帰りを待つ灯り
雨上がりの森で銀露茸を採取した翌日、
辺境の家には朝から柔らかな日差しが差し込んでいた。
窓の外では、昨夜のうちに乾いた草が風に揺れ、
家の裏手に広がる薬草畑も、いつもより少しだけ元気そうに見える。
ミナトは朝食の席につく前から何度も窓辺へ近付き、
今日はどの薬草から手入れをしようかと、楽しそうに考えていた。
けれどその日のフィリックスには、
昼前から街へ出なければならない用事があった。
冒険者ギルドから届いた連絡によれば、
近くの村へ運ばれるはずだった荷車が途中の山道で魔物に襲われたらしく、
護衛を務める予定だった冒険者たちも数人負傷してしまったため、
急ぎで腕の立つ者を回してほしいという依頼が入ったのだという。
「遠くまで行くの?」
朝食の途中、ミナトが少しだけ不安そうに尋ねた。
フィリックスはパンをちぎる手を止め、
卓上に置かれた依頼書へ目を落としたあと、できるだけ穏やかな声で答えた。
「村までだ。日が落ちる前には戻れる」
「危ない魔物なのかな」
「群れで出る小型のやつららしい。俺一人なら問題ない」
いつものように、フィリックスは大丈夫だと言った。
けれどミナトはその言葉を聞いてもすぐには安心した顔になれなかった。
フィリックスが強いことは知っている。
どんな魔物が相手でも、迷いなく剣を振るい、
誰かが傷ついていれば自分より先に助けに入る人だということも、
もう十分に分かっている。
それでも、強いから怪我をしないわけではない。
大丈夫だと言う人ほど、痛みを隠してしまうことがあるのだと
ミナトは知っていた。
「……無理しないでね」
少し間を置いてから、ミナトはそう言った。
「もし怪我をしたら、ちゃんと薬を飲んで。帰ってきたら、僕にも見せて」
フィリックスは一瞬だけ黙った。
その沈黙は、面倒だと思ったからではない。
むしろ自分を心配するミナトの言葉が、
胸の奥へまっすぐ届いてしまったからだとミナトには何となく分かった。
「分かった」
やがてフィリックスは低く答えた。
「約束する」
その返事に、ミナトはようやく少しだけ笑った。
「うん」
食事を終えたあと、フィリックスは旅装を整え始めた。
腰へ剣を下げ、軽い革鎧を身に着け、必要な道具を確かめていく姿は
家の中にいる時の穏やかな彼とは少し違って見える。
背筋はまっすぐで、表情は静かに引き締まり、
これから危険な場所へ向かう者だけが持つ緊張を
決して大きく見せないまま纏っていた。
ミナトはそのそばで、小さな革袋へ回復薬を詰めていた。
いつもならフィリックスが持っている分だけで十分だと言われる。
けれど今日は、少し多めに入れた。
傷を治す赤い薬。
疲れを和らげる淡い黄色の薬。
眠りを深くするために作った、風鈴草入りの小瓶。
最後の一つを袋へ入れたあと、
ミナトは少しだけ迷ってから袋の口をきゅっと紐で結んだ。
「これも持っていって」
差し出すとフィリックスは中身を見て眉を寄せた。
「眠り薬までいるか」
「もし帰ってきて、疲れて眠れなかったら使ってほしいなと思って」
「俺は平気だ」
「うん、でも」
ミナトはそこで言葉を切った。
平気だと言われても。
それをそのまま信じて何もしないことが今の自分にはできなかった。
以前なら、
相手がそう言うならそうなのだろうと思っていたかもしれない。
けれど、フィリックスが怪我をして倒れていたあの日から
彼が時々、自分の痛みを後回しにしてしまう人だと知っている。
そして知ってしまったからには、できるだけそばで気に掛けていたいと思う。
「持っていってくれたら、僕が安心するの」
ミナトは小さく笑って言った。
「それだけ」
フィリックスは、しばらく革袋を見つめていた。
それから何も言わずに受け取り、
自分の荷物の一番取り出しやすい場所へしまった。
「……使う」
短い言葉だった。
けれど、ミナトには十分だった。
玄関の外へ出ると、朝の光はもう高くなっていた。
家の前の細い道は、森を抜けて街の方角へ続いている。
フィリックスは一度だけ振り返りミナトへ手を伸ばした。
以前なら、出掛ける前にそんなことをする人ではなかった。
けれど今は、
どちらからともなく触れることが、少しずつ自然になり始めている。
ミナトは迷わずその手を取った。
大きな手に自分の指が包まれる。
短い時間だった。
けれど、ただの見送りではないような気がした。
「行ってくる」
「うん。いってらっしゃい」
ミナトは手を握り返した。
「待ってるね」
その言葉を聞いた時、フィリックスの目がほんの少しだけ揺れた。
待っている。
それは当たり前のようでいて、彼にとっては当たり前ではなかったのだろう。
依頼を終えても、誰かが帰りを待っているわけではない日々を
きっと長く過ごしてきたのだ。
だからこそ、ミナトの柔らかな声が思っている以上に深く胸へ残った。
「……ああ」
フィリックスはそう答えたあと、ゆっくりと手を離した。
そして、何度も振り返ることなく森の道を歩き始めた。
けれど家が見えなくなる少し手前で、一度だけ足を止めた。
ミナトがまだ玄関の前に立っていることを確かめるように振り返り、
それからようやく、いつもより少しだけ軽い足取りで街の方へ向かっていった。
フィリックスを見送ったあと、ミナトは家の中へ戻った。
いつもなら、朝から薬草畑の手入れをして、
昼前には作業台へ素材を並べ、新しい薬の調合を試している頃だった。
今日もやるべきことはたくさんある。
雨上がりの薬草は手入れが必要だし、
採取してきた銀露茸も鮮度が落ちる前に加工しておかなければならない。
それでも、家の中がいつもより少し広く、静かに感じられた。
暖炉の前に置かれた椅子。
朝食の時にフィリックスが座っていた場所。
壁際に立て掛けられた予備の剣。
そんな何気ないものへ目が向くたび、
もう出掛けてからそれほど時間が経っていないのに、
早く帰ってきてほしいと思ってしまう。
「変なの」
ミナトは小さく呟いた。
フィリックスが街へ行くことは、これまでにも何度もあった。
依頼を受けることも、素材を買いに行くことも、ギルドへ顔を出すこともあった。
そのたびにミナトは気を付けてねと送り出し、
帰ってくればおかえりと言って迎えていた。
けれど今日は、その一つ一つが以前とは違って感じられる。
帰ってくるまでの時間が、少しだけ長い。
帰ってきた時に、どんな顔をして迎えようかと考えてしまう。
そして、自分の作った薬をちゃんと持っていってくれたことが、
どうしようもなく嬉しい。
ミナトは気持ちを紛らわせるように、作業台へ向かった。
銀露茸を細かく刻み、乾燥させた風鈴草の花弁と混ぜ、
透明な小鍋へ少しずつ水を加えていく。
火加減を調整しながら、薬液の色が変わっていくのを眺める。
淡い青色だった液体は、しばらくすると朝靄のような白を含み始め、
やがて小さな光の粒を浮かべながら、静かに揺れた。
新しい薬を作る時、ミナトはいつも楽しかった。
知らなかった素材が、手の中で違う表情を見せる。
組み合わせによって、思いもしなかった効果が生まれる。
失敗しても、次はどうすればいいのか考えられる。
この世界には、まだまだ知らないことがある。
そのことが、ミナトには何より嬉しかった。
けれど今日の薬は、いつもより少しだけ特別だった。
フィリックスが帰ってきた時に、少しでも疲れが取れるように。
もし怪我をしていたら、すぐに使えるように。
眠れない夜が来た時に、少しでも穏やかな眠りへ誘えるように。
そんなことを考えながら作っていると、
鍋の中の薬液まで優しい色になっていくような気がした。
昼を過ぎても、フィリックスは戻らなかった。
ミナトは一人で簡単な昼食を取り、
薬草畑の手入れをし、乾燥棚へ素材を並べた。
それでも、何度も家の前へ出ては、森へ続く道を見つめてしまう。
夕方が近付くにつれて空はゆっくりと橙色へ染まり始めた。
森の影が長く伸び、家の周りにある草原も、昼間よりずっと静かになる。
ミナトは暖炉へ火を入れた。
まだ寒い季節ではない。
けれど、帰ってきたフィリックスが少しでも温まれるようにと思った。
それから、夕食の準備を始めた。
疲れている時でも食べやすいように、野菜を柔らかく煮込んだスープを作る。
パンを温め、少しだけ甘い木の実を刻んで入れる。
フィリックスは甘いものを好んで食べるわけではない。
けれど以前、木の実入りのパンを出した時には、何も言わずに二つ食べていた。
だから今日も、少しだけ入れた。
空がすっかり暗くなり始めた頃、遠くから足音が聞こえた。
ミナトは、手にしていた木の匙を置くより早く玄関へ向かった。
扉を開ける。
薄暗い森の道の向こうからフィリックスが歩いてくるのが見えた。
肩には少し土が付き、鎧の端には浅い擦り傷がある。
けれど歩き方はしっかりしていて、大きな怪我をしている様子はなかった。
それを見た瞬間、ミナトの胸に溜まっていたものが、一気にほどけた。
「フィリ」
名前を呼ぶ声が、思っていたより大きくなった。
フィリックスが顔を上げる。
家の窓から漏れる暖かな灯り。
玄関の前に立つミナト。
自分を見つけた途端に、安心したように表情を緩めるその姿。
フィリックスは帰る場所という言葉が、
今までよりずっと具体的な形を持って胸へ落ちてくるのを感じた。
「ただいま」
低い声が、夜の始まりへ溶ける。
ミナトは一歩、二歩と近付いた。
それから、フィリックスの腕や肩を確かめるように見上げて、
少しだけ眉を下げる。
「怪我してる」
「浅い」
「でも、怪我してるよ」
「……そうだな」
いつもなら大丈夫だと言って終わらせていたかもしれない。
けれど、朝に約束したことを思い出したのか、
フィリックスは逃げるように視線を逸らさなかった。
ミナトはそれを見て、少しだけ安心したように笑う。
「中に入って。すぐ薬を塗るから」
「ああ」
フィリックスが頷く。
そして玄関をくぐる時、ミナトの手が自然に彼の手へ触れた。
迎えるために。
帰ってきたことを確かめるために。
フィリックスはその手を取った。
家の中には、温かなスープの匂いと、
暖炉の火の揺れる音が満ちていた。
外には夜が広がっている。
けれど二人のいる場所には、帰りを待つ灯りがあった。
フィリックスはその灯りを見つめながら、
これから先、どれほど遠い場所へ行くことになっても、
必ずここへ戻りたいと思った。
ミナトがいるこの家へ。
自分の名前を呼んで、安心したように笑ってくれる人のいる場所へ。




