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LIBERAL ONLINE  作者: Guri
26/64

星の下で、名前を呼ぶ


日が傾き始める頃には、辺境の家の周りに広がる草原も、

昼間の明るさを少しずつ手放し始めていた。


遠くの山並みは夕暮れの淡い紫色へ溶け込み、

森の梢にはまだ橙色の光が残っている。


ミナトは何度も窓辺へ近付いては、

まだ星の見えない空を見上げながら

今夜の約束を胸の奥でそっと確かめていた。


昼のあいだ、薬草畑の手入れをしている時も、

乾燥させた素材を棚へ並べ直している時も、

ミナトの心はどこか落ち着かなかった。


楽しみなことがある日に限って、

時間はいつもよりゆっくり進むように感じられる。


それでも、その待つ時間さえも嫌ではなかった。


フィリックスと一緒に見に行く星空を思うと、

何気ない作業の一つ一つまで、

少しだけ特別なものへ変わっていくようだった。


夕食は、いつもより少し早めに済ませた。


ミナトは昼のうちに焼いておいた小さなパンへ、

甘く煮た木の実を挟み、夜の丘で食べられるように布で丁寧に包んだ。


それから冷えた時に飲めるよう、温かな香草茶を小さな水筒へ入れる。


「そんなに持っていくのか」


食卓を片付けながら、フィリックスが言った。


「だって、夜の丘で食べたら、いつもよりおいしいかもしれないよ」


ミナトがそう返すと、フィリックスは少しだけ目を細めた。


「そうかもしれないな」


その返事が嬉しくてミナトは包みを抱えたまま、ふんわりと笑った。


出掛ける前、フィリックスは

暖炉のそばに置いていた厚手の外套を手に取った。


昼間、丘へ行った時よりも夜風は冷たくなる。


それを分かっているからこそ、

彼は何も言わずにミナトの肩へ外套を掛け、

前が開かないように首元の留め具を確かめた。


「寒くない?」


ミナトが尋ねると、フィリックスは短く答えた。


「俺は平気だ」


「でも、フィリも外套を着てるね」


「ああ」


「おそろいみたい」


何気なく零れた言葉に、フィリックスの指先が止まった。


ミナトも、自分が何を言ったのか気付いて少しだけ頬を赤くした。


けれど、取り消すことはしなかった。


フィリックスはしばらく黙っていたが、

やがて留め具から手を離し、低い声で言った。


「……悪くない」


その一言だけで、ミナトの胸はまた温かくなった。


二人が家を出る頃には、森の中にはすでに夜の気配が満ちていた。


昼間には賑やかだった鳥たちの声は遠のき、

代わりに草むらの奥から小さな虫の音が聞こえてくる。


家の窓から漏れる灯りを背にして、

二人は昼間と同じ細い道を歩き始めた。


けれど、夜の森は昼とはまるで違う場所のようだった。


木々の隙間に残る薄い月明かりが、足元へまだらな影を落とし、

風が枝葉を揺らすたび、見慣れた道の向こうにまで

知らない世界が続いているように感じられる。


ミナトは少しだけ緊張していた。


怖いというよりも、夜の外を歩くことそのものが新鮮で、

心が知らないものへ触れた時のように、静かに高鳴っていた。


フィリックスはそんなミナトの歩幅へ合わせ、

何も言わずに手を差し出した。


ミナトはその手を見つめたあと、そっと自分の手を重ねる。


指先が触れた瞬間、

フィリックスの手は迷うことなくミナトの手を包んだ。


昼間よりも冷えた空気の中で、

その温度だけがはっきりと伝わってくる。


「足元、見えにくいから」


フィリックスが言う。


「うん」


ミナトは頷いた。


「でも、手をつないでると、安心するね」


フィリックスはすぐに答えなかった。


ただ、握る手がほんの少しだけ強くなった。


丘へ着く頃には、空はすっかり夜のものになっていた。


昼間にはどこまでも青く広がっていた空が、

今は深く澄んだ紺色へ変わり、

その中に数え切れないほどの星が散らばっている。


小さな光の粒が、丘の上から見渡す世界を静かに覆っていた。


ミナトは足を止めた。


「……すごい」


昼間と同じ言葉だった。


けれど今度はその声に、驚きだけではないものが混じっていた。


星は、病室の窓から見たことがある。


夜になれば、遠い空にいくつかの光が見えることもあった。


けれど、こんなふうに、

空そのものが星で満たされている景色は初めてだった。


見上げれば、どこまでも続く。


手を伸ばしても届かないほど遠いのに、

なぜか自分のすぐ近くにあるように感じられる。


「空が、いっぱいだね」


ミナトは小さく呟いた。


フィリックスは、その横顔を見つめた。


星明かりを受けたミナトの瞳は、

いつもより少し明るく見える。


嬉しそうに空を見上げる姿があまりにも無防備で、

フィリックスはこの景色を見せられてよかったと思った。


「ここは、昔から好きだった」


不意にフィリックスが言った。


ミナトは顔を上げる。


「フィリが?」


「ああ」


フィリックスは、空ではなく遠くの闇へ目を向けた。


「一人でいる方が楽だった頃、よく来てた」


その言葉に、ミナトは少しだけ胸が痛くなった。


フィリックスが一人でこの丘へ立ち、

今と同じ空を見上げていた夜があったのだろう。


誰かと話すこともなく。


誰かの帰りを待つこともなく。


ただ、広い夜の中で自分の呼吸だけを聞いていたのかもしれない。


「寂しくなかった?」


ミナトが尋ねる。


フィリックスはすぐには答えなかった。


「……寂しいと思わないようにしてた」


低い声だった。


「そうしてれば、平気でいられる」


ミナトは繋いだままの手へ少しだけ力を込めた。


「今は?」


フィリックスはミナトを見る。


星明かりの中で、二人の視線が重なる。


「今は、平気じゃなくてもいいと思ってる」


その答えに、ミナトは息を止めた。


フィリックスは視線を逸らさなかった。


「お前が、そう思わせる」


言葉は短い。


けれど、その一つ一つには、

長い時間を掛けて

閉じていた扉を少しずつ開けるような重さがあった。


ミナトは、すぐに何かを言えなかった。


胸の奥が温かくなるのに、同時に少しだけ苦しくなる。


誰かが自分を必要としてくれることが、嬉しかった。


けれど、それを受け取ることに慣れていないから、

どう返せばいいのか分からない。


それでも、黙ったままではいたくなかった。


「僕もね」


ミナトは、空を見上げたまま言った。


「この世界に来る前は、できないことがたくさんあったの」


フィリックスは黙って聞いていた。


「走ることも、遠くへ行くことも、夜に外へ出ることも……

普通の人なら、たぶん当たり前にできることが、僕にはずっと遠かった」


ミナトの声は静かだった。


悲しいことを話しているのに、悲しみに沈み切った声ではない。


今、こうして歩けていることを知っているからこそ、

過去の自分を優しく振り返るような声だった。


「でも、ここに来てから、いっぱいできるようになったよ」


少しだけ笑う。


「走ったり、ジャンプしたり、フィリと一緒に森を歩いたり」


フィリックスの手が、わずかに動く。


「だからね。フィリといると、できることがもっと増える気がする」


その言葉に、フィリックスは目を伏せた。


自分がミナトへ何かを与えているとは、考えたことがなかった。


守りたいと思っていた。


危ない目には遭わせたくないと思っていた。


けれど、ミナトにとって自分の隣が、

世界を広げる場所になっているのだとしたら。


それは、フィリックスにとって何よりも大切なことだった。


「……これからも」


フィリックスが言う。


少しだけ掠れた声だった。


「お前が見たいものを、見せたい」


ミナトは彼を見る。


「知らない場所も、綺麗な景色も」


フィリックスは続けた。


「俺が知ってるものなら、全部」


その言葉は、約束のようだった。


けれど今までのように、ただ帰ってくるという約束ではない。


これから先の時間を、一緒に歩くための約束だった。


ミナトの目元が、少しだけ熱くなる。


「……うん」


それから、ふんわりと笑った。


「僕も、フィリに見せたいものがあるよ」


「何を」


「僕が作った薬とか、武器とか。まだ失敗も多いけど」


フィリックスは、少しだけ笑った。


「それは、もう十分見てる」


「これからもっとすごくなるかもしれないよ」


「なら、全部見る」


二人の間に、柔らかな笑いが零れた。


丘の上を渡る風は冷たかった。


けれど隣にいる人の温度があれば、

その冷たささえも心地よく感じられる。


ミナトは持ってきた布包みを開いた。


木の実を挟んだ小さなパンと、水筒に入れた香草茶。


フィリックスは受け取ったパンを一口食べてから、

何も言わずにもう一口食べた。


「おいしい?」


ミナトが尋ねる。


「ああ」


「よかった」


「甘いな」


「木の実を多めに入れたから」


「知ってる」


「え?」


「お前が昼から、何度も味見してた」


ミナトは目を丸くしたあと、恥ずかしそうに笑った。


「見てたの?」


「ああ」


「言ってくれればよかったのに」


「楽しそうだったから」


その言葉に、ミナトはしばらく黙った。


自分が何かを楽しんでいる姿を、誰かが見ていてくれる。


そして、そのことを嬉しいと思ってくれる。


そんな当たり前のようで、

ミナトにはまだ少しだけ眩しいことが、今はすぐ隣にある。


やがてミナトはそっとフィリックスの肩へ寄りかかった。


昼間のように、夜のように。


もう何度か重ねてきた小さな勇気を、今度も大切に抱えながら。


フィリックスは少しだけ驚いたように息を止めた。


けれど、すぐにミナトの肩へ自分の外套の端を掛け直し、

冷たい風が入らないように包み込む。


「寒いか」


「ううん」


ミナトは首を振った。


「フィリの隣だから、あったかい」


フィリックスは、しばらく何も言わなかった。


その代わり、繋いでいた手を離し、

ミナトの肩をゆっくりと抱き寄せる。


強く引き寄せるのではない。


嫌なら離れられるように。


けれど離れてほしくないという願いだけは隠さないように。


ミナトは驚かなかった。


むしろ、安心したようにフィリックスの胸元へ額を寄せた。


聞こえてくる心臓の音は、少しだけ速い。


それが自分のせいなのだと気付くと、胸の奥が甘く震えた。


「ミナト」


頭の上から、低い声が落ちてくる。


「うん」


「……名前を呼ぶと、帰ってきたって思う」


ミナトは顔を上げた。


フィリックスは少しだけ困ったように、

けれど真剣な目でミナトを見ていた。


「どこにいても、お前を呼ぶと、戻る場所があるって分かる」


その言葉に、ミナトの瞳が揺れた。


「僕も」


小さな声で言う。


「フィリって呼ぶと、ひとりじゃないって思える」


二人はしばらく、互いの顔を見つめていた。


星は変わらず空にあり、風は草原を渡り、

遠くでは夜の獣が短く鳴いている。


世界は何も変わらずに続いているのに、

二人の間だけが、少しずつ違う場所へ進んでいるようだった。


フィリックスは、ミナトの頬へそっと手を伸ばした。


昼間に髪を結んだ時よりも、

暖炉の前で触れた時よりも、ほんの少しだけ迷いが少ない。


けれど、触れる直前には確かめるように目を見つめた。


ミナトは逃げなかった。


ただ、少しだけ頬を赤くしながら、静かに目を閉じた。


フィリックスの指先が、ミナトの頬へ触れる。


親指が、そこを一度だけ優しく撫でた。


それ以上は、何もしなかった。


けれど、その触れ方には、

言葉にできないほど大切にしたい気持ちが込められていた。


「帰ろう」


フィリックスが言う。


「冷える」


「うん」


ミナトは頷いた。


けれど立ち上がる前に、もう一度だけ空を見上げた。


数え切れない星が、静かに瞬いている。


いつか今日のことを思い出す時、この星空も、

フィリックスの腕の温度も、きっと胸の中で一緒に光るのだろうと思った。


帰り道、二人は来た時よりもゆっくり歩いた。


手をつなぎ、時々言葉を交わしながら、

家の窓から漏れる灯りを目指して進んでいく。


その灯りが見えた時、ミナトは少しだけ嬉しそうに笑った。


フィリックスもまた、

隣にいるミナトの手を離さないまま、静かに歩幅を合わせた。


二人にとってあの家は、もうただ住むための場所ではなかった。


互いの名前を呼び、帰ってくるための場所になり始めていた。



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