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LIBERAL ONLINE  作者: Guri
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星降る丘の約束

 

 翌朝ミナトが目を覚ました時、

 窓の外にはまだ淡い朝靄が残っていた。


 夜のあいだに冷えた空気が草原の上を薄く覆い、

 家の前から森へ続く道も、その先に広がる丘の稜線も、

 白い布を一枚だけ重ねたように柔らかく霞んでいる。


 早起きの鳥たちが枝の間から短い声を交わすたび、

 その音だけが静かな世界へ小さな波紋を広げているようだった。


 ミナトは布団の中でしばらく目を閉じたまま、昨夜のことを思い出していた。


 暖炉の前。


 肩へ掛けられた毛布。


 傷を負ったフィリックスの隣へ、自分からそっと寄りかかったこと。


 それから、何も言わずに肩を寄せ返してくれた、彼の確かな温度。


 思い返すたび、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。


 けれど、それは困るような気持ちではなかった。


 むしろ、朝になっても消えずに残っていることが、ミナトには嬉しかった。


 誰かのことを思い出して、こんなふうに心が温かくなる朝は、

 これまであまり知らなかったからだ。


 身支度を整えて居間へ行くと、フィリックスはすでに朝食の準備をしていた。


 鍋の中では、細かく切った野菜と干し肉が煮込まれていて、

 火に掛けられた湯気の向こうでフィリックスはいつものように

 無駄のない手つきで木の匙を動かしている。


 ただミナトが部屋へ入ってきたことに気付いた時だけ、

 その横顔がわずかに柔らかくなった。


「おはよう」


 ミナトが言う。


「ああ。おはよう」


 低い声が返ってくる。


 それだけのやり取りなのに、昨日までとは少し違って聞こえた。


 言葉の間に、昨夜の静かな時間が残っている。


 触れた肩の温度や、帰ってくると約束してくれた声が

 二人の間に見えない形で置かれているようだった。


 ミナトは食卓へ近付きながら、フィリックスの腕へ視線を向けた。


 包帯はまだ巻かれている。


 けれど、昨日よりも動かしにくそうな様子はない。


「腕、どう?」


「痛みはほとんどない」


「本当?」


「本当だ」


 フィリックスはミナトがまだ心配そうに見ていることに気付き、

 少しだけ腕を動かしてみせた。


「ほら」


「無理してない?」


「してない」


 ミナトはしばらくその様子を見つめていたが、

 やがて小さく息を吐いて笑った。


「じゃあ、よかった」


 その笑顔を見て、フィリックスは何かを言いかけた。


 けれど結局は言葉にせず、朝食の器を二人分並べた。


 食事を終えたあとミナトはいつものように

 薬草畑へ向かう準備を始めた。


 昨日のうちに乾燥棚へ置いた銀露茸を確認し、

 それから風鈴草の苗へ水をやり、

 昼には新しいポーションの試作をしようと思っていた。


 けれど玄関の近くで靴を履こうとした時、

 フィリックスが背後から声を掛けた。


「今日は、畑は休め」


 ミナトは振り返った。


「え?」


「俺と一緒に来てほしい場所がある」


 フィリックスは、いつもより少しだけ

 言葉を選ぶようにして続けた。


「遠くはない。危ない場所でもない」


「どこ?」


「行けば分かる」


 その言い方が少しだけ不思議で、ミナトは目を瞬かせた。


 フィリックスが、自分から

 どこかへ連れていくと言うことは珍しかった。


 採取や依頼のために一緒に出掛けることはある。


 けれど目的を教えずに、

 ただ一緒に来てほしいと言われたことはほとんどない。


 ミナトの胸の奥に、冒険へ出る前のような小さな期待が生まれる。


「うん」


 迷う理由はなかった。


「行きたい」


 フィリックスは、ほんの少しだけ安心したように目を伏せた。


 それからミナトの外套を手に取る。


 朝靄はもう薄くなっているけれど、

 丘の方へ行けば風が冷たいかもしれないと思ったのだろう。


「これを着ろ」


「ありがとう」


 ミナトが袖へ腕を通すと

 フィリックスは襟元が乱れていないかを確かめるように、

 首元の布をそっと整えた。


 指先が、ほんの一瞬だけ鎖骨の近くへ触れる。


 ミナトは驚いて見上げた。


 フィリックスも触れたことに気付いたのか、わずかに視線を逸らした。


「風が入る」


「うん」


 ミナトは小さく笑った。


「大丈夫。あったかいよ」


 二人は家を出た。


 朝靄の残る草原を抜け、森の端を回り込むようにして、

 普段はあまり使わない細い道へ入る。


 道の両側には背の低い花が咲いていた。


 白や淡い紫の小さな花弁には、まだ朝露が残っていて、

 ミナトが近付くたびに、その雫が朝の光を受けて細かく揺れる。


「この道、初めて通るかも」


 ミナトが言う。


「ああ。普段は使わない」


「でも、きれいだね」


「そうだな」


 フィリックスは短く答えた。


 けれどミナトが花を見つけるたび足を止め、

 嬉しそうに目を細める様子を見ていると、

 その声はいつもより柔らかかった。


 しばらく歩くと、道はゆるやかな坂になった。


 木々の間を抜ける風が少しだけ強くなり、

 ミナトの髪を結んでいた紐の端が揺れる。


 フィリックスは、その紐がほどけていないかを気にするように

 何度か視線を向けていた。


「フィリ」


 ミナトが呼ぶ。


「なんだ」


「昨日、また結んでくれるって言ってくれたでしょ」


「ああ」


「今日も、もしほどけたらお願いしていい?」


 フィリックスは一瞬だけ足を止めた。


 それから、ミナトの髪紐を見て、低く答える。


「ほどけなくても、直す」


 その言葉があまりにも真面目で、ミナトは思わず笑ってしまった。


「うん。じゃあ、お願いするね」


 坂を上り切ると、その先には小さな丘が広がっていた。


 辺境の家からは見えない場所だった。


 草原の中でも少しだけ高い位置にあり、

 周囲には大きな木も岩もなく、遠くまで遮るものがない。


 丘の上からは、二人が住む家の屋根が、森の向こうに小さく見えた。


 さらにその向こうには、朝の光を受けた山並みが連なり、

 空はどこまでも広く、青く澄んでいる。


 ミナトは足を止めた。


「すごい」


 思わず零れた声は、風にさらわれそうなくらい小さかった。


 けれど、フィリックスには十分に届いた。


「夜に来ると、もっと見える」


「夜?」


「星が」


 フィリックスは丘の先へ視線を向けた。


「この辺りは、街の灯りがない。空が全部見える」


 ミナトは、ゆっくりと空を見上げた。


 現実の病室から見える空は、

 いつも窓枠に切り取られた小さな四角だった。


 外へ出られない日々の中で、空は遠くにあるものだった。


 けれどこの世界では、空の下を歩ける。


 風を受けられる。


 見上げれば、どこまでも続く青さが、自分を包んでくれる。


「星、たくさん見えるんだね」


「ああ」


「……見てみたいな」


 ミナトがそう言うと、フィリックスは少しだけ黙った。


 その横顔には、何かを決めた人のような静かな強さがあった。


「今夜、来るか」


 ミナトは目を見開いた。


「いいの?」


「俺が連れてくる」


「夜の森、危なくない?」


「この道なら大丈夫だ。俺がいる」


 その言葉に、ミナトの胸が温かくなる。


 俺がいる。


 それは、ただ護衛をするという意味だけではないように聞こえた。


 怖くないようにそばにいる。


 一緒に見たいから連れていく。


 そんな気持ちが、言葉の奥に静かに隠れているようだった。


「うん」


 ミナトは頷いた。


「行きたい」


 丘の上には、風に揺れる草の音だけがあった。


 二人はしばらく並んで立ち、遠くに見える家を眺めていた。


 あの小さな屋根の下に、暖炉がある。


 薬草の匂いがある。


 二人で食べる食事がある。


 帰ってくると言ってくれる人と、待っていると言える人がいる。


 ミナトは胸の奥に生まれた気持ちを、まだうまく言葉にできなかった。


 けれど、


 フィリックスと並んでこの景色を見ていることが、

 どうしようもなく嬉しかった。


 その時、風が少し強く吹いた。


 ミナトの髪紐がほどけ、柔らかな髪が肩へ落ちる。


「あ」


 ミナトが手を伸ばすより早く、フィリックスが後ろへ回った。


「動くな」


「うん」


 フィリックスは、昨日と同じようにミナトの髪を手へ集めた。


 けれど今日は、もう昨日ほど迷ってはいなかった。


 指先は慎重で、髪を掬う動きはゆっくりと優しい。


 風が吹く丘の上で、フィリックスの大きな手が、ミナトの髪を丁寧にまとめていく。


「また結んでくれた」


 ミナトが言う。


「ああ」


「嬉しいな」


 フィリックスの手が、一瞬だけ止まった。


 けれど結び終えたあともすぐには離れず、髪の上からそっと撫でる。


「……俺もだ」


 低い声だった。


 何が嬉しいのか、フィリックスは言わなかった。


 ミナトの髪を結ぶことなのか。


 こうして一緒に丘へ来られたことなのか。


 ミナトが笑ってくれることなのか。


 けれどミナトには、そのどれもが含まれているように思えた。


 帰り道、二人は自然に手をつないだ。


 朝の光の中で。


 風に揺れる草原を歩きながら。


 夜になれば、またこの丘へ戻ってくる約束を胸に抱えながら。


 その手は、以前よりも少しだけ迷いなく重なっていた。


 そしてミナトは、空にまだ見えない星を思いながら、

 今夜が来るのを子どものように楽しみにしていた。



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