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LIBERAL ONLINE  作者: Guri
19/64

風の通る場所

 

 夏祭りから数日が過ぎても、ミナトは時々、

ふとした瞬間に夜空を見上げていた。


 もちろん昼間の空には花火など浮かんでいないし、

 辺境の家の周りには祭りの灯りも人々の笑い声も、

 甘い焼き菓子の匂いも残ってはいない。


 それでも、あの夜に見た光の花が胸の中にはまだ咲いているようで、

 夕食の支度をしている時や、薬草畑へ水をやっている時、

 窓辺の飾り石へ朝日が当たった時などに、

ミナトは思い出したように小さく笑った。


「まだ祭りのこと考えてるのか」


 ある朝、畑の脇で水差しを傾けていたミナトへ

薪を抱えたフィリックスが声を掛けた。


 ミナトは少し驚いたように顔を上げ、


 それから見つかってしまったことが恥ずかしいのか、


 頬をわずかに赤くしながら笑った。


「うん、少しだけ」


「そんなに楽しかったか」


「すごく楽しかったよ」


 ミナトは水差しを置き、青々と育った薬草の葉を傷つけないように


 指先でそっと撫でながら答えた。


「花火も綺麗だったし、屋台も面白かったし、

  それに……フィリと一緒に歩けたのが嬉しかったんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、

フィリックスは薪を下ろす手を、ほんのわずかに止めた。


 ミナトは何か特別な意味を込めて言ったわけではないのだろう。


 彼はいつだって、嬉しいと思ったことをそのまま口にする。


 誰かと一緒にいられたことが嬉しいなら、嬉しいと伝える。


 助けてもらったなら、ありがとうと言う。


 綺麗なものを見つけたなら、綺麗だと笑う。


 その真っ直ぐで柔らかな優しさが、


 フィリックスの中にあるものを何度も揺らしていた。


「……そうか」


 それだけ答えるのが精一杯だった。


 けれどミナトは、フィリックスの返事が


 少しだけ柔らかかったことに気付いたのか、嬉しそうに目を細めていた。



 その日の昼前、二人は久しぶりに冒険者ギルドのある街へ向かった。


 祭りの時ほどの賑わいはもうなかったが、街にはまだ夏の名残が残っていて

 通りの端には色鮮やかな布飾りがいくつか揺れ、

 広場の露店では祭りの限定品を

 名残惜しそうに売っている商人たちの声が聞こえてくる。


 ミナトは馬車を降りると、いつものように少しだけ周囲を見回した。


 辺境の静けさが好きであることは変わらない。


 けれど、こうして人の暮らしが集まる場所へ来ると、それはそれで胸が弾む。


 知らない人の会話。


 見慣れない装備。


 露店に並ぶ新しい素材。


 この世界には、自分がまだ知らないものが

 いくらでもあるのだと、改めて思わせてくれるからだった。


「今日は依頼を受けるの?」


 ミナトが尋ねると、フィリックスはギルドの扉を見上げながら短く頷いた。


「近くの渓谷で、風狼が増えているらしい」


「風狼?」


「群れで動く魔物だ。普段は人里へ下りないが、最近は採取者を襲っている」


 ミナトは少し心配そうに眉を下げた。


「怪我をした人、いるのかな」


「いるだろうな」


 フィリックスの声は低かった。


 冒険者として危険な依頼に慣れているからこそ、

 その言葉には余計な飾りがない。


 ミナトはしばらく黙っていたが、やがて自分の鞄へそっと手を添えた。


 そこには、普段より多めに作っておいた回復薬と、状態異常を和らげる薬、


 それから風の属性を持つ魔物へ効きやすいように調整した

 小さな投擲用の瓶が入っている。


「僕も行っていい?」


 フィリックスはすぐに眉を寄せた。


「駄目だ」


「でも、回復薬があった方が安心だと思うし」


「危ない」


「危なくならないところにいるよ」


 ミナトは急かすように言うのではなく、

 相手の気持ちを受け止めるように、ゆっくりとした声で続けた。


「フィリが守ってくれるって、分かってるから」


 その言葉は、フィリックスを黙らせるには十分だった。


 信じている、と言われることに、彼は弱かった。


 特にミナトから言われると、どれほど危険だから駄目だと思っていても、


 そのまっすぐな瞳を前にして、強く拒むことができなくなる。


「……俺の言うことを聞け」


 しばらくしてから、フィリックスは低く言った。


「勝手に動くな。離れるな。危ないと思ったら、すぐに後ろへ下がれ」


 ミナトの顔が明るくなる。


「うん、約束する」


 その笑顔を見て、フィリックスは自分が甘いことを自覚した。


 けれど後悔はしていなかった。


 むしろ、ミナトが自分の隣で安心したように笑っていることが

 どうしようもなく嬉しかった。


 渓谷は、街からさらに半日ほど歩いた先にあった。


 切り立った岩壁の間を、強い風が絶えず吹き抜けている。


 風が岩肌へぶつかるたび、どこか遠くで笛を鳴らしているような音が響き、

 足元には細かな砂や枯れ葉が舞い上がっていた。


「すごい風だね」


 ミナトは髪を押さえながら、周囲を見回した。


 渓谷の奥には、細い道が何本も続いている。


 地図には大まかな形しか載っていない。


 けれど、岩壁の隙間や、風によって削られた洞穴の奥には、

 まだ誰も見つけていない素材や、隠された通路があるかもしれない。


 危険な場所であることを忘れたわけではない。


 それでも、知らない場所へ足を踏み入れる時の

 胸の高鳴りはミナトの中から消えることがなかった。


「足元を見ろ」


 フィリックスが言う。


「うん」


 ミナトは素直に頷き、フィリックスの少し後ろを歩いた。


 しばらく進んだ頃、岩陰の向こうから低い唸り声が聞こえた。


 風の音とは違う。


 生き物が喉の奥で鳴らす、警戒と敵意の混じった音だった。


 フィリックスの身体がすぐに動く。


 腰の剣へ手を掛け、ミナトの前へ立つ。


 次の瞬間、岩陰から数匹の風狼が飛び出してきた。


 灰色の毛並みを持つ狼に似た魔物で、その身体の周囲には薄い風が渦巻いている。


 風が牙のように鋭く地面を削り、近付く者を寄せ付けないように唸りを上げた。


「下がれ」


 フィリックスの声が低く響く。


 ミナトはすぐに数歩後ろへ下がった。


 怖くないわけではない。


 けれど、フィリックスの背中が目の前にあると、不思議と落ち着く。


 その背中はいつも大きく見えた。


 傷を負って倒れていたあの日とは違う。


 今は誰よりも強く、迷いなく前へ立っている。


 フィリックスが剣を抜く。


 銀色の刃が、渓谷を抜ける光を受けて一瞬だけ鋭く輝いた。


 風狼たちが一斉に飛びかかる。


 けれどフィリックスは、まるで風の流れそのものを読んでいるように身を翻し、

 最初の一匹の爪を避け、そのまま横薙ぎに剣を振るった。


 硬い音が響き、魔物が地面へ転がる。


 残りの風狼が、今度は左右から距離を詰めてくる。


 ミナトは鞄から小瓶を取り出した。


 自分で作った、風の流れを乱すための薬だ。


 まだ試作段階だった。


 けれど、洞窟で見つけた光石の粉末と春露草の蜜を少し混ぜることで、

 空気中の魔力へ短い間だけ干渉できるようにしてある。


「フィリ、右!」


 ミナトが声を上げる。


 フィリックスが視線だけを動かした瞬間、ミナトは小瓶を地面へ投げた。


 瓶が割れる。


 淡い青色の霧が広がる。


 風狼の身体を包んでいた風が、ほんの一瞬だけ乱れた。


 それだけで十分だった。


 フィリックスは迷わず踏み込み、二匹の風狼を一息に斬り伏せる。


 残った一匹は仲間を失ったことを悟ったのか

低く唸りながらも渓谷の奥へ逃げていった。


 戦いが終わると、渓谷には再び風の音だけが残った。


 ミナトはすぐにフィリックスへ駆け寄る。


「怪我してない?」


「してない」


「本当に?」


「本当だ」


 フィリックスは短く答えた。


 けれどミナトは安心しきれないようで、

鎧の隙間や腕のあたりを目で確かめている。


 その様子を見て、フィリックスは少しだけ困ったように息を吐いた。


「お前の方は」


「僕も大丈夫」


 ミナトは笑った。


「ちゃんと後ろにいたよ」


 その言葉を聞いて、フィリックスはようやく少しだけ肩の力を抜く。


 そして、地面に散った小瓶の欠片へ目を向けた。


「今のは何だ」


「風を少しだけ弱くする薬」


「作ったのか」


「うん。まだ上手くいくか分からなかったんだけど」


 ミナトは少し照れながら、鞄の中に残った小瓶を見せた。


「フィリが戦う時に、少しでも楽になればいいなと思って」


 その言葉に、フィリックスはしばらく何も言えなかった。


 自分のために。


 ミナトは、いつもそうやって何かを作る。


 怪我をした人のために薬を作り。


 寒い日には温かい料理を作り。


 壊れた道具を見つければ直し方を調べ。


 自分が戦うためではなく、誰かが少しでも楽になれるようにと考える。


 それがどれほど危うく、どれほど優しいことなのかを、


 ミナトはあまり分かっていないのかもしれない。


 だからこそフィリックスは、胸の奥から湧き上がる感情を抑えられなかった。


 守りたい。


 誰よりも。


 何があっても。


「次から、試すなら先に言え」


 やっと出てきた言葉は、思ったよりも不器用だった。


 ミナトはきょとんと目を瞬かせたあと、ふわりと笑った。


「うん、分かった」


 それから少しだけ首を傾げる。


「でも、役に立ってよかった」


 その笑顔を見て、フィリックスは目を逸らした。


 役に立った。


 確かに役に立った。


 けれど、それ以上に。


 自分のために作ったのだと言われたことが、どうしようもなく嬉しかった。


 依頼を終えたあと、二人は渓谷の少し開けた場所で休憩を取った。


 風はまだ強かったが、岩壁の影に入ると幾分か和らぐ。


 ミナトは小さな布を地面へ広げ、

 その上に持ってきた軽食と冷たい果実水を並べた。


「外で食べると、いつものパンでも少し美味しいね」


 ミナトが言う。


 フィリックスは受け取ったパンを見つめ、それから一口だけ食べた。


「そうかもな」


 その返事に、ミナトは嬉しそうに笑った。


 遠くには、渓谷の奥へ続く細い道が見える。


 まだ踏み入れていない場所。


 まだ見つけていない素材。


 まだ知らない景色。


 この世界には、これからもきっと数え切れないほどの発見が待っている。


 けれどフィリックスにとっては

今この瞬間、風の通る岩陰でミナトと並んで座り、

 同じパンを食べていることの方がどんな珍しい宝よりも大切に思えた。


 ミナトが隣にいる。


 笑っている。


 明日もまた、家へ帰る。


 それだけで十分だった。


 夏の風は、二人の間を通り抜けながら、

まだ言葉にならない想いを静かに運んでいった。





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