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LIBERAL ONLINE  作者: Guri
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触れた指先の温度

 

 渓谷での依頼を終えた帰り道、

 二人はいつもよりゆっくりと歩いていた。


 風狼の群れを退けたことで緊張が解けたのか、

 あるいは渓谷の奥で見つけた珍しい風鈴草を

 何度も嬉しそうに鞄から取り出して眺めていたからなのか。


 行きの道ではどこか張り詰めていた空気が、

 帰りには夏の夕暮れのように柔らかくほどけていて、

 木々の隙間から差し込む橙色の光もまた、

 二人の足元を急かすことなく長く伸ばしていた。


 風鈴草は、細い茎の先に透明な花を咲かせる素材だった。


 風が吹くたびに花弁の内側に溜まった淡い魔力が揺れ、

 かすかな鈴の音のような音を鳴らすため、

 その名が付けられたのだとミナトは歩きながら

 図鑑を開いてフィリックスへ説明していた。


「これを少しだけポーションに混ぜると、

  飲んだ時に気持ちが落ち着く薬になるみたいなんだ」


 ミナトは大切な宝物でも扱うように、

 採取したばかりの風鈴草を両手で包み込んだまま楽しそうに言った。


「怪我を治す薬とは少し違うけど、

  眠れない時とか、怖いことがあった後とかに使えるらしいよ」


「そんなものまで作れるのか」


 フィリックスが尋ねると、ミナトは少しだけ困ったように笑った。


「まだ作れるかは分からないよ。

  材料を集めて、失敗しながら試してみないといけないから」


 その言葉に、フィリックスは小さく眉を寄せた。


 ミナトは何かを作る時、失敗することさえ楽しそうに受け止める。


 うまくいかなかったとしても次はどうすればいいのかを考え、

 素材の組み合わせを変え、少しずつ自分の中にある知識を増やしていく。


 その姿は、ただ生産職として優れているというだけではなかった。


 自分の手で誰かの役に立つものを作れることを、

心から嬉しいと思っているのだ。


「フィリも、もし眠れない日があったら飲んでね」


 何気なく言われたその一言に、フィリックスは足を止めかけた。


 眠れない日。


 そんなものは、昔からいくらでもあった。


 依頼の途中で野営をする夜も、危険な場所へ向かう前の夜も、

 誰にも頼らず、誰かに帰りを待たれることもなく生きていた頃の夜も、

 眠れないことは珍しくなかった。


 けれど、今は違う。


 辺境の家へ帰れば、暖炉の火があり、食卓があり、ミナトがいる。


 眠れない夜があれば、きっとミナトは無理に理由を聞き出そうとはせず

 ただ温かい飲み物を淹れて、隣に座ってくれるのだろうと、

 フィリックスはもう知っていた。


「……ああ」


 短く返した声は、思っていたより低く掠れていた。


 ミナトはそのことに気付いたようだったが、何も言わなかった。


 ただ、少しだけ歩く速度を落とし、フィリックスの隣へ自然に並んだ。


 それからしばらく、二人は言葉を交わさずに歩いた。


 森の中には、夕方を知らせる鳥の声が響いていた。


 木漏れ日は少しずつ薄くなり、昼間には鮮やかだった緑も、

 夕暮れの色を受けて深い影を纏い始めている。


 静かな時間だった。


 けれど気まずさはなかった。


 言葉がなくても、隣にいることが当たり前になりつつある。


 そのことが、二人には不思議なくらい心地良かった。


 やがて、森の途中にある小さな橋へ差しかかった時だった。


 橋の下を流れる川は昼間の光を失いながらも、

夕空の色を映して淡く輝いていた。


 ミナトは橋の中央で足を止め、欄干へそっと手を置く。


「きれいだねぇ」


 その声は、川を見つめる時だけのものではなかった。


 今日一日を振り返っているような、静かで満たされた響きがあった。


 フィリックスも少し遅れて立ち止まり、川の流れへ目を向ける。


「今日は危ないこともあったけど」


 ミナトは続けた。


「フィリと一緒だったから、怖いだけじゃなかったよ」


 フィリックスは黙った。


 ミナトは、欄干に置いていた手を自分の胸元へ引き寄せながら、

 少しだけ照れたように笑った。


「ちゃんと守ってくれるって思ってたし、

  それに……僕も、少しはフィリの役に立てたかなって思えたから」


「役に立った」


 フィリックスの返事は、考えるより早かった。


 ミナトが目を瞬かせる。


「本当に?」


「ああ」


 フィリックスは、ミナトの方を見た。


 夕暮れの光の中で見る彼の顔は、いつもより少しだけ幼く見えた。


 柔らかな茶色の髪も、穏やかな瞳も、

 何かを期待するようにこちらを見上げる仕草も、

 全部がどうしようもなく愛おしいと思ってしまう。


「お前がいたから、あの場で迷わず動けた」


 それは、フィリックスにとって珍しく長い言葉だった。


「薬も、声も、全部役に立った」


 ミナトはしばらく何も言わなかった。


 それから、花が開くようにふんわりと笑った。


「よかった」


 ただそれだけを言った。


 褒められたことを誇るのではなく、

 役に立てたことそのものを喜んでいる笑顔だった。


 フィリックスは、その笑顔を見ているうちに、

 胸の奥が苦しくなるほど温かくなるのを感じた。


 守りたいと思う。


 けれど、それだけでは足りない。


 ミナトが自分の隣で笑ってくれることを望み、

 その笑顔の理由の中に自分がいられることを願い、

 これから先もずっと、こうして同じ景色を見ていたいと思っている。


 その感情はもう、以前のように曖昧なものではなかった。


「ミナト」


 呼ぶと、彼が振り返った。


「なに?」


 フィリックスは一度だけ迷った。


 今までなら、ここで言葉を飲み込んでいただろう。


 まだ早い。


 今の関係を壊したくない。


 そう考えて、何でもない顔をして歩き出していたかもしれない。


 けれど、ミナトはいつだって、自分の気持ちを隠さずに差し出してくれる。


 嬉しい時は笑う。


 寂しい時は少しだけ目を伏せる。


 ありがとうと思えば、きちんと口にする。


 その優しさに甘えて、

自分だけが何も伝えないままでいることは

少しずるいような気がした。



「……無理をするな」


 結局、口から出たのはそんな言葉だった。


 けれど、そこに込めた想いは一つではない。


 危ない場所へ行く時も。


 新しい薬を試す時も。


 誰かのために自分のことを後回しにしそうになる時も。


 ずっと隣にいてほしいから。


 失いたくないから。


「フィリもだよ」


 ミナトはすぐに答えた。


「フィリだって、いつも自分のこと後回しにするでしょ」


「俺は平気だ」


「それ、平気じゃない人が言う言葉だよ」


 ミナトは少しだけ頬を膨らませた。


 本気で怒っているわけではない。


 けれど、フィリックスのことを心配しているのが伝わってくる。


「怪我をしても、大丈夫って言うし」


「大丈夫だから言ってる」


「でも、痛いのは痛いよ」


 その言葉は、あまりにも優しかった。


 ミナトは誰かが痛みを我慢することを、当たり前だと思わない。


 きっと自分自身が、長い間、

 痛みや苦しさと一緒に生きてきたからなのだろうと

 フィリックスはぼんやりと思った。


 けれどミナトは、そのことを自分から語らない。


 ただ、他人の痛みに気付き、そっと寄り添う。


「だからね」


 ミナトは少しだけためらったあと、そっと右手を差し出した。


「フィリも、困った時とか、つらい時とか……

  一人で平気って言わないでほしいな」


 差し出された手は、夕暮れの中で小さく見えた。


 戦い慣れた者の手ではない。


 剣を握るために硬くなった手でもない。


 薬草を摘み、鍋をかき混ぜ、壊れた道具を直し、

 誰かの傷へそっと触れるための手だった。


 フィリックスは、その手を見つめた。


 触れていいのかと、ほんの一瞬だけ迷った。


 けれど、ミナトは急かさなかった。


 ただ穏やかに待っていた。


 だからフィリックスは、ゆっくりと自分の手を伸ばした。


 大きな手が、ミナトの手へ重なる。


 指先が触れた瞬間、ミナトがわずかに息を呑むのが分かった。


 それでも手を引くことはなかった。


 フィリックスも、離さなかった。


 強く握り込むのではなく、

 逃げ道を塞ぐような力を込めるのでもなく、

 ただそこにある温度を確かめるように、そっと指先を包み込む。


「……分かった」


 フィリックスは低く言った。


「お前が言うなら、少しは頼る」


 ミナトは目を細めた。


「うん」


 嬉しそうな返事だった。


 そのまま二人は、しばらく橋の上に立っていた。


 川は変わらず流れ続けている。


 風が吹き、木々が揺れ、遠くで鳥が鳴く。


 世界はいつもと同じように静かに動いているのに、

 重ねた手の温度だけが、今までとは

 少し違うものになったような気がした。


 家へ帰る道でも、二人は手を離さなかった。


 最初は、ただ橋を渡るまでのつもりだったのかもしれない。


 けれど、橋を過ぎても。


 森を抜けても。


 辺境の家の屋根が見えてきても。


 どちらからともなく手を離すことはできなかった。


 玄関の前へ辿り着いた時、

 ミナトはようやく自分たちの手元を見下ろした。


 それから、少しだけ恥ずかしそうに笑う。


「……帰ってきちゃったね」


「そうだな」


 フィリックスは答えた。


 けれど、手を離す気配はなかった。


 ミナトもまた何も言わずに指先を少しだけ動かし、

 フィリックスの手へ自分の手を重ね直した。


 その小さな仕草が、言葉よりもずっと深く胸へ残る。


 二人の距離は、急に変わったわけではない。


 朝の食卓で交わした短い言葉や。


 森を歩く時に自然と揃う歩幅や。


 怪我を心配して差し出された薬や。


 帰る場所で聞く「おかえり」の声や。


 そんな小さなものを何度も、

 何度も重ねながら少しずつ近付いてきたのだ。


 そして今、夕暮れの終わりに触れた手の温度が、

 これから先の二人を、また少しだけ変えていくのだった。



 

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