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LIBERAL ONLINE  作者: Guri
21/64

雨音のする午後

 

 渓谷から戻って数日が過ぎた頃、

 辺境の空は朝から重たい雲に覆われていた。


 窓の外では、夜のうちから降り始めた雨が

 途切れることなく地面を濡らし続け、

 屋根を叩く細かな音と軒先から絶えず落ちる雫の音が、

 どこか静かな別の世界へ変えていた。


 ミナトは朝食を終えたあと、いつものように

 薬草畑へ向かおうとして玄関の扉を少しだけ開けた。


 けれど、冷たい湿った空気と一緒に

 吹き込んできた雨粒を頬へ受けると、すぐに扉を閉める。


「今日は外、無理そうだねぇ」


 振り返りながら言うと、

 暖炉の近くで剣の手入れをしていたフィリックスが

 手元から目を上げずに短く答えた。


「無理に出る必要はない」


「うん」


 ミナトは素直に頷いた。


 本当なら、雨の日にも雨の日なりの楽しみがある。


 濡れた森でしか見つからない茸や、

 雨のあとにだけ花を開く薬草もある。


 家の裏手にある小さな沢では、

 水かさが増えた時にしか採れない素材もある。


 けれど、今日の雨は少し強すぎた。


 外へ出れば視界も悪くなり、足元も滑りやすい。


 フィリックスが心配するだろうと思うと、

 ミナトは無理をしてまで出掛けたいとは思わなかった。


「じゃあ今日は、前に採ってきた風鈴草で薬を作ろうかな」


 そう言いながらミナトは棚の上に置いていた素材箱を抱えた。


 渓谷で見つけた透明な花弁は乾燥させても淡い光を失わず、

 窓から差し込む曇った光の中でも、

 まるで小さな雫を閉じ込めたように静かに輝いている。


「眠りやすくなる薬、作ってみたいんだ」


 フィリックスの手が、剣を磨く布の上でわずかに止まった。


「この前言っていたやつか」


「うん」


 ミナトは笑った。


「怪我を治す薬みたいにすぐ役に立つものじゃないけど、

  眠れない時とか、気持ちが落ち着かない時に

  少しでも楽になったらいいなって」


 そう言ってから、ミナトはほんの少しだけ視線を伏せた。


「フィリも、もしそういう日があったら飲んでね」


 その言葉に、フィリックスは返事をしなかった。


 けれど、拒むような沈黙ではなかった。


 ミナトにはそれが分かっていた。


 ただ、フィリックスは自分のことを話すのが得意ではない。


 痛みがあっても平気だと言う。


 眠れない夜があっても、きっと何でもない顔をする。


 だからミナトは、それ以上は聞かなかった。


 いつかフィリックスが

 自分から話したくなった時に聞けばいい。


 今はただ、薬を作っておけばいい。


 そんなふうに思いながら、ミナトは台所の隅にある作業台へ向かった。


 けれど材料を並べようとして棚の上段へ手を伸ばした時、

 少し無理な姿勢になったのか、

 積み上げていた小さな瓶の一つがかすかに音を立てて傾いた。


「あ」


 ミナトが声を上げるより早く、フィリックスが立ち上がっていた。


 大きな手が棚から落ちかけた瓶を受け止める。


 同時に、よろけたミナトの身体を、もう片方の腕で引き寄せる。


 背中がフィリックスの胸へ触れた。


 強く抱き締められたわけではない。


 落ちないように支えられただけだった。


 それでも、近すぎる距離にミナトの呼吸が止まる。


 雨音が、急に遠くなったような気がした。


 フィリックスの腕が、自分の身体のすぐそばにある。


 背中越しに伝わる体温が、いつもよりずっとはっきり分かる。


「危ないだろ」


 低い声が、すぐ近くで聞こえた。


 ミナトは返事をしようとした。


 けれど、上手く声が出なかった。


「ご、ごめん」


 ようやくそう言うとフィリックスはすぐに腕を離そうとした。


 きっと、驚かせたと思ったのだろう。


 あるいは必要以上に近付いてしまったと感じたのかもしれない。


 その気配に気付いた瞬間、ミナトの胸の奥が少しだけ寂しくなった。


 橋の上で手をつないだことを思い出す。


 あの時は、フィリックスの手がとても温かかった。


 大きな手に包まれていると、何も怖くないような気がした。


 帰り道でも、家の前でも、二人は手を離さなかった。


 けれど、それから数日。


 フィリックスはいつも通り優しかったけれど、

 あの日のことには一度も触れなかった。


 ミナトも、どう聞けばいいのか分からなかった。


 嬉しかったと伝えたら、困らせてしまうかもしれない。


 自分だけが特別なことのように思っていたら、恥ずかしい。


 そんな小さな不安が、気付かないうちに胸の中へ残っていた。


 だから、離れていこうとする腕へ、ミナトは思わず手を伸ばした。


 フィリックスの服の袖を、指先でそっと掴む。


「……もう少しだけ」


 声は小さかった。


 雨音に紛れてしまいそうなくらい、小さな声だった。


 フィリックスの動きが止まる。


 ミナトは背中を向けたまま、少しだけ俯いた。


「このままでも、いい?」


 言ってしまってから、急に恥ずかしくなった。


 顔が熱い。


 自分でも何を言っているのだろうと思う。


 けれど、今さら手を離すこともできなかった。


 しばらく、フィリックスは何も言わなかった。


 ただ、ミナトの袖を掴む指先へ、自分の手を重ねる。


 大きな手が、そっと包むように触れた。


「……嫌だったか」


 不意に、フィリックスが尋ねた。


 ミナトは驚いて顔を上げる。


「え?」


「あの日のことだ」


 低い声だった。


「手をつないだ」


 ミナトは目を瞬かせた。


 フィリックスも、覚えていた。


 自分だけではなかった。


 それだけで、

 胸の奥にあった小さな不安が少しずつほどけていく。


「嫌じゃなかったよ」


 ミナトは急いで答えた。


「全然、嫌じゃなかった」


 それから、少しだけ言葉を選ぶようにして続ける。


「むしろ……嬉しかった」


 フィリックスの手が、ほんのわずかに強くなる。


 ミナトはその感触に気付き、

 胸がまた早く鳴り始めるのを感じた。


「僕、フィリの手、安心するなって思ったんだ」


 飾らない言葉だった。


 けれどそれはミナトにとって精一杯の本音だった。


 フィリックスは、長い間何も言わなかった。


 雨が屋根を叩く。


 暖炉の火が小さく揺れる。


 部屋の中には、風鈴草の淡い香りが広がっていた。


 やがてフィリックスはミナトの背中へ置いていた腕を、

 今度は逃がさないためではなく、包み込むようにゆっくりと回した。


「俺も嫌じゃなかった」


 耳元で聞こえた声は、いつもより少しだけ掠れていた。


「……あの日も」


 言葉が途切れる。


 けれど、フィリックスは逃げなかった。


「今も」


 ミナトは、目を閉じた。


 胸の奥が温かくなる。


 嬉しいのに、少しだけ苦しい。


 泣きたいような気持ちになるのに、涙は出ない。


 ただ、ここにいたいと思った。


 フィリックスの腕の中にいることが、

 どうしようもなく安心できた。


 ミナトはゆっくりと身体を向けた。


 フィリックスの胸元へ、そっと額を預ける。


 鎧を着ていない彼の胸は、思っていたよりも温かかった。


 心臓の音が聞こえる。


 一定の速さで鳴っているはずなのに、少しだけ早いような気がした。


「フィリ」


「なんだ」


「僕も、フィリのこと、もっと知りたいな」


 ミナトは胸元へ額を預けたまま言った。


「無理に聞きたいわけじゃないよ。

  でも、つらい時とか、眠れない時とか……

  僕にできることがあったら、教えてほしい」


 フィリックスはすぐには答えなかった。


 けれどミナトの髪へ触れる手は、迷いながらもとても優しかった。


 柔らかな茶色の髪を、一度だけゆっくり撫でる。


「……分かった」


 その返事は短かった。


 けれどミナトにはそれで十分だった。


 何でもすぐに話せるようになるわけではない。


 長い間、一人で抱えてきたものが今日から急に軽くなるわけでもない。


 それでも、少しずつなら。


 これから先、二人でなら。


 そんなふうに思えた。


 しばらく二人は、雨音の中で寄り添っていた。


 誰も急かさない。


 何も言わなくてもいい。


 ただ、互いの温度を確かめるように。


 やがてフィリックスが、ミナトの頭の上へ静かに言った。


「薬を作るんだろ」


 ミナトは少しだけ笑った。


「うん」


「手伝う」


「フィリが?」


「材料を取るくらいならできる」


 以前、朝食の準備をする時にも聞いた言葉だった。


 けれど今は、その言葉の意味が少しだけ違って聞こえた。


 ミナトはフィリックスの胸元から顔を上げ、

 まだ少し赤い頬のまま、ふんわりと笑う。


「じゃあ、お願いしてもいい?」


「ああ」


 二人はゆっくりと離れた。


 けれど、離れたあとも先ほど触れていた場所には温かさが残っていた。


 作業台へ並べられた風鈴草は

 雨の日の薄暗い光の中で、かすかに揺れている。


 ミナトは薬を作るための小鍋へ水を入れ、

 フィリックスは棚の上段から必要な瓶を取った。


 時々、指先が触れる。


 そのたびに二人は少しだけ目を逸らす。


 けれどもう以前のように、何もなかったふりはできなかった。


 雨の午後は長く続いた。


 けれど二人にとって、その時間は少しも退屈ではなかった。


 むしろ、外へ出られないことさえ、今日は小さな贈り物のように思えた。


 世界のどこにも行かず。


 誰にも会わず。


 ただ同じ部屋で、同じ雨音を聞きながら過ごす。


 それだけの時間が、二人の距離を、また少しだけ近付けていった。



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