表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
LIBERAL ONLINE  作者: Guri
22/64

朝の髪を結ぶ手

 

 翌朝、辺境の家を包んでいた雨は

 夜のあいだにすっかり止んでいた。


 空はまだ少し白みを残しながらも澄んでいて、

 窓を開けると湿った土の匂いと、

 濡れた草の青い香りが部屋へ流れ込んできた。


 屋根の端には、夜の名残のように雫がいくつも並んでいる。


 朝日がその一つ一つへ触れるたび、淡い光が小さく揺れて、

 まるで家の周りにだけ、まだ雨の魔法が残っているようだった。


 ミナトはいつもより少し遅く目を覚ました。


 雨音を聞きながら過ごした昨日の午後が、

 眠りの中にも続いていたような気がして目を開けた直後には、

 自分がどこにいるのかより先に、

 胸元へ額を預けた時の温かさを思い出してしまった。


 フィリックスの腕。


 背中を包むように回された手。


 髪を撫でる、少しだけためらいがちな指先。


 思い出すだけで頬が熱くなる。


 ミナトは布団の中で小さく身じろぎをしてから

 枕元に置いていた髪紐を手に取った。


 けれど、まだ寝起きで指先がうまく動かなかったのか、

 柔らかな茶色の髪をまとめようとしても何度か紐を落としてしまう。


「……あれ」


 小さく呟きながら、ミナトは鏡の前で髪を掬い直した。


 長くなりすぎた前髪が頬へ落ち、視界を少しだけ邪魔する。


 いつもなら急ぐこともなく

 時間を掛けて結び直せばいいだけのことだった。


 けれど今日は、なぜか落ち着かなかった。


 昨日のことを思い出すたび、胸の奥がくすぐったくなり、

 いつも通りの朝を過ごしているつもりでも、

 何かが少しだけ変わってしまったような気がしていた。


 その時、寝室の扉が控えめに叩かれた。


「起きてるか」


 聞こえてきた低い声に、ミナトは慌てて振り返る。


「う、うん。起きてるよ」


「朝飯ができる」


 フィリックスは扉の向こうからそう言ったあと、

 少しだけ間を置いた。


「……入っていいか」


 いつもなら、そんなふうに確認されることはなかった。


 けれど、昨日のあとだからなのか、

 その一言が妙に丁寧に聞こえてミナトの胸はまた少し早く鳴る。


「うん、どうぞ」


 扉が開く。


 フィリックスはいつもの簡素な服を着ていた。


 剣も鎧も身に着けていない朝の姿は、

 冒険者として外にいる時よりも少しだけ柔らかく見える。


 けれど、寝起きのミナトが髪紐を持ったまま

 鏡の前で困っていることに気付くと、

 その表情はすぐにわずかに険しくなった。


「どうした」


「髪が、上手くまとまらなくて」


 ミナトは少し恥ずかしそうに答えた。


「寝ぼけてるのかなぁ。何回やっても紐が落ちちゃうんだ」


 フィリックスはミナトの手元を見た。


 それから、髪紐を見た。


 しばらく何かを考えるように黙っていたがやがて静かに言った。


「貸せ」


「え?」


「髪紐」


 ミナトは目を丸くした。


「フィリ、結べるの?」


「分からん」


「分からないのに?」


「やってみる」


 その返事があまりにもフィリックスらしくて、

 ミナトは思わず小さく笑った。


「うん。じゃあ、お願いしてもいい?」


 髪紐を差し出すとフィリックスはそれを受け取った。


 大きな手の中では、細い布紐がひどく頼りなく見える。


 剣を握る手。


 魔物を斬り伏せる手。


 傷ついた誰かを支えるための手。


 その手が今はミナトの髪を結ぶために、

 少しだけ戸惑いながら動こうとしていた。


「後ろを向け」


 言われた通りミナトは鏡の前で背を向けた。


 すぐ後ろにフィリックスが立つ気配がする。


 昨日、背中から抱き寄せられた時とは違う。


 けれど触れられる前から、

 その距離の近さだけで呼吸が少し浅くなる。


 フィリックスの指先が、まずミナトの肩へ触れた。


 髪をどけるための、ごく短い接触だった。


 それだけなのにミナトは肩を小さく揺らしてしまう。


「痛いか」


 すぐにフィリックスが尋ねる。


「ううん、違うよ」


 ミナトは慌てて首を振った。


「びっくりしただけ」


「……そうか」


 低い声が少しだけ困ったように聞こえた。


 それからフィリックスはもっとゆっくりとした動きで、

 ミナトの髪を両手へ集め始めた。


 柔らかな髪を掬う指先は、思っていたよりも慎重だった。


 力を入れすぎれば痛ませてしまうかもしれないと考えているのか、

 髪の流れを乱さないように、何度も指を滑らせて整えていく。


 ミナトは鏡の中で、その様子を見ていた。


 自分の後ろに立つフィリックスの顔は、

 魔物と対峙する時よりも真剣だった。


 眉間にはわずかに皺が寄り、視線は自分の手元へ落とされている。


 けれどその横顔を見ていると、なぜだか笑いたくなるほど嬉しかった。


「フィリ、すごく真剣だね」


 ミナトが小さく言うとフィリックスは手を止めずに答えた。


「失敗したくない」


 その言葉にミナトは一瞬、何のことを言われたのか分からなかった。


 髪を結ぶことについてだと気付くまで、少しだけ時間が掛かった。


 けれど、気付いたあとには胸がじんわりと温かくなった。


「失敗しても大丈夫だよ」


「駄目だ」


「どうして?」


 フィリックスは答えなかった。


 ただミナトの髪をまとめる手が、ほんの少しだけ優しくなる。


 昨日から二人の間には言葉にしていないものがある。


 触れてもいいのか。


 近付いてもいいのか。


 どこまでなら、相手を困らせずにいられるのか。


 そんな迷いを抱えながらも、

 フィリックスはミナトの髪を乱暴に扱うことができなかった。


 それはきっと、髪だけの話ではないのだと、

 ミナトはぼんやりと思った。


「できた」


 しばらくして、フィリックスが言った。


 ミナトは鏡を見た。


 いつも自分で結ぶよりも少しだけ高い位置で、

 髪が不器用ながらも丁寧にまとめられている。


 結び目は少し歪んでいた。


 左右の髪の量も、ほんの少しだけ違う。


 けれど、それがどうしようもなく嬉しかった。


「ありがとう」


 ミナトは振り返り、ふんわりと笑った。


「すごく嬉しい」


 フィリックスはその笑顔を見た途端に視線を逸らした。


「変なら直せ」


「変じゃないよ」


 ミナトは首を振る。


「フィリが結んでくれたから、これがいい」


 その言葉にフィリックスは何も言えなくなった。


 けれど、耳の先が少しだけ赤くなっていることに

 ミナトは気付いてしまった。


 気付いてしまったけれど、からかうことはしなかった。


 代わりに結んでもらった髪へそっと手を触れながら、

 嬉しそうに目を細める。


「朝ごはん、行こうか」


「ああ」


 二人は並んで寝室を出た。


 食卓にはフィリックスが用意した温かなスープと

 焼いたばかりのパンが並んでいた。


 いつもと同じ朝食。


 いつもと同じ家。


 いつもと同じように、窓の外には辺境の森が広がっている。


 それでも、ミナトは何度も髪の結び目へ手を触れてしまった。


 そのたびにフィリックスは気付いているのか、

 気付いていないふりをしているのか、何も言わずにスープを口へ運んでいた。


 朝食を終えたあと、雨上がりの森へ採取に出ることになった。


 昨日の雨で、普段は乾いた岩陰にしか生えない銀露茸が

 顔を出しているかもしれないと、ミナトが図鑑を見ながら話したからだ。


 フィリックスは最初、まだ地面がぬかるんでいることを理由に

 今日は家で休んでいろと言った。


 けれどミナトが、危ない場所へは行かないことと、

 フィリックスのそばから離れないことを約束すると、

 しばらく考えたあとで、結局は一緒に行く準備を始めた。


 森は雨のあとだけ見せる顔をしていた。


 葉の上に残った雫が、朝の光を受けて小さく光っている。


 濡れた土は柔らかく、歩くたびに靴の下で静かな音を立てた。


 木々の間には薄い霧が残り、遠くの景色を少しだけ曖昧にしている。


 ミナトはいつもより慎重に歩いた。


 けれど、足元に気を付けているつもりでも、

 雨で滑りやすくなった根へ靴先を取られ、身体が少しだけ傾く。


 その瞬間、フィリックスの手がすぐに伸びてきた。


 腕を掴むのではなく、ミナトの手を取る。


 昨日までなら転ばないように支えるためだけの行動だったかもしれない。


 けれど今日は、ミナトの指先へ触れたあとも

 フィリックスはすぐに手を離さなかった。


 ミナトも、離さなかった。


 大きな手に包まれると、

 雨上がりの冷たい空気の中でも、指先だけが温かくなる。


「滑る」


 フィリックスが言った。


「うん」


 ミナトは頷いた。


 それだけのやり取りだった。


 けれど、二人とも分かっていた。


 滑るから手をつないでいるだけではないことを。


 森の奥へ進むにつれて、鳥の声が少しずつ増えていく。


 雨を避けていた小さな生き物たちが、

 ようやく朝の光へ出てきたのだろう。


 ミナトは足元の苔や、木の根元に生えた茸を見つけるたび

 フィリックスの手を引くようにして立ち止まった。


「見て、これ」


「銀露茸か」


「うん。まだ小さいけど、ちゃんとある」


 ミナトは嬉しそうにしゃがみ込んだ。


 フィリックスはその隣に立ったまま、周囲を見回している。


 けれどミナトが採取用の小さなナイフを取り出すと、

 彼は自然に手を離し、代わりにミナトの髪へ落ちてきた葉をそっと取った。


 指先が、耳の近くをかすめる。


 ミナトは思わず息を止めた。


 フィリックスもすぐには手を引かなかった。


「葉がついてた」


 低く言ってから、ようやく手を離す。


「ありがとう」


 ミナトは小さな声で答えた。


 胸の奥が採取したばかりの銀露茸よりも

 ずっと、ずっと淡く光っているような気がした。


 昼近くになり、二人は森の開けた場所で休憩を取った。


 昨日までの雨で草原の端には小さな水たまりがいくつもできている。


 その水面には青空が映り、雲がゆっくり流れるたび、

 空そのものが地面へ落ちてきたように揺れていた。


 ミナトは持ってきた軽食を広げながら、何度も自分の髪へ触れた。


「まだ気になるのか」


 フィリックスが尋ねる。


 ミナトは少しだけ照れながら笑った。


「うん。だって、フィリが結んでくれたから」


「すぐほどける」


「ほどけてもいいよ」


 ミナトは首を振った。


「ほどけたら、また結んでくれる?」


 フィリックスは、すぐに答えなかった。


 けれどミナトが不安になる前に、低く短く言った。


「ああ」


 その一言に、ミナトは目を細めた。


 また結んでくれる。


 それは髪のことだけを言っているのかもしれない。


 けれどミナトには、これから先も何度でも、

 こうして自分のそばにいてくれるという約束のように聞こえた。


 雨上がりの空は、どこまでも高く澄んでいた。


 二人の間には、まだ名前の付いていない想いがある。


 けれどそれは、昨日よりも少しだけ確かなものになっていた。


 手をつなぐこと。


 髪へ触れること。


 同じ朝を迎え、同じ森を歩き、同じ景色を見て笑うこと。


 そんな小さな触れ合いの一つ一つが、二人をゆっくりと、

 けれど確かに近付けていくのだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ