフィリックスと一緒なら、
途中で見つけた珍しい虫の話をしたり、
葉の形が面白い薬草を見せ合ったりできる。
何でもない時間が、少しずつ思い出になっていく。
昼前、二人は家の中へ戻った。
ミナトは作業台へ銀露茸を並べ、
昨日から考えていた新しい薬の調合を始める。
銀露茸の粉末に、風鈴草の蜜と、
朝露を集めた小瓶の水を少しだけ加える。
混ぜる順番を間違えれば、ただの眠り薬になる。
けれど上手くいけば、疲労を和らげながら、
眠っているあいだに少しずつ傷を癒す薬になるはずだった。
フィリックスは作業台の少し離れた場所に座り、ミナトの様子を見ていた。
最初は手伝おうとした。
けれどミナトが、ここは自分でやりたいと笑ったため、今は黙って待っている。
それでもミナトが何かを探すように視線を動かせば、
すぐに必要な道具を見つけて渡してくれる。
火が強くなりすぎれば、先に薪を少し引く。
ミナトが集中している間、余計な言葉は掛けない。
その静かな気遣いが、ミナトには心地よかった。
しばらくして、鍋の中の薬液が淡い金色へ変わった。
小さな光の粒が浮かび、ゆっくりと液体の中を巡っている。
ミナトは目を輝かせた。
「できたかも」
「効果は」
「まだ分からないけど……たぶん、うまくいったと思う」
ミナトは慎重に薬を小瓶へ移した。
完成した薬は、昼の光を受けて柔らかく輝いている。
フィリックスはその小瓶を見つめたあと、ミナトへ視線を向けた。
「すごいな」
「まだ試してないよ」
「お前が作ったなら、すごい」
その言葉に、ミナトは少し困ったように笑った。
「フィリは、僕のこと褒めすぎだよ」
「足りない」
「足りない?」
「ああ」
フィリックスは真剣な顔で言った。
「お前は、自分ができることを、あまり大したことじゃないと思ってる」
ミナトは言葉を失った。
確かに、自分にとって薬を作ることは、楽しいことだった。
できるようになったことが嬉しくて、もっと知りたくて続けている。
だから、すごいと言われると、少しだけ照れてしまう。
けれど、フィリックスの目は冗談ではなかった。
「お前が作るものに助けられてる奴は多い」
フィリックスは続ける。
「俺も、その一人だ」
ミナトは小瓶を持ったまま、ゆっくりとフィリックスを見た。
「……フィリも?」
「ああ」
「僕の薬、役に立ってる?」
「何度も」
フィリックスは答えた。
「傷を治すだけじゃない」
その先の言葉は、少しだけ間を置いてから続いた。
「お前が待ってると思うと、無茶をしなくなる」
ミナトの胸が、きゅっと小さく鳴った。
フィリックスは、
今までなら自分の身体を後回しにしていたのかもしれない。
けれど、帰ればミナトが心配する。
怪我をすれば、悲しそうに眉を下げる。
だから無茶をしないようにしようと思える。
そのことが、嬉しいのに、少しだけ切なかった。
「じゃあ、これからも待ってるね」
ミナトは小さく言った。
「フィリが帰ってくる時に、ちゃんとおかえりって言えるように」
フィリックスは、しばらく黙っていた。
それから椅子を引き、ミナトのそばまで歩いてくる。
「ミナト」
「うん?」
フィリックスは、作業台の上に置かれた小瓶へ
触れないよう気を付けながら、ミナトの手を取った。
薬を作っていた手。
土に触れ、草を摘み、小さなものを大切に扱う手。
その手を、フィリックスは両手で包んだ。
「待っていてほしい」
低い声だった。
けれど、迷いのない声だった。
「俺が帰る場所でいてほしい」
ミナトは、フィリックスの手の中にある自分の指を見つめた。
胸の奥が、静かに震えている。
大切にされていることが分かる。
必要とされていることが分かる。
それが嬉しくて、
どう返せばいいのか分からなくなるほど、
胸がいっぱいになる。
「うん」
ミナトはゆっくり頷いた。
「僕でよければ、ずっと」
フィリックスの指が、少しだけ強くミナトの手を包む。
けれど、その力は苦しくない。
むしろ、離さないと言われているようで、安心できた。
「お前がいい」
フィリックスは言った。
その言葉に、ミナトは目を伏せた。
頬が熱い。
けれど、逃げるように手を離すことはしなかった。
二人はそのまま、しばらく手を繋いでいた。
鍋の中では、調合を終えた薬の残り香が静かに漂っている。
窓の外では、薬草畑の葉が風に揺れていた。
何か特別な出来事があったわけではない。
けれど、二人にとっては大切な日だった。
互いの隣にいることが、ただの偶然ではなくなり始めている。
帰ってくる場所と、待っている場所が、
少しずつ同じ意味を持ち始めていた。




