傷に触れる指先
フィリックスが家の中へ入ると、
外からまとわりついてきた夜の冷たさが
扉の閉まる音と一緒に少しずつ遠ざかっていった。
暖炉にはすでに火が入っていて、
橙色の炎が薪を静かに包みながら揺れている、
夕食のために温められていたスープからは
柔らかく煮込まれた野菜と香草の匂いが、
空腹を思い出させるようにゆっくりと広がっていた。
ミナトは玄関の近くに立ったまま、
帰ってきたフィリックスの顔を何度も見上げた。
大きな怪我ではない。
歩き方もいつも通りで、声にも苦しそうなところはない。
それでも、鎧の肩口に付いた土や、
腕のあたりに見える浅い傷を見つけるたび、
胸の奥には小さな痛みのようなものが残った。
「座って」
ミナトは、なるべく穏やかな声で言った。
「ごはんの前に、先に傷を見せてほしいな」
フィリックスは少しだけ眉を寄せたが、
朝に交わした約束を思い出したのだろう。
何も言わずに頷き、暖炉の近くに置かれた椅子へ腰を下ろした。
ミナトはすぐに作業台の方へ向かい、
回復薬の小瓶と傷口を洗うための水、
それから柔らかな布を持って戻ってくる。
その動きには迷いがなかった。
誰かを看病することに慣れているからというだけではない。
フィリックスの傷を前にすると、早く痛みを
和らげてあげたいという気持ちが自然と身体を動かしていた。
「鎧、少し外してもいい?」
「ああ」
フィリックスは短く答え、肩の留め具へ手を掛けた。
けれど片腕を動かした時に傷へ触れたのか、ほんのわずかに眉が動く。
ミナトはその小さな変化を見逃さなかった。
「痛い?」
「大したことない」
「痛いんだね」
ミナトは責めるように言ったわけではなかった。
ただ少しだけ困ったように笑いながら、
フィリックスの手へそっと触れる。
「今日は、大丈夫って言わないって約束したでしょ」
その言葉にフィリックスはしばらく黙っていた。
暖炉の火がぱちりと小さく弾ける。
外では、夜の風が家の壁を撫でるように通り過ぎていった。
「……少しだけだ」
やがてフィリックスは、低く言った。
「動かすと、少し痛む」
ミナトは目を細めた。
「うん。言ってくれてありがとう」
その一言が、フィリックスの胸へ静かに落ちた。
痛いと口にしただけで何かを責められることもない。
弱いと思われることもない。
ただ、ありがとうと言われる。
それがフィリックスには、
思っていたよりも不思議で、そして温かなことだった。
鎧を外すと、肩から腕にかけて
魔物の爪が掠めたらしい赤い傷が見えた。
深くはない。
けれど、
汚れが入り込めば悪化するかもしれない傷だった。
ミナトは椅子のすぐ隣へ腰を下ろし、
布を水へ浸してから傷の周りをゆっくりと拭き始めた。
「少ししみるかもしれない」
「平気だ」
「うん。でも、痛かったら言ってね」
ミナトの指先は、とても慎重だった。
傷口へ直接触れる時も、
痛みを増やさないように気を付けながら、汚れを少しずつ落としていく。
長い入院生活の中で、
自分の身体へ向けられてきた看護師たちの手をミナトは覚えていた。
怖がらせないように。
痛みがある時には、先に伝えるように。
何をするのか分からないまま触れられることがないように。
そんな優しさを、いつの間にか自分も誰かへ返すようになっていた。
フィリックスは、ミナトの横顔を見ていた。
真剣に傷を見つめる瞳。
時々、心配そうに揺れる睫毛。
薬を塗るために少しだけ近付く時、柔らかな髪が頬へ落ちる。
その一つ一つが近すぎて、
フィリックスは傷の痛みとは別の理由で呼吸を整えるのが難しくなっていた。
「フィリ」
ミナトが小さく呼ぶ。
「なんだ」
「今日、怖くなかった?」
不意の問いに、フィリックスは目を伏せた。
「何が」
「依頼」
ミナトは薬を塗る手を止めずに続けた。
「魔物が出る場所へ行く時って、フィリはいつも落ち着いてるから。
怖くないのかなって思ってたんだけど……
でも、怖いって思うことがあっても、変じゃないよね」
フィリックスはすぐには答えなかった。
怖いと思うことはある。
仲間が傷つく時。
守るべき者が背後にいる時。
自分の剣が間に合わないかもしれないと、一瞬でも思った時。
けれど、恐怖を言葉にすることは、彼にとってずっと難しかった。
「……ある」
やがて、フィリックスは言った。
ミナトの手が止まる。
「あるんだ」
「ああ」
フィリックスは、暖炉の火を見つめたまま続けた。
「守れないかもしれないと思う時は、怖い」
その声は低く、少しだけ掠れていた。
けれどミナトは、驚いたり、余計な慰めを言ったりしなかった。
ただ薬を塗り終えたあと、
フィリックスの腕へ包帯を巻きながら、ゆっくりと頷いた。
「そっか」
それから、少しだけ考えるように視線を落とす。
「じゃあ、フィリが怖いって思う時に、僕もそばにいられたらいいな」
フィリックスはミナトを見た。
「危ない場所に連れていくって意味じゃないよ」
ミナトは慌てて付け加えた。
「帰ってきた時とか、疲れた時とか……
フィリが一人で抱えなくてもいいように、ここにいたいなって思っただけ」
言葉は控えめだった。
けれど、その中にある想いはまっすぐだった。
フィリックスは包帯を巻くミナトの手元を見つめた。
自分の傷へ触れる指先は小さくて、柔らかくて、戦うためのものではない。
それなのに、
どんな剣よりも強く、自分の中にある固いものをほどいていく。
「……ミナト」
呼ぶ声が、少しだけ低くなる。
「うん?」
ミナトが顔を上げた。
その瞬間、フィリックスは手を伸ばした。
包帯を巻き終えたばかりの腕ではなく、
怪我をしていない方の手で、ミナトの頬へそっと触れる。
驚かせないように。
嫌がられたらすぐに離せるように。
けれど、触れたかった。
柔らかな頬へ指先が触れると、ミナトは目を瞬かせたあと、
逃げることなく、静かにその手へ頬を寄せた。
「帰ってくる」
フィリックスは言った。
「お前が待ってるなら、必ず」
その言葉は、約束だった。
冒険者としての誇りでも、強がりでもない。
ミナトのいるこの家へ帰りたいという、
フィリックス自身の願いだった。
ミナトの瞳が、少しだけ潤んだ。
けれど泣く代わりに、ふんわりと笑った。
「うん。待ってる」
それからミナトはフィリックスの手へ自分の手を重ねた。
頬へ触れていた大きな手を、両手でそっと包む。
「だから、帰ってきたら、ちゃんとただいまって言ってね」
「ああ」
「僕も、ちゃんとおかえりって言うから」
フィリックスは、しばらくミナトの手を見つめていた。
そして今度は自分から指を絡めるように、ゆっくりと手を握り返した。
強くはない。
けれど、離したくないと思っていることだけは、
はっきりと伝わる握り方だった。
夕食のスープは、少しだけ冷めてしまっていた。
けれどミナトが温め直し、フィリックスがパンを切り分け、
二人で食卓へ並んで座る頃には、
家の中には先ほどよりも深い温かさが満ちていた。
食事の途中、フィリックスはいつもより少しだけゆっくり話した。
護衛の途中で見つけた村のこと。
荷車を襲った魔物が、山の奥から下りてきたらしいこと。
助けた商人が、ミナトの作った回復薬を見て驚いていたこと。
ミナトは一つ一つを嬉しそうに聞き、
時々心配そうに眉を下げながらも、
フィリックスが話してくれること自体を大切に受け取っていた。
夜が深くなり、食器を片付け終えたあと、
ミナトは暖炉の前へ小さな毛布を持ってきた。
「眠る前に、少しだけここにいよう」
フィリックスは頷いた。
二人は暖炉の前に並んで座った。
肩が触れるほど近くに座っているのに、
どちらも離れようとはしない。
炎が揺れるたび、壁に映る二人の影もゆっくり揺れる。
ミナトはフィリックスの怪我をした腕を気にするように、
そっと視線を向けた。
「まだ痛い?」
「さっきよりは」
「よかった」
「薬が効いた」
その言葉にミナトは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、明日もちゃんと見せてね」
「ああ」
フィリックスはそう答えたあと、
少しだけ迷うように手を動かした。
そして、ミナトの肩へ毛布を掛け直す。
毛布の端を整える指先が、首元の近くへ触れる。
ミナトは少しだけ息を止めた。
フィリックスはその反応に気付いたのか
すぐに手を離そうとした。
けれどミナトは、
今度は自分からフィリックスの肩へそっと寄りかかった。
「……フィリの隣、あったかいね」
小さな声だった。
フィリックスは動かなかった。
けれどしばらくしてから、
ミナトの肩へ自分の肩を少しだけ寄せた。
「暖炉があるからだ」
「うん」
ミナトは笑った。
「それもあるね」
けれど、二人とも分かっていた。
温かいのは暖炉の火だけではないことを。
夜は静かに深まっていった。
外には、どこまでも広い辺境の闇がある。
魔物も、知らない土地も、いつかまた二人の前へ現れるのだろう。
それでも今は、暖炉の火のそばで、肩を寄せ合っている。
互いが帰る場所になり始めていることを、
まだ完全には言葉にできないまま。
けれど、その温度だけは、もう確かに知っていた。




