夏の足音
春が終わりへ近付く頃には、辺境の景色はすっかり色を変えていた。
若葉だった木々は濃い緑を纏い、森には様々な花が咲き乱れ、
小川の水量も増えて勢いよく流れている。
空は高く青く、吹き抜ける風は心地良い。
季節はゆっくりと夏へ向かっていた。
その日もミナトは朝早く目を覚ました。
窓を開ける。
爽やかな風が頬を撫でた。
鳥のさえずりが聞こえる。
朝日に照らされた森が輝いて見える。
それだけで自然と笑顔になった。
「いい天気だなぁ」
ぽつりと呟く。
こんな何気ない朝が好きだった。
病院で暮らしていた頃は、
朝が来ることを特別嬉しいと思ったことは少なかった。
毎日同じ景色。
毎日同じ天井。
毎日同じ生活。
もちろん家族は優しかったし、不幸だったわけではない。
けれど、今は違う。
朝が来るたびに新しい一日が始まる。
今日は何を見つけられるだろう。
今日はどこへ行こう。
そんなことを考えるだけで楽しかった。
「起きてたのか」
後ろから声がした。
振り返る。
フィリックスが二階から降りてきていた。
まだ少し寝起きらしく、銀髪が乱れている。
ミナトは思わず笑った。
その無防備な様子が珍しくて、少しだけ胸がくすぐったい。
「おはよう」
「おはよう」
短い返事。
けれど昔よりずっと柔らかい。
最初の頃なら考えられないくらい自然な声だった。
ミナトはそんな変化が嬉しかった。
フィリックスは元々優しい人なのだと思う。
ただ不器用なだけで。
少し警戒心が強いだけで。
本当は温かい人だと知っている。
だから笑顔になる。
フィリックスも、そんなミナトの笑顔を見て
ほんの少しだけ目を細めた。
それだけのことなのに、朝の空気がやわらかくなる気がした。
「朝ごはん作るね」
「手伝う」
「え?」
ミナトは目を瞬かせた。
フィリックスが手伝いを申し出ることは珍しくない。
最近では薪割りもするし、水汲みもするし、家の修繕までしている。
完全に住人だった。
「パン切るくらいならできる」
「ふふっ」
ミナトは笑う。
「じゃあお願いしようかな」
二人で朝食を作る。
パンを切る。
スープを温める。
果物を並べる。
それだけ。
それだけなのに楽しかった。
ミナトが鍋を火にかける間、フィリックスは黙ってパンを切っていた。
手つきは相変わらず丁寧で、無駄がない。
けれど時折、こちらを気にするように視線だけを寄越すのが分かる。
それに気付くたび、ミナトは少しだけ嬉しくなった。
一人で暮らしていた頃も寂しかったわけではない。
けれど。
誰かと過ごす食卓は温かい。
誰かがいてくれる朝は嬉しい。
最近はそう思うようになっていた。
食事を終えると、二人は庭へ出た。
春に植えた果樹の苗が少し大きくなっている。
薬草畑も青々としていた。
「順調だな」
フィリックスが言う。
「うん」
ミナトは嬉しそうに頷いた。
「来年はもっと大きくなると思う」
そう言いながら葉を撫でる。
その指先はやわらかく、苗を傷つけないようにそっと触れている。
その姿を見ていたフィリックスは、ふと気付く。
最近、自分は未来を考えるようになっている。
来月。
来年。
その先。
昔はそんなことを考えなかった。
冒険者は危険な仕事だ。
明日生きている保証などない。
だから目の前だけを見て生きてきた。
だが今は違う。
来年もこの木を見たいと思う。
来年もこの家に帰りたいと思う。
来年もミナトと笑いたいと思う。
それが当たり前の願いになっていた。
そして、その願いの中心にいるのがミナトだと気付くたび、
少しだけ落ち着かなくなる。
嬉しいのか、くすぐったいのか、自分でもうまく言えない。
ただ、悪い気はしなかった。
「フィリ?」
呼ばれる。
我に返る。
「どうしたの?」
心配そうな顔だった。
ミナトは本当に人の変化によく気付く。
少し黙っているだけで気付く。
少し疲れているだけで気付く。
だからフィリックスは時々困る。
そんな顔をされると安心してしまうから。
「なんでもない」
そう答える。
するとミナトは小さく笑った。
「そっか」
無理には聞かない。
それも優しさだった。
フィリックスはその横顔を見て、少しだけ視線を落とす。
聞かれたくないことを無理に踏み込まない。
それなのに、離れていくわけでもない。
その距離感が、今の自分にはちょうどいいのだと気付いていた。
午後になると二人は森へ向かった。
今日は採取だけではない。
以前見つけた湖の近くに、新しいエリアがあるらしいのだ。
それを調べに行く。
まるで冒険だった。
ミナトの足取りは軽い。
新しい発見が待っているかもしれない。
未発見の素材があるかもしれない。
隠しイベントがあるかもしれない。
そんな想像だけで胸が躍る。
「楽しそうだな」
フィリックスが言う。
ミナトは振り返る。
そして少し照れたように笑った。
「だって楽しいもん」
その答えはあまりにも素直だった。
「まだ知らない場所がいっぱいあるんだよ?」
瞳がきらきらしている。
「何年遊んでも終わらないなんてすごいよね」
その声には心からの感動が滲んでいた。
この世界が好きだった。
ここで過ごす時間が好きだった。
そして、
隣にフィリックスがいる今は、なおさら好きだった。
その言葉はまだ口にしない。
けれど、
フィリックスと歩く森は楽しい。
フィリックスと見る景色は綺麗だ。
フィリックスと笑う時間は嬉しい。
そんな気持ちは少しずつ育っていた。
本人も気付かないほどゆっくりと。
森の木々が何年もかけて成長するように。
静かに。
穏やかに。
確かに。
二人の距離は近付いていた。




